GAME −第一話−

 誰しも眠れない夜というものはあるものだ。
 悪夢にうなされることもあるし、疲れ果てて逆に脳が冴えきってしまうこともある。
 珊瑚も、長くそんな夜に悩まされた。
 眠らなければ、休んでおかなければ、仲間の足手まといになる。無理にでも睡眠をとらなければと自分を叱咤する。
 そんな彼女の眠りは次第に一人の法師によって護られていった。
 少しずつ心を癒されることによって、傷はまだ残ったままであるものの、よっぽどのことがない限り、連日不眠に悩まされる日々は減っていった。
 しかし、その代わり、同じ人物によって別の意味で眠れぬ夜がある。
 風の強い深夜、かのひとの胸中を想って。
 闇の中、彼がそっと右掌を見つめる姿を見てしまったとき。
 そして、何かの拍子に法師と二人きりで一晩を過ごさなければならなくなったとき。
 もちろん、かごめが実家に戻り、そこに犬夜叉が同行したとしても七宝が残っているのだが、如何せんまだ幼い彼に、一晩中起きて見張りをしろなどというのは無理である。
 どこまで本気なのか、迫ってくる法師に平手を食らわせても、珊瑚の胸の高鳴りは治まらない。
 彼が本気で自分を襲うとは思わなかったが、彼にとっての“許容範囲”がどこまでなのか想像もつかないだけに、そのような夜は眠るどころではなかった。
 そして、今宵もまた、どんどん夜は更けてゆくというのに、珊瑚は眠れずに頑張っていた。

 ただし、相手は犬夜叉である。

* * *

 発端は何気ないかごめの提案であった。
 夕餉のあと、手持ち無沙汰な一同の前に、リュックの中から一組の絵札を取り出した。──トランプである。
 一勝負しようというかごめに、弥勒がおっとりと首を傾けた。
「かごめさま、今日は国へ帰る予定だったのでは?」
「うん。そうなんだけど、明日は日曜日だってこと思い出しちゃった。明日一日、実家で勉強させてもらうから、今夜は少々帰るのが遅くなってもいいわ」
 そうして、かごめはトランプの説明を始める。
「ババ抜きが一番解りやすいかな。ねえ、せっかくだから、何か賭けようか」
「いいですな」
 かごめの言葉ににっこりと応じる弥勒。
 しかし、興味のなさそうな犬夜叉は腕を組んで壁にもたれたまま。珊瑚は思案顔。七宝は雲母とともにすでに部屋の隅で寝息をたてている。
「けっ。そんな女子供の遊戯、おれはやらねえぞ?」
「あたしも、賭け事はちょっと……」
 かごめと弥勒は顔を見合わせた。
 二人でババ抜きをしたところで面白くもなんともない。
「犬夜叉、賭け事は大人の遊びですよ?」
「珊瑚ちゃん、賭けるっていったって、別にお金とかじゃないし」
 それでも渋る二人に、かごめはぽんと手を打ち鳴らした。
「そうだ。一番負けた人に、勝った三人がそれぞれしてほしいことを頼むっていうのはどう?」
「いいですよ。それでいきましょう」
(この際、はっきり犬夜叉に勉強の邪魔するなって言うわよっ)
(珊瑚にしてほしいこと……いろいろあるが、どれを頼もう)
 にっと再び顔を見合わせたかごめと弥勒は、それぞれ、犬夜叉と珊瑚が負けることを勝手に想定している。
 意味ありげな微笑でこちらを見遣る法師の視線を受け、珊瑚は背筋がぞわぞわっとするような嫌な予感を覚えた。
「かごめちゃん、あたしやっぱり……」
「珊瑚ちゃん、弥勒さまを負かして、浮気するなと言っちゃえばいいのよ」
 素早くかごめが珊瑚の耳にささやく。
 その言葉は効果てきめんだった。
 途端に珊瑚の表情が動き、彼女は決然とした瞳を上げると、かごめの手を握った。
「かごめちゃん! あたし、絶対法師さまを負かしてやる!」
 かごめは笑顔でうなずき、
「ね、犬夜叉。あたしが負けたら、あんたの好きなもの、向こうから何でも持ってきてあげるわよ」
 犬夜叉の眼がきらりと光る。
「干し芋もか?」
「もちろん。ポテトチップスでも、カップ麺でも、たっくさん」
「おう。そこまで言うんなら、おれも加わってやってもいいぜ」
 さすがはかごめ。
 いとも簡単に二人を説得してしまった。

 コチコチコチ、と時を刻む時計の音だけが緊迫した部屋の中に響いている。
 かごめはちらと時計に眼をやり、ため息をついた。
「ねえ。まだあ?」
「うるせえっ! 今この瞬間に、おれの干し芋が懸かってんだ」
「珊瑚、もうそろそろ休みませんか?」
「法師さまは黙ってて! 集中できないだろ!」
 犬夜叉と珊瑚の大接戦に、正直、こんなことを言い出した自分をかごめは呪った。
 欠伸を噛み殺し、今にもくっつきそうな瞼を無理やりこじあけている彼女の身体は、ゆうらりゆうらりと舟を漕いでいる。
 三回勝負ね、と決めたババ抜きは、結果、弥勒の一人勝ち。
 一回戦は珊瑚が負け、二回戦は犬夜叉が負けた。そして、敗者が決まるこの三回戦。
 どんどん夜が更けていくというのに、信じられない回数、ジョーカーが犬夜叉と珊瑚の間を行き来している。
 互いに負けず嫌いの二人は真剣な表情でビリを競っているのだった。

「おおっ! やった! おれの勝ちだぜ」
 ハートのエースとスペードのエースを宙にまき、勝ち誇った笑みを見せる犬夜叉の前で、手に残されたジョーカーを見つめ、珊瑚の肩がふるふると震える。
「嘘だ……かごめちゃんや法師さまはともかく、犬夜叉に負けるなんて……」
「おう、珊瑚。勝負の世界は厳しいんだ。潔く負けを認めるんだな」
 つい先刻、女子供の遊びには興味がねえ、とか言ってたのは誰だっけ? とかごめは呆れた表情を見せたが、ふと罰ゲームのことを思い出すと、一瞬、眠気が消し飛んだ。
「ねえ、珊瑚ちゃん。じゃあ、珊瑚ちゃんがあたしたちの言うこと、ひとつずつ聞いてくれるのよね?」
 きらきら輝くかごめの瞳にじぃっと見つめられ、珊瑚はうっと身を引いた。
「……な、何してほしいの?」
「珊瑚ちゃんに、一度、あたしの世界の服を着てみてほしいんだけど」
 珊瑚は無言でかごめの短いスカートに視線を落とした。
「おお。それは是非。私もかごめさまの衣を着た珊瑚を見てみたいものです」
 やはりかごめのスカートに眼を向ける弥勒をちらりと横目で見て、珊瑚は真っ赤になって首を振る。
「無理っ! そんな短い衣、あたしには絶対無理っ」
「あ……いや、別にミニスカートを穿けって言ってるわけじゃないんだけど」
 両手で顔を覆って首を振る珊瑚と、そんな珊瑚をにこにこと眺めている弥勒を見比べて、かごめは言葉をつぐむ。──でも、ミニスカートも似合うと思うけどなあ。
「じゃあ、短くないのを選ぶから。それならいいでしょ?」
「……う、うん」
 しぶしぶ、珊瑚がうなずく。
「ねえ、犬夜叉は珊瑚ちゃんに何お願いしたい?」
「おれか?」
 犬夜叉は腕を組んでしばし考えた。
 珊瑚に干し芋を持ってこいというのは無理だ。
「そうだな。じゃあ……撃剣の相手にでもなってもらうか」
「ああ、それならお安い御用だよ」
 ほっとしたように珊瑚は答えた。
「プロを相手に戦闘シュミレーションってわけね」
 うんうんとうなずきながらかごめが言ったが、彼女の科白は誰も理解できない。
 険のある眼つきで法師がちらりと犬夜叉を睨んだ。
「そんなことをして、珊瑚の玉の肌に傷でもついたらどうしてくれるんですか」
「法師さま、別に本気で決闘するわけじゃないんだし」
 珊瑚の言葉は弥勒にも犬夜叉にも素通りされた。
「なら、鉄砕牙は使わねえ。おれは素手で充分だ。ただし、臭い玉は使うなよ」
「駄目です。素手で珊瑚に挑んで、そのまま珊瑚が押し倒されでもしたら一大事」
「何考えてんだ!」
 赫い顔をした犬夜叉と珊瑚の口から、呆れた声音が異口同音に叫ばれた。
 どうしても弥勒が承知しないので、犬夜叉は珊瑚に夕餉を作ってもらうことで妥協した。
「そんなことでいいの?」
「珊瑚の飯は美味いからな」
 もともと食い意地が張って受けただけの挑戦で、犬夜叉に珊瑚を困らせる気など毛頭ない。
「弥勒さまは?」
 法師が珊瑚に何を要求するのか、興味津々でかごめが尋ねた。
 珊瑚の眼が屹となるのを鷹揚に眺め、弥勒はゆっくりと言う。
「私は明日一日、雲母の役目を代わってもらいましょう」
「は?」
 意味不明な法師の言葉に、一同はきょとんとした。
(なんで雲母?)
 もっとすごいことを要求されるのではと身構えていた珊瑚は、彼の意図が掴めないままも、意外におとなしい弥勒の頼みにほっとする。
「いいよ。じゃあ、明日は法師さまは雲母なんだね?」
「はい」
 不思議そうな珊瑚ににっこりと応じる弥勒。
「ふああ……じゃあ、もうお開きにしましょ。まさか犬夜叉と珊瑚ちゃんの勝負だけで何時間もかかるとは思わなかったわ」
 一応の結論を見たところで、かごめが大きな欠伸をした。
 懐中電灯の灯りで時計を見ると、時刻はすでに深夜どころか明け方に近かった。

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2007.11.16.