GAME −第二話−

「珊瑚。……さーんご。朝ですよー?」
「ん……もう朝?」
 夕べ、床に就いたのが明け方近かったから、まだ眠い。
 しかし、朝餉の仕度をしなくてはならないから、そうも言ってはいられない。
 耳元でささやかれる猫なで声が誰のものかという疑問を持つこともなく、珊瑚はまだ重い瞼をこじあけた。
「さ、ん、ご」
「……!」
 眠気など一瞬で吹っ飛んだ。
「ほっ、ほっほっ──!」
「なに季節外れに鶯の鳴き真似なんかしてるんです」
「法師さまっ! ななななんでっ? もうちょっと離れてっ」
 布団に横たわる珊瑚に覆いかぶさる弥勒の顔が、鼻先が触れそうなほど近くにある。
 硬直した珊瑚は、なんとか両手だけを動かし、力いっぱい弥勒の顔を向こうに押しやった。
「いたた……珊瑚、ちょっと乱暴すぎやしませんか?」
「どっちが! っていうか、何やってんの!」
「だから、珊瑚を起こしに」
「普通に声かけてくれればいいだろっ」
「だって」
 と、珊瑚の傍らに正座した弥勒は邪気の欠片もない清廉な顔で微笑んだ。
「私は今日、雲母ですから」
「は?」
「雲母なら、珊瑚を起こすとき、顔を舐めるんじゃないかなあと……」
 あたふたと上体を起こした珊瑚はぎんっと法師を睨む。
「別に舐めなくても前脚で肩を揺するとか、いくらでも方法あるだろ?」
「でも選択は雲母の自由でしょう? 今日の雲母は舐めたい気分だったんです」
「……」
 脱力した珊瑚は、両手の中に顔を埋めてしまった。

 ──この調子で、今日一日あたしは法師さまにからかわれるんだ──

 かごめは朝一番に実家に帰ったという。
 犬夜叉は珍しくかごめに気を遣ったのか、こちらの世界でおとなしくしているようだ。樹上で昼寝を決め込んでいる。
 珊瑚は楓を手伝い、てきぱきと家事をこなしていた。
「珊瑚、川へ行くんですか?」
 大きな盥に洗濯物を入れた珊瑚が屋内から出てくると、涼やかな法師の声が聞こえ、反射的に珊瑚は身構えた。
「法師さま、雲母なら七宝とあっちに行ったよ」
「雲母を観察するのではなく、雲母の立場に立って珊瑚に接するんです」
 言いながら、弥勒は珊瑚から盥を受け取り、代わりに自分の錫杖を持たせた。
「え……手伝ってくれるの?」
 雲母は洗濯なんかしないけど、とつぶやく珊瑚に弥勒は微笑む。
「確かに猫に洗濯は無理ですが、二人でやったほうが早くはかどるでしょう」

 今朝の起こし方からして、今日一日、弥勒は自分をからかって遊ぶつもりなのだろうと考えていた珊瑚は、真面目に洗濯を手伝う彼を見て、首を傾けた。
 川辺に並んで腰を下ろし、他愛ない会話を続けながら、せっせと手を動かしている。一人旅が長かったためか、こういうことにも慣れているようで手際がよい。
「法師さまって、何をやらせても器用だよね」
「そうですか? でも、おまえがいなければできないこともありますよ」
「なに? あたしにできることなら何でもするよ」
「いずれ……子が欲しいからな」
 からかうように口の端をあげて珊瑚を見た黒い瞳は悪戯っぽい光を放っていたが、その表情は驚くほどやさしかった。
 珊瑚の全身が一気に熱を持つ。
「馬鹿っ!」
 真っ赤な顔をして、必要以上に力を込めて手の中にある布をごしごしとこすりだした娘の様子に、弥勒は頬が緩むのを抑えられない。
「珊瑚」
「……」
「そういう約束だったでしょう? 忘れたんですか」
「口を動かさずに手を動かす!」
「はい」
 純情な娘の反応が愛らしくて、くすくす笑いながら弥勒は洗濯を続けた。

「さて、終わった」
 最後の一枚を固く絞り、それを盥に載せたとき、二人の背後から複数の声がかけられた。
「弥勒さま」
「弥勒さま、何してるんですか」
「おや。みなさん、おそろいでどちらへ?」
 顔馴染みの村の娘たちだ。それぞれが背負籠を背負い、五人が連れ立っている。
 愛想よく笑顔で応える法師の様子に、珊瑚の表情が、知らず、険しくなった。
「山菜摘みに行くんです。弥勒さまもご一緒に行きません?」
 娘の一人が挑戦するような眼差しをちらりと珊瑚に向け、甘い声で法師を誘った。
 珊瑚の表情がますます強張る。
「ね、いいでしょう?」
 一人が弥勒の腕を取り、珊瑚は思わず眼を逸らして顔をうつむかせた。
 法師の返事など決まっている。聞きたくない。
(どうせまた鼻の下のばしてへらへらするんだろ)
 けれど、弥勒は珊瑚の予想を見事に裏切ってくれた。
「残念ですが」
 法師は娘たちににっこりと微笑みながら、傍らの珊瑚を眼で示す。
「私は今この娘のそばにいたいので」
 驚いて珊瑚が顔を上げると、娘たちも一瞬、ぽかんとした表情を見せた。弥勒がこれほど直接的な言葉で娘たちの誘いを断るのは初めてではなかろうか。
 彼女らは不満そうに珊瑚を睨みつけながら去っていく。
 珊瑚はわけが解らない。
 いつもなら、結果的に断るにしても、珊瑚の気を揉ませるようなひと悶着が起こるはずだ。
「あ、あの」
「何です?」
「あっちへ行かなくていいの?」
 思わず言ってから、しまった、と珊瑚は両手で口を塞ぐ。──自ら墓穴を掘るようなことを言ってどうする。
 しかし、弥勒は珊瑚の動揺には気づかぬふうにあっさりと言い放った。
「雲母なら、当然そう言って珊瑚を選ぶでしょう?」
 珊瑚は眼をぱちくりさせた。
「……あ、雲母……そっか。法師さまは、雲母だもんね」
 なんだ、とつぶやく珊瑚に来たときと同じように錫杖を持たせ、弥勒は洗い終わった洗濯物を積んだ盥を抱えた。
「さあ、帰りますよ、珊瑚」
「う、うん」
 まるで何事もなかったように平然とした法師の態度に、珊瑚も毒気を抜かれたようになる。
 並んで帰路に着きながら、ちらちらと法師の横顔を盗み見ていた彼女は、口許に小さな微笑を揺らめかせ、頬を赤らめた。
(まるで仲のいい夫婦みたいだ)
 いつか、雲母の立場に立ってではなく、弥勒自身の言葉として、さっきのような科白を言ってほしいと思う。
 珊瑚の視線に気づいた弥勒が、あたかも彼女の胸中を見透かしたように、柔和な笑顔でうなずいてみせた。

 家事がひとくぎりつくと、弥勒は珊瑚を散歩に誘った。
「少しくらいなら構わんでしょう?」
「うん。夕餉の下ごしらえもすんだし。法師さまが手伝ってくれたから、いろいろ早く終わったよ。法師さまが雲母っていうのも……悪くないね」
 最後の言葉は、微かに染まった頬を隠すようにうつむいて小さく発せられた。そんな珊瑚の耳元に弥勒が唇を寄せる。
「今日の私たちは、まるで仲のいい夫婦のようだな」
 不意に低くささやかれたその言葉にどきりとして、珊瑚はきゅっと両手を握り締めた。
(法師さまがあたしと同じこと考えるなんて……)
 恥ずかしさと嬉しさがないまぜになり、どんな顔をしていいのか判らない。
 耳まで染まった顔を不自然に自分から逸らして歩く娘の様子を横目で確かめて、法師はその秀麗な顔に含みのある笑みを乗せた。

 やわらかい陽射しのもと、野に出ると、いきなり法師は珊瑚に問うた。
「ところで、珊瑚は大きい雲母と小さい雲母、どちらがよい?」
「は?」
「夕べはほとんど眠れなかったでしょう。天気がいいので昼寝でもどうかと」
「それで?」
「大きい雲母なら私の膝枕でおまえが昼寝、小さい雲母ならおまえの膝枕で私が昼寝」
「なっ……!」
 絶句した珊瑚は二、三度まばたきをして、さっと顔を赤らめた。
「いつまでも調子に乗ってんじゃな──
「ほらほら。負けた人はいうことを聞くんでしょう?」
 ぐっと言葉につまり、しぶしぶその二つを天秤にかけた珊瑚は、自分が膝枕するほうがまだましだと考えた。法師の膝枕など、考えただけで心臓が破裂しそうになる。
 何をされるか判ったものじゃない。
「小さい雲母」
 ぼそっとつぶやいた珊瑚がその場に腰を下ろすと、弥勒はひどく嬉しげに彼女の膝に頭を乗せた。
「はあー。一度やってもらいたかったんですよねえ」
「あたしじゃなくても、今まで綺麗な女の人に数え切れないくらいやってもらったんじゃないの?」
 恥ずかしさに耐え切れず憎まれ口をたたく珊瑚の頬を、横たわったままの姿勢で伸ばした弥勒の手がすいと撫でた。
「解ってませんね。おまえでなければ意味がないんですよ」
 甘い声音に、膝の重みに、体温が急上昇する。どちらにしても心臓に悪い。
「眠いんだろ? さっさと寝な」
 ふいっとそっぽを向いてわざとぞんざいに言うと、口許に微笑を浮かべたまま、弥勒はおとなしく眼を閉じた。

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2007.11.17.