GAME −第三話−

 もう眠ってしまったのだろうか。
 自分の膝の上で規則正しく洩れ聞こえる呼吸の音に耳を澄ませ、珊瑚はおそるおそる法師の髪に触れてみた。
「やだ、本当に寝てるの?」
 法師が眠りに落ちていると知るや、少しだけ大胆になった珊瑚は、上から彼の顔を覗き込むように少し背を丸め、その寝顔をじぃっと見つめた。
(それにしても、綺麗な顔立ちしてるなあ)
 そうっとそうっと頬を撫でてみる。
(あ、意外と睫毛長い)
 いつも恥ずかしさが先に立ち、こんな近くで彼の顔をじっくり眺めたことはなかった。彼が眼を覚まさないことが、さらに珊瑚を大胆にさせる。
(もしかしたら、そこらの女よりよっぽど綺麗なんじゃないの?)
 娘たちが群がるわけだ。そう考えると、わけもなくむかむかしてきた。
 弄んでいた前髪をつん、と引っ張ってみる。
「うん……」
 弥勒は小さく身じろいだが、眼を覚ますことはなかった。
(安心して、身を委ねてくれてるのかな)
 法師さまのこんな姿を見られるのはあたしだけ? ううん、自惚れかもしれないけど──
 くす、と自然と口許が綻び、珊瑚はなんだか嬉しくなる。
 このままずっと弥勒の寝顔を眺めていたかったが、昨夜の睡眠不足がたたり、ほどなく、うつらうつらと珊瑚自身も舟を漕ぎ始めた。

 ふと瞼の裏に翳りを感じて眼を覚ました弥勒は、自分に向かって倒れ込みそうにゆらゆらと揺れている珊瑚の顔を見て、驚いて声を上げた。
「わっ……」
 慌てて両手を伸ばして彼女の肩を支える。
 珊瑚は前かがみの姿勢のまま、かろうじて弥勒の手に支えられ、首だけかくんと前へ倒した。
 すうすうと聞こえてくる寝息に弥勒は苦笑を洩らす。
「無防備だな」
 珊瑚の膝から身を起こし、彼女の身体をそっと草の上に横たえてやると、それこそ猫のようにあどけなく身を丸める。そんな娘の頭を弥勒は自分の膝の上に乗せた。
 ──相手が雲母だと、こうも気を許すのか? それとも私だからか?──
 弥勒はふっと微笑んだ。
 本当は、何の憂いも屈託もない、ただ恋仲にある男女としておまえと一日を過ごしてみたかっただけだと、そんな本音を口にすれば、おまえはどんな反応を見せただろう。
 きっと真っ赤に頬を染めて拒んだだろうな。
 だから、雲母を出しに使わせてもらった。
 雲母であれば、珊瑚のそばにいるのが当たり前の存在だから。
「珊瑚」
 こんなささやかな幸福感にいつまでも浸っていたいと切に願う。
 弥勒の手がやわらかく珊瑚の髪を撫でる。
 ──気持ちいい。
 大きな手でやさしく髪を撫でられる心地好さにうっとりと珊瑚が寝返りを打とうとしたとき、細く開けた視界に自分を見下ろす法師の顔が飛び込んできた。
「……えっ、なんでっ?」
 法師の膝の上で眠っていた珊瑚は仰天して飛び起きた。
(えっと、確か膝枕をしていたのはあたしのほうで、眠っていたのは法師さまのはずで……)
 何故それが逆になっているのか記憶にない。
 朱に染まった頬を両手で押さえ、あたふたとする珊瑚に、法師は雅やかに微笑んだ。
「よく眠ってましたよ」
──そう、みたいだね。……ごめん」
「いいえ。珊瑚の寝顔を間近でじっくり見せてもらいましたから」
「そっ、そんなの見たって面白くもなんともないだろっ」
 照れ隠しのためか、勢いよく立ち上がった珊瑚は、ぱんぱんと着物に付いた埃を払った。
「そろそろ帰りますか?」
「うん。夕餉の仕度があるし。……法師さまは?」
「もちろん一緒に帰りますよ。雲母はどこへ行くのもおまえと一緒でしょう?」
「う、うん。そうだね」
 立ち上がって伸びをした弥勒は当たり前のように珊瑚の手を取り、そのまま二人は帰途についた。
 どこかくすぐったいけれど、どうしようもなく嬉しくて、このままどこまでも道が続けばいいと思う。
 ちらと法師を盗み見ると、いつもと同じ穏やかな横顔は、けれど、いつも以上にやさしい何かを含んでいるようで。
 珊瑚の視線に気づいたのか、絡めた指にそっと力が込められる。
 思わず珊瑚も彼の手を握り返した。が、
(やだ、あたしってば)
 すぐに自分の行動を恥じらって、うつむいてしまった。
 鼓動がやけに大きく聞こえる。──法師さまに聞こえてしまわなければいいけど。

「よいしょっと」
 かごめが井戸から出てきたとき、辺りはすでに薄暗かった。
「おや、かごめさま」
 眼を凝らすと、こちらへやってくる弥勒の姿が見えた。
「こちらへ来るのは今日でしたっけ?」
「あ、えっと、明日は学校へ行くつもりなんだけど」
 かごめは曖昧に言葉を濁した。
「今日は珊瑚ちゃんが犬夜叉のために夕食を作るんでしょ? 気になって、戻ってきちゃった」
「勉強ははかどりましたか?」
 含みを持たせた弥勒の声に、かごめは法師をちろりと睨む。
「弥勒さま、解ってて言ってるでしょ」
「何のことですかな」
 悪戯な笑みを見せる法師を横目にかごめはふうっとため息をついた。
「なんかね、犬夜叉がいないと嫌に静かっていうか、却って落ち着かなくて──
「で、犬夜叉の顔が見たくて戻ってきたと」
「そんなんじゃないけどっ」
 かごめがむきになって否定したとき、樹上から緋色の水干姿がざっと地に飛び降りた。
「やっぱりかごめだ」
「犬夜叉」
 かごめと弥勒が同時にそちらを顧みる。
「おまえの匂いがしたから来てみたんだ。なんで弥勒と一緒なんだ?」
「私はおまえを捜しに来たんですよ。夕餉ができたから犬夜叉を呼んでこいと珊瑚に言われまして。おまえのことだから、たぶん井戸の辺りにいるだろうと」
「ばッ……それじゃ、まるでおれがいつもかごめを追っかけてるみてえに聞こえるだろーが!」
「違うんですか?」
 とぼけたような弥勒の声にぐっとつまる。
 法師はくすりと笑うと、かごめに小さくささやいた。
「珊瑚に夕餉を頼んだ手前、気を遣ってこちらにいたようですが、一日中そわそわしてましたよ」
 かごめはふわりと笑顔になると、後ろを向いてしまった半妖の少年の腕を取った。
「なっ、何だよ!」
「珊瑚ちゃんのご飯、冷めちゃうよ。早く行こ?」
 少女の笑顔には敵わない。
 照れてそっぽを向きながらも、半妖はおとなしく少女に促されるまま、帰路を歩いた。

「あ、かごめちゃん」
 楓の小屋に入ると、暖かな灯りと部屋中に漂う美味しそうな匂いが三人を出迎えた。
「へへ、戻ってきちゃった。あたしも夕食ここで食べてもいい?」
「もちろんだよ。実は張り切って作りすぎちゃったんだ。かごめちゃんにも食べてもらえたら嬉しいよ」
 すでに夕餉の準備は整っていた。
 楓の姿もある。七宝も雲母も食べずに犬夜叉を待っていたらしい。
「かごめ、戻ってきたんじゃな。犬夜叉はかごめを迎えに行っておったのか?」
 嬉しそうに声を上げる七宝に微笑み、かごめたちはそれぞれの位置に座った。
「ただいま、七宝ちゃん、雲母。それに楓ばあちゃん。待たせてごめんね」
「おら、もう腹ぺこじゃ」
 それぞれが箸を取り、いただきます、と手を合わせた。
「美味えぞ、珊瑚」
「ほんと? あんたの口に合ってよかった。どんどん食べて。七宝も」
 きのこ尽くしの膳が並んでいる。数種類の茸が入った雑炊に、吸い物、和え物、そして。
「きのこ雑炊、美味しい! ん? この香りは……」
 七宝の隣に座ったかごめが雑炊とは違う香りのもとを探すと、それはあった。
「きゃあっ、松茸こんなに! どうしたの、これ。珊瑚ちゃん、採ってきたの?」
 芳しい香りを放つ焼き松茸が、それもかなりの数、皿に盛ってある。
「犬夜叉に喜んでもらおうと思ったら、やっぱり香りかなって。朝一番に雲母と採ってきたんだ」
「雲母って、弥勒さま?」
 かごめがちらりと法師のほうを見遣る。
「ううん。本物の雲母」
「かごめさま、珊瑚ってばひどいんですよ。朝餉を終えると、私を避けてさっさと姿をくらましてしまったんです」
「本当じゃ。茸狩りに行くなら、おらもつれていってほしかったのに」
 せっせと箸を動かす七宝からも不満げな声が上がった。
「だから、ごめんってば、七宝。次は必ず声かけるから」
 弥勒を避けた珊瑚の心情がかごめには手に取るように解る。
 今朝の彼女は川に行こうとしたところを弥勒に捕まってしまうまで、彼にからかわれるまいとひたすら法師を避けて動いていたのである。
 珊瑚ちゃんらしいな、とかごめは微笑ましく彼女を見つめた。
 そうなると、彼女と彼女の想い人である法師が今日一日をどのように過ごしたのかが気になるところであったが、かごめよりも珊瑚のほうが先に口を開いた。
「あれ? でも、かごめちゃんは今夜こっちにいてよかったの?」
「えっ、あの、珊瑚ちゃんの手料理が食べたくなって」
「かごめさまは犬夜叉の様子が気になって戻ってこられたんですよ」
 珊瑚の隣に座る法師がこそっと彼女に耳打ちすると、そうか、とつぶやいた珊瑚はくすくすと笑い出した。
 弥勒が言った言葉は犬夜叉にもかごめにも聞こえなかったが、いつもにも増して親密な二人の様子にかごめは興味をそそられる。
「弥勒さまと珊瑚ちゃん、なんだか新婚夫婦みたい」
 特に大きな声で言ったわけではないが、珊瑚がぴっと固まった。
「かっかっかごめちゃん、なに言って──
「えー? だってそんな雰囲気なんだもん。楓ばあちゃんもそう思うでしょう?」
「そうだな。珊瑚はよい嫁になる」
 真面目くさった口調でさらりと言い、悪戯っぽく隻眼を向けてくる老巫女の視線を受け、珊瑚は首まで真っ赤になった。
「楓さままで!」
「やっぱりそう見えます? 今日の珊瑚は夫に従う従順な妻のようにしおらしくて……」
「あんたは黙ってな!」
「珊瑚、おかわり!」
「おらも」
「みぃ」
 慌てて彼らの椀に雑炊のおかわりをよそう珊瑚を見て、かごめはくすりと笑みをこぼす。
「新婚なのに、珊瑚ちゃん、お母さんみたい」
「何しろ、二十人の予定ですから」
 大勢で囲む夕餉はにぎやかで楽しく、平和な晩秋の宵は穏やかに更けていった。

 食事の後片付けが終わる頃には、小屋はすっかり静かになっていた。
 珊瑚にはやはり弥勒がぴったりとくっついて、彼女の仕事を手伝っている。
「一日雲母をやってて、疲れなかった? 法師さま」
「いえ全然。楽しかったですよ」
「そう?」
 少しはにかんだような表情を見せ、珊瑚はやや安堵の混じった吐息を洩らした。
 やっと不自然に付きまとわれる一日が終わった。
 今日は今日でいろいろ嬉しかったし、普段とは違う楽しさも満喫したが、この調子で毎日接せられると己の心臓がもたない気がする。
(やっぱり法師さまは法師さまのままが一番いい)
 だって、無理して雲母のように振る舞わなくても、そのままの法師さまがあたしは好き──
 自分自身の思考に赤面する珊瑚を瞳に映し、夜具を延べ終わった弥勒はすっと彼女に近寄ると、背後から彼女の耳にささやいた。
「さて。これからが最後の雲母の役目ですね」
「何それ」
 きょとんと振り返る珊瑚に、弥勒はわざとらしくため息をついた。
「雲母はいつもおまえに寄り添って寝ているでしょう?」
「はあっ?」
 珊瑚は大きく眼を見開く。
「約束は“一日”ですからね。まだ終わってません」
 しれっと言う弥勒に珊瑚は唖然とした。
「か、かごめちゃんは?」
「もう国へお帰りに」
「犬夜叉は?」
「かごめさまについていきました」
「七宝は?」
「腹がふくれたので、あちらの部屋ですでに夢の国ですよ」
 にんまり、という形容詞が似合いすぎる笑みを湛えて珊瑚を夜具の上に座らせる法師を、彼女は呆気にとられて見つめている。
「心配せずとも、私たちの仲を邪魔する者は誰もいません。さあ、床へ入りましょう」
「き、雲母……」
「本物の雲母は七宝が抱いてますよ。今夜は冷えるので暖かくして寝なさいと言っておきました。おまえは私が直接温めてあげます」
「あ、あの、法師さま? あたしまだやることが残ってて──そうだ、飛来骨の手入れをしなきゃ」
「昼間しているのを見ましたが」
「……」
「雲母なんですから変なことはしませんよ」
「いや、それでも、困……」
 弥勒は燈台の灯りをふっと吹き消した。途端に、室内は闇に染まる。
「や……あの、ちょっ」
 珊瑚を横たえさせようと彼女の二の腕を掴み、やわらかく力をかけてくる弥勒と、横たわるまいとそんな弥勒の腕を押し返す珊瑚。
 法師の添い寝をどうかわそうかと必死に考えるも、刻一刻と夜は更け……

 今宵もまた、眠れぬ夜を迎える珊瑚なのであった。

≪ 第二話 〔了〕

2007.11.23.