静かだった。
 ひんやりとした冷たい空気。
 時折、水面に雫が落ちる小さな音がした。
「う……」
 小さく呻き、珊瑚はぼんやりとする自らの意識を追った。
 水に流される中、最後に見たものは、自分と法師を捕捉してくれた頼もしい雲母の姿。
 混沌とする意識の中で、珊瑚は頬に押し付けられるやわらかな毛並みを感じ、重い手を持ち上げて、それに触れた。
「……雲母」
 倒れた珊瑚の頬に頭をこすりつけていた小さな猫又が、珊瑚のつぶやきに応えるように、嬉しそうに彼女の頬を舐めた。
「ここは……?」
 薄暗い。
 森閑としているそこは、洞穴の中のようだ。
「法師さま」
 珊瑚は雲母を抱いて、身を起こした。
 暗いが、周囲が見えないことはない。
 四方を岩壁に囲まれていたが、一方の壁には何ヶ所か隙間があり、そこから太陽の光が洩れてくる。そちら側の壁だけは自然の岩壁ではなく、石を積んで塞がれているようだ。
 その向こうは外界だと判り、少しほっとして、珊瑚は立ち上がった。
 ひどい怪我をしている弥勒が気になる。
 暗い中、眼を凝らすと、倒れている人間が二人いた。
 一人は法師。もう一人は、豊吉だろう。
 珊瑚は雲母を地面に下ろし、弥勒の傍らに膝をついた。
「法師さま。法師さま、しっかりして」
 負傷している身体を揺らさないよう、軽く頬をたたき、彼の耳元にささやきかけた。
「……さん……ご?」
 掠れた声が彼女の名を呼び、力なく法師の瞼が動く。
「法師さま、判る? 湖は抜けたようだ。たぶん、もう大丈夫」
「珊瑚──
 気だるげに身を起こそうとする弥勒の身体を珊瑚が支えた。
「う……」
 彼は胸を押さえて、低く呻く。
「無理しないで。町へ戻るまで手当てはできないけど、今、何か止血できるものを探す」
「いや、大丈夫です。傷は大したことはない」
「でも、ひどい血だった」
 弥勒は、血の染みがある己の緇衣の胸元に触れた。
 袈裟はまとっていない。
「半分以上は真名の血だ。まやが投げた短槍は、私が懐に入れていた、あの白珠の欠片に刺さったんです」
「あの真珠色の欠片?」
 珊瑚は驚いて眼を見張った。
「でも、どうして」
「あれは真名の欠片だった。皮肉なことに、主人を助けようとしたまやの行為が、逆に真名にとどめを刺すことになってしまったんです」
 珊瑚の肩を借りて、弥勒は立ち上がった。
 湖に呑まれたはずだが、二人の髪や衣は、さっと通り雨に濡れただけのような、そんな程度の濡れ方で、もう乾きかけていた。
 目が薄暗さに慣れてくると、錫杖や袈裟、飛来骨などが辺りの地面に落ちているのが判った。
 豊吉もただ意識を失っているだけのようで、脈はしっかりしている。
 珊瑚は雲母を肩に乗せ、弥勒は錫杖を手に取った。
 ぽたり、と水面に雫の落ちる音がする。
 洞穴はそう深くはなく、何やら、奥のほうに岩のような黒い塊があるだけだ。
「ここはどこなんだろう。湖から出て、ここに辿りついたってことは、あの湖とこの場所には、何かつながりがあるってことだよね」
「どうやら、あの奥にあるものが答えらしいな」
 近づいてみると、それは岩ではなく、古い水甕であることが判った。
 水甕の周辺に散らばっているものに気づいた弥勒が、はっとする。
 焼け焦げた布の切れ端、そして、黒焦げになったたくさんの紙片。
「湖の正体はこれか」
「えっ? これが、あの湖?」
 つぶやく弥勒の言葉を聞いて、珊瑚が驚いたように彼を見た。
 洞穴の天井から滴る雫が、水甕の中に溜まった水に、ぽたりと落ちた。
 長い年月が経過しているのだろう、あちこちが剥げて、黒ずんだ水甕には、縁いっぱいまで洞穴の天井から滴る水が溜まっていた。
 法師は懐から破魔札を取り出し、用心深く水甕の中を覗いた。
「見ろ、珊瑚。暗いが、解るか?」
 弥勒に言われ、水が満たされた水甕の中を覗き込んだ珊瑚は息を呑んだ。
「何かいる。──ミイラ?」
 水甕の中に三尺ばかりの蛇が、とぐろを巻いた姿のまま、ミイラとなって鎮座していた。
 影が揺らめく。
 刹那、蛇のミイラがゆらりと動いた。
「!」
 水の中、真珠色の気泡が光のように舞い上がってミイラを包み、ミイラは美しい白蛇と化した。白蛇は金色に光る眼で、水の外にいる弥勒と珊瑚をかっと威嚇した。
 珊瑚の手が刀の柄にかかり、素早く法師が水甕に破魔札を貼った。
 たちまち真珠色の光は消え、白蛇はもとのミイラに戻った。
「これが、真名……」
「ああ。蛇の妖だ。何十年、もしくは百年以上も前にここに封じられ、以来、封印を破ろうとあがき続けていたのだろう」
 弥勒は水甕の周囲に散らばったものを指し示した。
「布は袈裟、紙片は破魔札の残骸です。水甕は袈裟に包まれ、たくさんの破魔札が貼られていたような跡がある。いにしえの僧侶が真名を封じたのだろうが、封印されてなお、真名はまやを使役して贄を集め、妖力を取り戻し、ここから出ようとしたのでしょうな」
 一人、贄を喰らうごとに、ひとつ、階層が水上へと近づく。
 それは貼られた呪符の数だったのかもしれない。
「あの美しい白蛇。法師さまが拾った欠片は、白蛇の──真名の鱗だったんだね」
「そう。そして、あの鱗が私たちをいざない、水城の門を開き、最後には水城を崩壊させる鍵となった」
 みう、と雲母が鳴いた。
 いつの間にか珊瑚の肩から降りていた雲母は、水甕の近くに落ちている何かを示した。
 一尺ほどの蛇の骸だ。
 躯を両断された姿で死んでいる。
「これは、まやだ。飛来骨を受けて、水城の高欄から落ちた」
「ああ。そのようだな」
 小さな蛇の周りには、いくつかの美しい真珠色の鱗が落ちていた。
 あるいは真名が、力の弱いまやに己の妖力を分け与えるため、鱗を与えていたのかもしれない。
 二人はまやの屍を、主人の水甕の中にそっと沈めた。

 洞穴の入り口をふさぐように石が積まれた側の壁には、小さな隙間が数ヶ所あった。一番大きな隙間は、足許にある。
「この足許の端っこの隙間、この大きさ、雲母なら出られるかな」
「どうでしょう。これは、人間だと腕一本がやっと……」
「……」
 別の場所で、同じやり取りをしたことを思い出し、二人は顔を見合わせた。
 ここは、来るときに通った、山の斜面で見た石積みの内側だ。足許の隙間は、外界と水城を行き来する、まやの出入り口だったのだろう。
「もしかしたら、雲母はすでに、まやの正体を見ていたのかもしれないね」
 石積みの構造を調べ、弱い箇所を飛来骨で崩し、そうして、ようやく外へ出ることができた二人は、外の空気を大きく吸い込んだ。
 太陽が斜めに傾き、鮮やかな茜色の空を見る限り、今は夕刻であるようだ。
「つ……」
「まだ、ひどく痛む?」
「そりゃ、まともに刺さったんですから。でも、何とか普通に動けます」
 彼が無事であることに、今さらながら安堵して、珊瑚は法師の袂をそっと握った。
「よかった……法師さまが無事で、本当によかった」
 雲母がいる限り、崩壊した水城からは帰還できると信じて疑わなかったが、傷を負った法師が心配でならなかったのだ。
「おまえのおかげです」
 愛しさと感謝を込めて、弥勒は彼女を軽く抱きしめた。

 気を失ったままの豊吉を洞穴から外に出し、弥勒は崩れた洞穴の入り口にも破魔札を貼った。
「ここはもう一度、封印し直す必要があるな。明日にでも、近在の寺を訪ねて、供養と封印を頼みましょう」
「うん」
「だが、結局、骨折り損だったな。まやからは代金をもらい損ねるし、欠片は売れず、こんな怪我をするし」
「それに、夢に現れた美女は妖だったしね」
 淡々と言う珊瑚に、弥勒は、はは、と苦笑を返した。
「でも、豊吉さんを助けることができたんだから、いいことをしたんだよ。真名だって、あのままにしておけば、いずれ封印を破ってよみがえり、人間に仇なす存在となっただろうから」
「そうですな」
 変化した雲母に町の入り口まで往復してもらい、豊吉を運び、二人は再び町へ戻った。
「だが、珊瑚。町では、人殺しはまだ解決していないんですよ」
「うん、これから伝えるんだもの。だから?」
 不思議そうな顔をする珊瑚に、弥勒は大真面目に説明する。
「旅の法師もまやも見つからないとなれば、最初に発見した男が疑われているでしょう。豊吉どのを証人に事の顛末を話せば、人殺しの汚名を着せられた男や豊吉どののご家族は、さぞ、礼金をはずんでくれるでしょう」
「本当に転んでもただでは起きないね、法師さま」
 呆れたように、珊瑚はほっとため息をついた。

* * *

 豊吉の家も大きな商家だった。
 行方知れずだった豊吉が戻り、全ては妖怪の仕業だと知った彼の家族は、息子の無事をたいそう喜び、法師と珊瑚に充分すぎるほどの礼金を用意した。
 知らせはすぐに町中に広まり、明日にでも、近在の寺の僧侶に妖の供養と封印を頼むと、人々は弥勒に約束した。
 二人は豊吉とその家族に、ぜひ、屋敷に泊まってほしいと言われたが、それを辞退し、町の宿にもう一泊することにした。
 夕闇の中、豊吉の屋敷を出た弥勒と珊瑚は、昨日の宿屋に部屋をとった。
 珊瑚は豊吉の家で小袖に着替えている。
「いいの? 法師さま。ただで泊めてくれるのを断って」
「あの屋敷に泊まったら、珊瑚が危ない。豊吉どのがおまえを見る目に気づいていないんですか? 絶対に夜中に珊瑚の部屋に忍んできますよ」
「それはまあ……あの人、法師さま以上に見境なさそうだしね」
「それに、最初から私たちは二人きりで一夜を過ごす予定だったでしょう?」
「紛らわしい言い方しないで。……最初から雲母も一緒だし」
 不穏な事件が一応の解決をみたので、妖怪を退治してくれた二人と一匹を、宿屋の主人も歓迎してくれた。
 案内された部屋にはすぐに夜具が用意され、粥の椀に漬け物とひしおの皿が添えられた夜食の膳まで運ばれてきた。雲母の分もある。雲母の粥には小さな干し魚がついていた。
 やっと緊張から解放され、温かい粥を食べて、弥勒と珊瑚は、ようやく人心地がついた気がした。
 この宿を逃げるように出たのは、つい今朝のことであるはずなのに、もう何日も前のことのように思える。
「法師さま、聞いてもいい?」
 妖怪退治とは別に、珊瑚にはずっと気がかりなことがあった。
「なんです?」
「真名とは……結局、どこまでいったの?」
「一部始終を見てたんじゃないんですか?」
「錯乱した豊吉さんがあたしに迫ってきたから」
「ほう?」
 粥を食べる手をとめ、ちらと弥勒は珊瑚を見遣る。
「真名の肌にじかに触れたとか、く、口づけしたとか」
 弥勒の眼差しにはまるで気づいていない珊瑚は、おどおどと不安そうに眼を伏せたまま言った。
「残念ながら、どこまでと言えるほどのことはしていませんよ」
「“残念”? ……って、なに」
 釈然としない珊瑚は、胡乱な目付きで弥勒を見た。
「そりゃ、豊吉どののあんな言葉を聞いたら、男なら誰だって興味を持ちますよ。ですが、あくまでも興味です。おまえに対する気持ちとは全然違う」
「でも、抱きしめたりしたんでしょ?」
「まあ、そこは油断させるため、仕方がないでしょう。でも、真名をこの手に抱いてみて、やはり、私が求めるのは珊瑚ひとりだと実感しました」
 神妙そうに言う弥勒だが、珊瑚はどこまでも疑わしそうだ。
「く、口づけたりとかは?」
「していませんよ。口づけなどしようものなら、こっちが危ない。真名の吐息は甘く、毒を持っているとすぐに判りましたから」
「あ、だから、風穴は使わなかったんだ」
「豊吉どのを見る限り、毒を吸っても死ぬことはないと思いましたが、どれほどの毒かは判らなかったので、風穴は使わなかったんです」
 静かに粥をすする二人を、やわらかな燈台の灯りが照らしている。
 あの妖しい水城での出来事が嘘のような静けさだ。
「そう言うおまえはどうなんです?」
「何が?」
「豊吉どのに迫られて、どこまでいったんです?」
 からかうような声音と、何もなかったと知っているような彼の表情に、珊瑚はやや不機嫌な様子で瞳を伏せた。
「……屏風を倒しただけ」
「そういえば、豊吉どのは大きなこぶを作っていましたな」
 楽しそうに法師はくすりと笑った。
 気を利かせたのか、粥を食べ終わった雲母は、先に衝立の向こうの夜具へ寝に行ってしまった。
 食事を終えた二人の座る距離は、何となく近くなる。
 いつの間にか、法師は娘の肩を抱き寄せていた。
「ねえ。もう、法師さまの夢に真名が出てきたりしないよね」
「どうでしょうな。そうならないように、今宵は添い寝を頼みます」
 彼女が返事を返さないので、弥勒は、おやというように、さり気なく珊瑚のほうを窺った。
 一言のもとに撥ね付けられるだろうと思っていたが、娘はほんのりと頬を染め、うつむいて黙したままだ。
 本当に添い寝してくれる気なのだろうか。
「ほ、法師さまは怪我人だから、一晩、付き添ってもいいよ」
「同じ夜具で?」
「あたしは起きてる。法師さまがうなされたら、すぐに起こしてあげる」
「では、私も一緒に起きていよう」
「法師さまは休まなきゃ。体力を使い果たしているんだし」
 硬い、低い声。彼女はやはり下を向いたままだ。
「珊瑚。顔を見せて」
 おそるおそる顔を上げた珊瑚の頬は、恥じらうように紅潮し、瞳はどこか潤んでいた。その瞳を、法師は間近にじっと見つめた。
 顔を近づけると、彼女は躊躇いながらも瞼を閉じた。
 弥勒は静かに珊瑚と唇を合わせ、癒しを求めるように、愛しい娘とのゆるやかな口づけに耽った。
「この手に抱いていたいのは、おまえだけです。だから……」
「言っとくけど、法師さまのそんな言葉、あんまり説得力ないから。真名が妖怪じゃなくて、人間だったとしても、そう言い切れる?」
「もちろん」
 珊瑚の言葉は照れ隠し以外の何ものでもない。
 さらりと肯定した弥勒が彼女を己の腕の中に閉じ込めても、珊瑚は逆らわずにじっとしていた。
 身を固くしている娘の様子が可憐で、弥勒の口許にやさしい微笑が揺蕩った。
 これはもうひと押しで口説き落とせるだろう。
 今宵くらいは、甘い夢を見たいと思う。

≪ 第六話 〔了〕

2015.11.23.

雨月物語の「蛇性の婬」がベースです。