仄蒼い霧が流れ、漂い、広縁にしとやかに手をついたまやの姿を覆っていく。
屏風の陰から三人を見守っていた珊瑚は、まやの姿を見失わないようにじっと目を凝らした。
飛来骨を片手で支え、そこに片膝をつく珊瑚と、そして雲母は、いつでも飛び出していけるよう、臨戦態勢で構えていた。
「嘘だ……嘘だ……」
そんな二人のすぐ横にうずくまる若者──豊吉は、呆然と頭をかかえ、ぶつぶつと独り言を洩らしている。
「肝を喰らう……? 聞き間違いだ、そうに違いない」
「ちょっと、静かにしてもらえる?」
小声で珊瑚がたしなめると、豊吉は秀麗な顔を強張らせ、蒼白になって珊瑚を見つめた。
「あなたも聞いたか? あの真名どのが、おれを喰らうと言った。贄にするため見繕った? に、贄とは、どういうことだ」
「あたしも法師さまも、それを知りたいんだ。だから、ちょっと黙ってて」
いつの間にか、部屋には法師と真名が二人きりになっていた。
まやの姿は消えている。
おもむろに法師が口を開いた。
「せっかくのお招きですが、私にはあまり楽しい話ではないようですな」
立ったままの真名は艶めかしい目付きで弥勒を見下ろし、白小袖の上に羽織っていた小袖を婀娜めいた仕草でするりと落とした。男の目に自分がどう映るのか、計算しつくしたような仕草だった。
「極楽を味わわせてさしあげましょう。私の贄となるのも悪くないと思われるような」
「美しい方に誘われるのは、悪い気はしませんな」
「何も考えず、身を委ねてくだされば、すぐに何もかもがどうでもよくなってしまいますわ」
白い肌衣姿で、真名は法師の前に膝をつき、身を乗り出した。
弥勒は拒む様子もない。
そのまま、ゆっくりと顔を近づけ、法師に口づけようとする真名だったが、唇が触れる寸前で、ふと動きをとめて、身を引いた。
「どうされました? 真名どの」
真名はしなを作るように口許に手を添えている。
「法師さま、その匂いが興をそぎます。袈裟をお脱ぎくださいませ」
「匂い?」
「抹香ですわ。袈裟に染み付いています。閨に相応しい香りとは……」
「お嫌いですか? 気にしなければいい」
どこか落ち着きを失ったように、真名は弱々しげに瞳を伏せた。
「でも……あの、つまり、お召し物を脱いでほしいという意味ですの。女に恥をかかせたもうな」
「これは無粋なことを」
法師はごく自然な所作でなめらかに袈裟を解いた。
「さあ、真名どの。こちらへ」
弥勒の手が真名の手首を掴み、やわらかく引き寄せる。
「あっ……」
抱き寄せられ、倒れ込むように法師の腕の中に納まった真名が、なよやかな声を洩らした。
「法師さま、その右手に巻かれた数珠も邪魔ですわ」
「これは邪魔にはなりますまい」
「取ってください。素手で触れてくださいませ」
「あなたこそ、何も考えず、私に身を任せて」
艶やかな眼差しで真名を見つめ、弥勒は、低く甘くささやいた。
「ああ、いや。錫杖も数珠も、そんなものは、みな、あちらへやって」
逆らわずに、封印の数珠だけを残し、彼は脱ぎ捨てた袈裟や錫杖を枕元にまとめた。
「口吸いをして。早く──もう、待てません」
法師の首に両手を巻き付け、もどかしげに唇を合わせようとする真名だったが、その動作にはまるで気づかぬように、弥勒は彼女の動きをかわし、甘い吐息が洩れる唇を避けて、抱き寄せた真名の躰を褥に押し倒した。
「ああ……」
色めいた真名の声が室内に妖しく響く。
屏風の後ろから、ぴりぴりとした緊張が伝わってくる。
そこでは、片膝をついて待機している退治屋の娘が、片手で飛来骨を支え、苛々と法師と真名の抱き合う様子を見守っていた。
「あのスケベ法師、なに考えてるんだ。いくらなんでも、やり過ぎじゃないの?」
珊瑚の怒りは今にも頂点に達しそうである。
彼女の隣では、生きた心地もしないであろう豊吉が、蒼くなって震えている。
そんな豊吉は、ふと、傍らにいる娘の横顔を見つめた。
「あの、あなた──」
「あたしは珊瑚」
「そんななりをしているから気づかなかったが、こうして見ると、珊瑚どのはとても美しいな」
「それはどうも」
法師が気になって、珊瑚は不機嫌な声で答えるが、豊吉はそんなことにはお構いなしで、珊瑚の肩を無造作に抱き、己のほうへ引き寄せようとする。
「真名どのは法師さまを気に入った。こちらはこちらで楽しみましょう」
「あんた、真名どのの婿になるんじゃなかったの?」
「もうあの女のことは忘れたい。おれは珊瑚どのがいい。珊瑚どのを守れと法師さまにも頼まれたことだし」
「守ってないだろ!」
「ああぁ、法師さま──」
屏風の向こうからは真名の悩ましげな声が途切れ途切れに聞こえてくる。
弥勒が何をしているのか確かめていないといけないし、行き過ぎたことが起こる前にとめなければならない。珊瑚にはこの若者に構っている暇などなかった。
「あんた、今の状況、解ってんの?」
「ここでのことは全て忘れたい。珊瑚どのは人間だ。それに美しい。今すぐ睦み合おう」
真名と過ごした現実から逃避するように、豊吉は珊瑚の身体を抱き寄せ、腰に、太腿に、果ては胸のふくらみにまで、無遠慮に手指を這わせようとする。
「何をする!」
相手のしつこさにたまりかねた珊瑚が叫んだのは、豊吉を殴り倒したあとだった。
がたーん!
「……!」
派手な音を立てて屏風が倒れた。
場が凍りつく。
豊吉を殴った珊瑚が片手に持っていた飛来骨が、勢い余って結界の役割りをしていた屏風をなぎ倒してしまったのだ。
「──!」
寝床に横たわる白小袖姿の美女と、彼女に覆いかぶさる袈裟を解いた法師の視線が、珊瑚と豊吉に向けられた。
部屋全体に緊張が走る。
「豊吉どの……?」
褥に仰向けに横たわっていた真名が、少し上体を起こし、愕然と豊吉と珊瑚を見た。
「どこにいた? それに、その女は誰──?」
「くっ!」
珊瑚は真名を見据えたまま、素早く飛来骨を構える。が、それよりも早く、弥勒が動いた。
「──っ!」
真名の注意が珊瑚と豊吉に向けられた隙をつき、すかさず枕元の袈裟を掴み、それを力任せに頭から真名にかぶせたのだ。
「なっ、何を……!」
暴れる真名の身体を袈裟で包み、全身で押し伏せ、口の中で経文らしきものを唱える。
彼が法力で真名を封じ込めようとしていることを察した珊瑚は、弥勒のどんな動きにも呼応できるよう、神経を研ぎ澄まし、飛来骨を構え直した。
頭からすっぽりと袈裟をかぶせられた真名は、経文と抹香の匂いに苦しみ、のたうちまわる。
「ええい、苦しい! 放せ……! おのれ、法師! おまえをすぐに喰ろうてやる!」
凄まじい力で暴れ狂い、袈裟の下から逃れようとした。
緊迫の中、珊瑚は機をうかがって構えているが、弥勒と真名の距離が近すぎて、飛来骨を放つことができない。
この距離では弥勒まで巻き込むのは必至だ。かといって、彼が袈裟を持つ手を放せば、真名はすぐに弥勒に襲いかかるだろう。
飛来骨を捨てて刀に持ち替えるべきか。
珊瑚のわずかな逡巡の間に、小声で経文を唱え続けていた弥勒は、かぶせた袈裟の中で暴れる真名を渾身の力で押さえながら、右手の封印の数珠を解き出した。
(風穴?)
はっとした珊瑚だが、そうではなかった。
弥勒は右掌を固く握りしめたまま、袈裟をかぶせた真名の首に、右手から解いた長い数珠を巻き付けた。そして、ぎりぎりと締め上げるように念を込めた。
「あああーっ!」
真名が苦しげに絶叫を放った。
若い女の苦悶の声は、次第にしわがれた老婆のそれへと変化していく。
そのとき、
ひゅっ──
と、飛来したものが、弥勒の胸に、まっすぐに突き立った。
「っ!」
「法師さまっ!」
珊瑚が叫ぶ。
「! うぁっ、あぁぁーっ!」
苦しみ悶える真名を押さえ付ける法師の胸に突き刺さったのは古風な短槍。だが、断末魔の叫びを上げたのは、法師ではなく、真名の声だった。
屹となった珊瑚が、振り向きざまに、鋭く、短槍が飛来してきた方向へと飛来骨を投擲した。
部屋の外、濃さを増す霧の中に、小柄な少女がいた。
「く……!」
少女──まやはすぐに身を翻そうとしたが、手応えはあった。
「ぎゃっ、ぎゃあぁっ!」
霧を裂いた飛来骨の直撃を受け、甲高い悲鳴が上がる。
その声は次第に尾を引いて遠くなり、まやが高欄の外へ落ちたことを物語っていた。
たとえ妖であっても、雲母のような飛行能力がない限り、この湖の底へ落ちれば、まず助からないだろう。
戻ってきた飛来骨を受け取って、珊瑚はすぐに弥勒を振り返った。
「法師さま!」
短槍が突き立った部分には、じわじわと血が滲み、黒い衣にさらに黒い染みを作っていた。
「──う」
痛みに耐える弥勒の手が、自らの胸に突き刺さる短槍を掴み、引き抜いた。
袈裟の下でのたうつ真名は、すでに人の形をしていない。
引き抜いた短槍の先からは鮮血がしたたり、それとともに、砕けた真珠色の破片がこぼれ落ちた。
刹那、雷のような音が轟いた。
凄まじい轟音とともに、四方八方に水の壁を形成していた滝が崩れ落ちる。
「雲母、その人を守れ!」
珊瑚が告げると、雲母はすぐに変化した。
倒れた屏風の近くで震えている豊吉を雲母に託し、彼女は胸を押さえてうずくまる法師に駆け寄った。
「法師さま」
弥勒の緇衣の胸元に広がる血の染みは大きい。
夢を介して真名に精気を吸われている上に、無理をして法力を使ったため、かなりの力を消耗しているようだ。すぐには動けないようである。
「すまん、珊瑚……」
「大丈夫、力を抜いていいよ。あとはあたしがやる。真名はもう動けない」
袈裟の下の真名は、実際、もうぴくりともしていなかった。
珊瑚は解かれた封印の数珠を彼の右手に巻き付け、必死に弥勒の身体を支えた。
崩壊した水が大波となり、下層から順に、高い建物の層へも容赦なく流れ込んでくる。
すぐに建物ごと湖に呑み込まれてしまうだろう。
混乱と恐怖で気を失ってしまったらしい豊吉を背に乗せた雲母が、法師と珊瑚も助けようとこちらへやってくるのが見えた。
が、最上層のここにも次々と押し寄せる波に阻まれ、思うように進めない。
室内の水かさが増していく。
もとよりここは湖の中だ。
流れ込む湖水を避けることはできない。
湖底に沈まないことを第一に考え、珊瑚は、周囲一面の滝が崩れる轟音と、その波に翻弄されながら、建物の外へ出ろと、身振りで雲母に伝えた。
彼女は飛来骨を筏代わりにして、ぐったりと眼を閉じている弥勒の上半身をうつ伏せにして乗せ、彼をかばうように片手で背中から彼の身体を支えた。
そして、もう片方の手で錫杖を持って、自身も飛来骨に掴まった。
巨大な滝が崩れた分、どんどん流れ込んでくる波涛に木の葉のように流される。
珊瑚は冷静に水の流れを読み、二人分の生命を預けている飛来骨の波に対する角度を調整して、なんとか建物の内部から逃れた。
最終的に湖の上に出ることが叶えば、雲母が自分たちを拾ってくれるだろう。
それまで、弥勒の身体だけは絶対に放すまいと、意識ある限り、珊瑚は彼を支える細い腕に強く力を込めていた。
2015.11.4.