紅葉狩 −第壱話−

 深い山は、いま、紅葉の盛りを迎えていた。
 燃えるような、という表現は、まさにこんな光景のことをいうのだろう。
 そんな鮮やかに彩られた深山の山道をゆっくりと歩む影が二つ。
 片方の人物は法衣姿で錫杖を手にし、もう片方の人物は村娘風の小袖姿に大きな武器を背に負っていた。
「なんでなんでっ? なんで迷うかな」
 不機嫌そうに娘が言う。
「そう言うおまえも一緒に迷ってるではありませんか」
「そうだけど……」
 娘――珊瑚はむすっとしたまま言葉を続けた。
「でも法師さまが悪いんだよ。どこかで女の声がするとか言って、ふらふらと道をそれたりするから」
「おまえには聞こえませんでしたか?」
 のんびりとした弥勒の様子に珊瑚は憮然となる。
「聞こえてない。っていうか、聞こえたからどうだっていうのさ? こんな山の中でぐずぐずしてたら、あっという間に夜になっちゃうよ」
「確かにおなごの声だと思ったのだが……」
「もう! いい加減にして、法師さま!」
 木々の紅い枝葉をおっとりと振り仰ぐ法師の前に苛々と廻り込むと、珊瑚は両手の拳を握りしめて声を荒げた。
「法師さまがよそ見しているから、犬夜叉たちに置いてかれちゃったんじゃないか」
「道はこれひとつなのですから、私たちの姿が見えないことに気づけば、足をとめて待っていてくれるでしょう」
「だったら、もうそろそろ合流してもいい頃だよ。絶対、道に迷ったね、あたしたち」
「困りましたなあ」
「法師さま、全然困っているように見えないんだけど!」
 冷たい風が吹き、木々がさわさわと紅く染まった葉を揺らした。
 そろそろ日が暮れる。
「じきに暗くなるよ。急ごう、法師さま」
「しかし、日が落ちてしまっては、山道を進むのは危険です。この辺りで夜が明けるのを待つほうがよい。それに、もし犬夜叉が私たちを捜しに来たら、じっとしていたほうが見つけやすいでしょう」
「それはそうだけど……」
 珊瑚は落ち着かなげに視線を彷徨わせる。
 何故か、胸騒ぎがしてならなかった。
「ねえ、法師さま、やっぱり――
 言いかけて、はっと珊瑚は身を強張らせた。
 突然、鋭い笛のが大気を裂いたのだ。
「龍笛だ」
 つぶやく弥勒の法衣の袖を娘の指がそっと掴む。
「なんで、こんな山の中で笛の音が」
「やはり人がいるんですよ」
「だってもう夕暮れ――
 秋も深き頃、ましてやこのような山中では日が落ちると瞬く間に夜の闇に支配される。
 今やもう互いの顔を確認するのがやっとという薄闇の中で、弥勒と珊瑚は眼と眼を見交わした。
「法師さま、やっぱり早く犬夜叉たちと合流することを考えよう」
「この闇を進むのは無理です。それより珊瑚、あちらを」
 法師の示すほうを見遣った珊瑚の瞳が大きく見開かれた。
 山林の奥がぼうっと光っている。
 いや、あれは人工的な灯火なのか。
「あっちに誰かいる――?」
「そのようです。行ってみましょう」
 淡い光を頼りに法師と退治屋の娘は木々の間を縫って、山の奥へ、奥へと進んだ。
「これは……」
 場が開けた。
 赤に橙に黄色――さまざまな色調に紅葉した大樹の幹に囲まれ、その場だけ、何かの舞台のように鮮らかに篝火に照らし出されていた。
 絶妙に配置された据篝に浮かび上がる辺り一面の紅葉が、暗がりの中から圧倒的な美しさで空から降りそそいでいるようだ。
 実際、風が吹けば、ひらり、ひらりと紅い葉が気まぐれに舞い降りてくる。
「……」
 ただの紅葉狩りにしては、このような深い山奥で、なんと大掛かりなことか。
 仄明るく照らされたその場所に足を踏み入れる手前で、法師と退治屋は歩みをとめた。
 と、とぎれとぎれに聴こえていた笛の音がぴたりとやんだ。
 女がいた。
 櫨紅葉の五つ衣に臥蝶丸の表着と紅の袴。そんなあでやかな衣裳をまとった若い女が、見事な黒漆塗りの龍笛を手にしてそこに立っている。
「……誰ぞ?」
 ゆっくりとこちらへ向けられた眼が艶かしく媚を含み、法師の姿を映した。
 抜けるような白い肌に夜目にも紅いふっくりとした唇。吸い込まれそうな黒目がちの瞳が、あえかに法師を見つめている。
 絵巻から抜け出たような、まばゆいばかりの美姫だった。
 とてもこの世のものとは……
「法師さま!」
 はっとした珊瑚が法師を顧みた。
 弥勒は珊瑚を安心させるように彼女の肩に手を置き、口許で小さく微笑んでから、笛を奏していた姫のほうへ一歩進んだ。
「我々は怪しい者ではありません。道に迷った旅の者です」
「まあ」
 姫君は軽く眼を見張り、法師と娘を見比べる。
「私は弥勒。法師です。この娘は連れの珊瑚と申します」
「弥勒法師さまに、珊瑚さま……」
 胸元で不安げに龍笛を握りしめていた腕を下ろし、姫君は婉然と微笑んだ。
「こんな山奥で、さぞかし難儀されたことでしょう。ご覧の通り、ささやかながら紅葉を愛でる宴を催しております。どうぞ、ともに酒など召してくださいまし」
 鈴を振るような声で言の葉を紡ぐ美女に何か異様なものを感じ、珊瑚はわずかに眉をひそめて弥勒の背後で彼の袈裟を引く。
 だが、彼女の不安が彼に伝わったかどうかは判らなかった。
「さ、お二人ともこちらへ」
 誘われるまま座に加わっては、取り返しのつかないことになりそうな気がした。
「悪いけど、あたしたちは急ぐから」
「珊瑚」
 小声で彼女の言葉をさえぎったのは弥勒だ。
「この暗闇では動くに動けません。どうせ犬夜叉たちも野宿でしょうから、どちらにせよ、私たちもこのまま夜明かしをせねばならん」
 いつの間にか辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。
「でも、別にこの人たちと一緒じゃなくたって……」
 ひときわ鮮やかに紅葉した大樹の根元には緋の毛氈が敷かれ、侍女らしき女が三人、さらさらと音もなく酒の用意をしている。
「やっぱり変だよ、ここの雰囲気」
「おまえはあの姫が妖だとでもいうのか?」
「法師さまは何も感じないの? ……その、妖気とか」
 不穏な空気を感じる珊瑚だったが、未だはっきりと邪悪なものを確かめられずにいた。
 邪気や妖気を感じ取ることは、自分より弥勒のほうに一日いちじつの長がある。
 だが、法師は訝しげに彼女を見返しただけだった。
「どうしたんです、珊瑚? 妖気など感じませんよ。大丈夫、ここにおられる方たちは人間です」

* * *

 篝火の炎だけが、その場を幻想的に照らし出す。
「わたくしの名は呉葉くれはと申します」
 眼の覚めるような鮮やかな緋色の毛氈の上に座し、女――呉葉は手をついた。
 彼女が軽く頭を下げると、長く艶やかな黒髪が、品のいい袿の肩にこぼれかかる。
 勧めに応じて毛氈の中央に腰を下ろした弥勒の斜め前に呉葉が対座し、その背後に侍女の一人が酒器を持って控えている。
 法師は笑みを絶やさず鷹揚に構えていたが、一方の珊瑚は、もどかしい思いを抱え、そわそわと彼の隣にただ座っていた。

 何故、こんなにも不安を覚えるのだろう。
 なのに何故、弥勒はこれほどの不安に気づいてくれないのか――

 手近な木の幹に立てかけた飛来骨に手が届かないことが、いやが上にも珊瑚を落ち着かなくさせた。
「この香りは“侍従”ですな」
 呉葉の傍らに無造作に置かれた毬香炉に眼をとめた法師がやわらかな声で言った。
「まあ、よくご存じですのね」
 呉葉は嬉しそうに睫毛を瞬かせる。
 火の匂いに混じって、仄かによい香りが漂っていることに珊瑚も気づいた。
「雅を解してくださる客人に訪れていただき、趣向を凝らした甲斐があるというものですわ」
「趣向……と言われても、このような山奥で、何ゆえ?」
「女ばかりでこのように寂しさをまぎらわせる宴を、詮なきこととお思いでしょうね」
 ちらと珊瑚を一瞥してから法師に視線を流す呉葉の所作が、珊瑚の神経を逆なでした。
 警戒心が先に立って忘れていたが、女に節操のないこの法師の目の前で、絶世の美女が流し目を使っているのだ。
 今さらだったが、珊瑚は別の意味での警戒を強くし、眦も険しく、両手を握りしめた。
「よくある話でございます。戦で城を落とされ、数名の供の者とここまで落ち延びてまいりました。あちらに」
 と、姫は後方を優雅に手で示す。
「尼寺があるのです。わたくしとここにいる者たちはその寺にかくまっていただいています」
「こんな山奥に尼寺が? しかし、女人ばかりで危険ではありませんか」
「ここに来るまでわたくしを守ってくれた剛の者が数名、落城とともに行方知れずとなった弟を捜しているのです」
 呉葉は膝に舞い降りてきた紅葉を手にし、それにふっと息を吹きかけた。
「もう生きてはいないかもしれませぬ。けれど、わたくしはここでその報告を待つだけ……」
 風が華奢な指から紅い葉を攫い、呉葉は儚げにふと法師に微笑みかけた。
「こうして季節の移ろいを愛でながら、世をはかなんで暮らしております」
「お察しいたします。さぞ、心細いことでしょう」
「弥勒法師さま」
 見つめあう姫と法師の姿は、珊瑚にとって不愉快以外のなにものでもない。
 そんな身の上話をして、だからどうだっていうのさ、と娘は苛々と唇を噛む。
 戦乱の世の中、落城から逃れ、不遇をかこつ人々の話などざらにある。
 誰だって多かれ少なかれつらい憂き目にあっているのだ。
 別に珍しい話ではない。
 だが、そんなふうに姫の話に素直に同情できない自分の狭量さにも、いい加減、珊瑚は苛立っていた。
(法師さま、鼻の下伸ばしちゃってさ)
 つと、珊瑚はなごやかに会話を続ける法師と呉葉から目を逸らした。

 法師だから、同情を示すの?
 相手が美女だから、興味を示すの?

 そんなやりきれない想いに苛まれる。
 自分がここにいることが、ひどく場違いな気がした。

第弐話 ≫ 

2008.11.9.