紅葉狩 −第弐話−

 夜陰と紅葉と篝火の炎に彩られた深い山中に琅々と笛の音が鳴り響いている。
 呉葉が奏するその音色をぼんやりと耳にしながら、珊瑚は己の胸の警鐘を必死に探っていた。
(おかしい……)
 戦から落ち延びてきたにしては、この姫のたたずまいは贅沢すぎる。
 珊瑚はその場に控えている三人の侍女の様子をそっと窺い見た。
 梔子色の小袖の上にそれぞれ少しずつ色調の異なる茜色の袿を一枚重ねた侍女たちの衣裳は、呉葉のものよりは簡素といえたが、それにしても身を潜めて生活している者の身なりとは思えなかった。
 珊瑚は雅やかな音を奏でる呉葉の笛を見、傍らに置かれた銀の毬香炉を見た。
 龍笛や香炉だけなら、家に伝わる大切なものを持って逃げてきたとも考えられる。
 しかし、尼寺に厄介になっている身でありながら惜しげもなく薫物を楽しむというのはどうだろう?
 香木・香料の類は高価なものだ。
 そのような贅沢品を所持していれば、本来ならまっさきに売ってしかるべきではないか。
 弟君を捜すにも金子は必要だろうし、山奥に隠れ住むのも何かと不如意だろう。
 それに、趣向か何か知らないが、こんなに明々と篝火を焚いて、追っ手や野盗に見つかる危険性をいったいどう考えているのだろうか。
 何もかもが常軌を逸している。
 珊瑚は、一曲奏し終え、笛を唇から離した美女に視線をやった。
「あの、呉葉姫様」
「呉葉でよいですよ」
「戦から落ち延びてきたのはいつ?」
 鋭く見つめる珊瑚の瞳を一旦受けてから、呉葉はするりと視線を外した。
「さて。いつになるやら」
「姫がこの山へ来て、いくつ季節が変わった?」
「珊瑚。失礼ですよ」
 物思わしげにたしなめる法師に、珊瑚は柳眉を険しくする。
「いいのです、法師さま。さ、もう少し酒を召し上がれ」
 呉葉は珊瑚から眼をそらしたまま口許に微笑を浮かべ、手ずから銚子を取って弥勒の盃に酒を注いだ。
「珊瑚さまもどうぞ。先ほどから、ひとくちもお飲みになっていないのではありませんか?」
 呉葉の言葉を受け、銚子を手にした侍女の一人が、酌をしようと珊瑚が盃を持つのを待つ。
 しかし、珊瑚は盃を取らなかった。
 この姫の挑発に乗ってはいけない。
 法師が自分の気持ちに気づいてくれない今、彼女は己の妖怪退治屋として培ってきた勘を信じるよりほかなかった。
 弥勒が何と言おうと、この姫は妖だ。
 弥勒は――彼は、すでに妖の姫の術中に陥っている。
「さ、弥勒法師さま」
 妖の宴に迷い込んできた獲物が二匹。
 妖姫の標的は弥勒なのだろうと珊瑚は思った。
 ことさら珊瑚をおざなりに扱い、法師に向かって艶かしく語りかけ、笛を吹き、酌をしている絶世の美女。
 珊瑚は目顔でしきりに酒を勧める侍女を無視し、何が彼に影響を与え、彼から正常な思考を奪っているのだろうと矢継ぎ早に考えた。
 彼だけが口にしている酒だろうか。
 この場に漂う薫物の香りだろうか。
 それとも、最初に聴いた龍笛の音――
 ぱちぱちと火の爆ぜる音を聞いて珊瑚がはっと我に返ると、隣の法師の肩に呉葉が妖しくしなだれかかっていた。
「法師さま!?」
 いつの間にそんな体勢になったのか、珊瑚が驚いて身体ごと二人に向きなおると、婀娜めいた口調で弥勒にささやく呉葉の声が彼女にも聞こえた。
「わたくしは子が……欲しいのです。弟が生きて戻ってくることは、恐らくないでしょう。わたくしの意志を継ぐ子が欲しい。弥勒法師さま、わたくしに子を授けてくださいまし」
「呉葉さま」
 唖然としている珊瑚の目の前で、法師の腕が呉葉を抱き寄せる。
「なっ、なに馬鹿なこと言って……っ! 法師さまも、しっかりして!」
「私でよければ、望みを叶えてさしあげます」
「嬉しい」
 法師と姫の抱きあう様を目の当たりに見せつけられては、珊瑚が平静を保てるはずもない。
「法師さま! 何する気? まさか、本気じゃないだろうね」
 呉葉の身体を抱く弥勒の腕に両手をかけて揺さぶれば、法師の胸に顔を埋めていた呉葉が斜交いに珊瑚を見て薄く笑った。
「弥勒法師さま、珊瑚さまが拗ねていらっしゃいますよ?」
「珊瑚……?」
 顔を上げた弥勒の瞳が珊瑚を映した。
「おまえも、子が欲しいか?」
 珊瑚は息を呑んだ。
 法師は妖姫の術にかかったままだ。
 しかしそれが解っていても、いま、珊瑚に冷静になれというのは無理な注文だった。
「駄目、法師さま! その姫の言うことを聞いちゃいけない!」
「珊瑚」
 そ、と呉葉の身体から腕を解いた弥勒の手が、今度は珊瑚に伸びた。
「おまえの悲しむ顔は見たくない。ならば、おまえから先に愛してあげましょう」
「えっ?」
 法師の手に囚われた珊瑚はあっという間に彼に抱きすくめられた。
「ちょっ、ちょっと! そういうことじゃなくて……!」
「いいではありませぬか。お嫌なら、わたくしたちは去りましょう。珊瑚さまは、存分に弥勒法師さまと」
 くすくすと笑いを含んだ呉葉の声が歌うように聞こえる。
 弥勒を操り、何をする気なのか。
 呉葉の意図が掴めず、珊瑚は己を抱く法師の腕から逃れようと身をよじり、姫のほうへ顔を向けた。
 篝火の炎が爆ぜ、視界の隅に何かが銀色にきらめいた気がした。
「おまえは何者だ。正体を現せ!」
 射るような珊瑚の視線を受けても微塵も動じることなく、立ち上がった呉葉は流れるように足許の毬香炉を持ち上げた。
「何をおっしゃるのです、珊瑚さま。わたくしはただのか弱い女」
「何故、法師さまを狙う」
 呉葉は軽く眉を上げ、艶冶に笑った。
「異なことを。法師さまにはお情けをかけていただきたいと思いましたが、弥勒法師さまはあなたと睦みあいたいと仰せなのですもの。この宴の席はお二人にお貸しいたしましょう」
「これは法師さまじゃない!」
「珊瑚」
 もがく娘を両手だけでは押さえきれなくなった弥勒は、体重をかけて彼女を地に押し倒した。
「いや!」
「ほほほ。落葉がよい褥になりましょう」
 あでやかな姫の声に総毛立った。
 まぎれもなく、これは妖だ。
「珊瑚。何故、抗う? これほどおまえを愛しているのに、何故、私から逃れようとする?」
「くっ!」
 弥勒であって弥勒ではない。
 彼女を押さえつけ、力ずくで求める彼の行為は彼の意思ではない。
 完全に組み敷かれてしまい、力で彼に敵わないと解っていても、抵抗をやめるわけにはいかなかった。
 切なさに胸がつぶれそうで、珊瑚の目尻に涙が滲んだ。
「法師さま、眼を醒まして。正気に戻って……!」
 何が。
 何が彼を惑わせているのだろう。
「やっ……」
 それさえ判れば、手の打ちようもあるだろうに。
「珊瑚、愛している」
 正気ではない彼からそんな言葉を聞きたくはなかった。
 ましてや、こんな形で唇など許したくはない。
 触れそうになった彼の唇から顔をそむけ、泣きたい想いで薄目を開けると、弥勒の耳の飾りが目に入った。
――!」
 右の耳に、金色の光が二つ――
「!」
 驚愕に眼を見開いた珊瑚は咄嗟に右腕の仕込み刀を閃かせた。
「うわっ!」
 珊瑚の首筋に顔を埋めようとしていた弥勒が、首を斬られ、叫び、のけぞる。
 同時に、ざっ! と音を立てて崩れたのは、人の形をした茜色の楓の群れだった。
 侍女の一人が鮮やかな茜色の葉と化して、その場に散った。
「珊瑚、何を」
 再び揮われた珊瑚の刀が、弥勒の二の腕から肩にかけてを鋭く斬り裂く。
「く――!」
 紅葉した楓の葉々が二人目の侍女の姿をとって散らされた。
 ざあっと風が吹き、おびただしい紅い葉の群れが空へと舞い上がる。
「おまえは法師さまじゃない!」
 耳を飾る小さな金の輪が、右の耳に二つ。左の耳にひとつ。
 そうだ。何故、気づかなかったのだろう。
 最初から感じていた違和感。
 それは、法師さまが法師さまでなかったから。
 美しい妖に遭遇する以前から、珊瑚の隣にいたのは弥勒ではなかったのだ。
 呪いを封じる数珠と手甲は彼の左腕を覆っている。
 何故、あたしはそんなことにもっと早く気づかなかった――
「私は弥勒だ。珊瑚、何故、私を拒む」
「黙れ。法師さまの姿であたしの名を呼ぶな!」
 斬ったはずの弥勒の傷は消えている。
 屹と彼を睨み、大きく振りかざした彼女の右腕を法師の手が掴んだ。
 またもや彼の背後で色鮮やかな楓の葉が人の形をとって散り、消える。
 三人目の侍女が茜色の葉となって散ったのと同時に、弥勒の手は無傷で刀の刃をすり抜け、珊瑚の右手の動きを封じていた。
「油断のならぬ娘よのう」
 ふう、と背後で吐息を洩らすのは、一人残った呉葉だ。
「珊瑚さま。もう観念して、愛しいお方に喰われてしまいなされませ」
「なに……?」
「そうすれば、あなたの若さと美しさは、わたくしのものとなる」
 妖は弥勒の姿をした傀儡を通じて珊瑚の精気を吸い取るつもりのようだ。
(法師さまの耳飾りや風穴のある手が逆。ということは、妖は鏡魔――法師さまの姿を借りたこいつは、あたしの心を映した鏡像でしかない)
 なんと愚かだったのだろう。
 始めからそこに弥勒は存在せず、妖の標的は珊瑚ひとりだったのだ。
(この姫は妖気を発していない。本体……本体は……)
 偽りの弥勒は、三人の侍女が身代わりとなって珊瑚の攻撃をかわしたため、傷ひとつ負うことなく、追いつめた鼠を嬲る猫を思わせる眼で彼女の顔を愛しそうに見つめている。
 その瞳が惨忍な光を帯びた。
 襲われる――
 身体の自由を奪われてなす術もない珊瑚が身をすくませてぎゅっと眼を瞑ったとき、突如、湧き起こったつむじ風が、篝火の炎に照らされる数多の紅葉を濃い藍色の空へと吹き上げた。
「何奴……!」
 呉葉の驚きの声、そして場の空気が変わったことにはっとなる。
 次の刹那、じゅっと何かが溶けるような音とともに珊瑚を拘束していた力が緩んだ。

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2008.11.23.