紅葉狩 −第参話−

 何が起こったのか、混乱したのもほんの一瞬だった。
「雲母! ――法師さま!」
 傀儡の法師の腕から逃れ、身を起こした珊瑚が振り返ると、変化した雲母に乗った弥勒の姿が篝火に照らし出されて見えた。
 破魔の札を手に妖の姫を睨め付けている。

 ――本物の、法師さま……?
 それとも、これも助けを求める己の心が反映されたまやかしに過ぎないのか。

「珊瑚、その男にとどめを!」
 弥勒の声で珊瑚は我に返った。
 鏡魔によって珊瑚の心の影像から生み出された偽りの弥勒は、本物の弥勒の破魔札を受けたのだろう、焼けただれ、白煙が立ちのぼる額を押さえ、落葉のつもる毛氈の上にうずくまっている。
 弥勒本人には珊瑚を襲った人物はどのように見えているのだろう。
 奇妙な感覚に囚われながらも、珊瑚は弥勒の鏡像に鋭く右腕の仕込み刀を振り下ろした。
 ざっ!
 断末魔の呻きを洩らし、珊瑚の刀を受けた妖姫の傀儡は、空中に波紋が生じたように姿をゆがませ、冷たい大気の中にかき消えた。
「珊瑚、大丈夫か!」
「あたしは平気。法師さま、その姫もまやかしだ! 妖の本体は別にある」
 大きく息を吐き、珊瑚は妖姫と対峙する弥勒を振り返って叫んだ。
 珊瑚の無事を素早く確認すると、法師は口許に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「ああ。姫に妖気はないが、別のものが強い妖気を発している」
 憎々しげに法師を見遣る美姫は眼をつり上げ、夜叉の形相で朱い唇をきゅっと噛んだ。
「忌々しい法師。あと少し。あと少しで、その娘の若さと美しさが得られたというに」
「つまり間に合ったということだな。妖なんぞに、おれの大事な女をむざむざと襲わせてたまるかよ」
 珊瑚は眼を見張った。
 この法師もやはり己の願望が実体を持った偽者か?
 呉葉と法師は互いに間合いを計っている。
 毬香炉を抱いた呉葉がちらと横目で退路を探したとき、法師が動いた。
「成敗!」
 呉葉に襲いかかる雲母から飛び降りた弥勒の錫杖が、女が怯んだ隙をつき、叩き落とした彼女の毬香炉を打ち砕いた。
「あっ!」
「香炉が……?」
 珊瑚は大きく眼を見張る。
 それが妖の正体なのか。
「いや、妖の本体はこれだ」
 破壊された銀の香炉の中に、小さな鏡が隠されていた。
 篝火の明かりを受け、鏡面が銀色にきらめきを放った。
「侍従か。しゃれにならねえ名前の香を使いやがる。この香りで珊瑚の思考力を鈍らせていたのか」
「無礼者、触れてはならぬ!」
 倒れた呉葉が叫ぶも耳を貸さず、弥勒は香炉の銀の残骸の中に光る鏡に破魔札を貼り、その鏡面を錫杖の先で打ち割った。
「やめ……うあっ、ぎゃああっ!」
 珊瑚が見守る中、呉葉の叫びと、そして、水晶を砕くような澄んだ音が夜陰の中を響き渡り、辺りを照らしていた篝火の炎が一瞬にして消えた。


 闇――

 天空には細い月。
「……終わった、の……?」
 つぶやく珊瑚のもとに、炎をまとう猫又がすり寄ってきた。
「雲母」
 地に膝をついて、彼女に頭をこすりつける愛猫を両手で抱き寄せ、珊瑚は安堵のため息をつく。
 そして。
「大丈夫ですか?」
 暗闇に響くやわらかな声に顔を上げた。
「法師さま……」
「雲母、珊瑚の独り占めはいけませんよ」
 彼の掌が雲母の頭を撫でると、珊瑚も猫又の首から両腕を離して立ち上がり、法師を見た。
 篝火が消滅した今、細い月と雲母の発する炎の明かりだけが頼りの闇夜である。
「珊瑚」
 弥勒の手がそっと伸ばされた。
 かと思うと、腕を引かれ、次の瞬間には物凄い力で抱きしめられ、珊瑚は驚きに瞳を瞬かせる。
「珊瑚……珊瑚……珊瑚……!」
 動転して一気に心臓が早鐘を打ち始める珊瑚に構うことなく、弥勒は娘の頬や髪に頬ずりをくり返し、激情も露に彼女を抱く腕に無茶苦茶に力を込めた。
「珊瑚……ああ、珊瑚、心配させやがって……!」
 彼に抱きしめられることは珍しくはないが、そのあまりの力強さに、いつもは手加減をしてくれているのだと改めて思い知らされる。
 身動きはおろか呼吸すら困難なほどの激しい抱擁に珊瑚は動揺を隠せなかった。
「法師さま、法師さま……あの」
「本当に、無事なんだな?」
 混乱してうまく思考が働かない珊瑚の髪を撫で、背を撫でる弥勒の掌にいつもの戯れ事めいた気配はなく、珊瑚はますます戸惑い、法師の腕に身を委ね、息苦しさと甘い惑乱に耐えた。
「おまえが男に襲われているのを見たときは、全身の血が逆流するかと思った」
「うん。怖かった。法師さまに襲われたの」
 本物の法師の腕に抱かれ、その実感にやっと安心感を得た珊瑚は珍しく甘えるように弥勒にもたれかかる。
 袈裟の胸元に顔を埋め、娘は小さな吐息を洩らした。
「……今、誰に襲われたと?」
「だからあたし、法師さまに襲われて」
 突然、はっとなった珊瑚は己を抱く弥勒の手を振りほどき、彼の右腕を掴んだ。
「風穴」
「それが何か」
「本物?」
 数珠を解こうとした珊瑚の手を弥勒が慌てて掴み、右手から引き離す。
「何をする気だ、死にたいのか!」
「よかった、本物だ……」
「珊瑚、おまえ、おかしいぞ?」
 掌を彼女の額に当てる気遣わしげな法師の様子を見遣り、娘は泣きそうに笑みを作った。
「ううん、ごめん。法師さまには、あの男は誰に見えたの?」
 法師は怪訝そうに首を振る。
「誰でもない。野武士風の男におまえが手籠めにされかけていたので、ついかっとなって――
 顔を確かめる余裕なんてありませんでしたよ、とため息まじりに法師は続けた。
 珊瑚には弥勒に見えた妖姫の傀儡は、弥勒には、彼の眼でしか見えない別の男として映っていたのだろうか。
「じゃあ、香炉を持っていた妖怪姫はどんなふうに見えた?」
「古風な装いの世にも麗しい姫君」
 と言いかけて、弥勒は空咳をした。
 今回ばかりは珊瑚も苦笑を洩らしただけで、法師の言葉を追及するようなことはしなかった。
「あの、法師さま。本当にありがとう。助けに来てくれて」
「もう少しここに辿り着くのが遅かったらと思うとぞっとする。どうして一人で私たちからはぐれてしまったんです」
「あたし、一人じゃなかったんだ。……ううん、一人じゃないって思ってたの」
 彼女が体験したひと通りの話を聞くと、弥勒は粉々に砕けた鏡のもとまでゆっくりと歩を進めた。
「これは、一種の付喪神つくもがみですな」
「付喪神?」
「つまり物精です。この鏡と」
 近づいてきた雲母の炎でかろうじて識別できる漆塗りの古びた龍笛を法師は示した。
「この龍笛。恐らくこれらは、戦から落ち延びた姫が持ち出した家宝の品なのでしょう」
 宴のあとに残ったのは、砕かれた香炉と鏡、そして塗りの剥げた古い龍笛。
「じゃあ、あの姫は……」
「おまえが聞いた話は恐らく事実だろう。姫は実在した。ですが、とうの昔に亡くなっていると思われます。主を失った器物に無念の魂が宿り、人を喰らって妖となった。特に、鏡は昔から霊的な品とされていますからな」
 死んだ姫の無念さが宿り、物精として意思を持った鏡の妖は、どんな想いで人を喰らい、どれだけの年月を生き続けてきたのだろう。
 自らが主の遺志を継ごうとして……?
 あるいは、もう戻ることのない弟君を待ち続けていたのだろうか。
「あの姫が鏡魔?」
「鏡が姫の姿を借りていたと考えるのが自然でしょう」
 弥勒は腰をかがめ、幾筋もの罅が入った古色蒼然たる横笛を手に取る。
「この笛にも妖力を感じますが、付喪神に変じるほどの力はありません。鏡魔がおまえをおびき寄せるため、この笛の力を借りたのでしょう」
「え?」
「覚えていないのか?」
 怪訝な表情を見せる珊瑚に法師は苦笑した。
「みなと山道を歩いているとき、おまえはしきりに笛の音が聴こえると言っていた。そんなものは聞こえないと言っても私の声などまるで聞こえているそぶりはなく……ふと振り返ると、もう、おまえの姿は消えていたんです」
「笛の音? 笛の音を聴いたのはあたし?」
 弥勒の言葉に愕然とした。
 女の声が聞こえると法師さまが言ったのではなく、笛の音がするとあたしが言った――
「ええ。焦りましたよ。どんどん暗くなるし、犬夜叉はおまえの匂いが薄れていくと言うし」
「犬夜叉たちは?」
「かごめさまや七宝を徒に危険にさらすことになるかもしれないと、私と雲母だけでおまえを捜すことを納得させました。雲母は夜目が利きますからな」
 ふっと表情を緩め、法師は傍らの雲母の頭を撫でた。
「みな、待っている。とにかく、おまえが無事でよかった」
「ごめん。みんなに迷惑かけて。あたしの心の弱さに付け入られたんだね」
 己の心を映したまやかしに翻弄された愚かしさを情けなく思い、珊瑚がつぶやくと、けぶるような微笑を浮かべた弥勒は、雲母にするように珊瑚の髪をやさしく撫でた。
「何を言ってるんです。本当に弱ければ、今頃はとっくに妖に喰われていますよ」
 法師は片手で娘の肩を抱き寄せ、額にそっと唇を当てた。
「もう二度と私のそばを離れるな……と言いたいところだが、私から離れまいとして、今回、おまえは危険な目に遭ったんだな」
「……」
「すまなかった。守ってやれなくて」
 いたわるようにゆっくりと言われ、珊瑚はきゅっと胸が締めつけられるような想いに駆られた。
「法師さま……法師さま!」
 自分から彼の胸にすがりつき、顔を埋めた。
 そんな珊瑚の後頭部を、弥勒の手があやすように軽くたたく。
「この鏡と笛は、そこの樹の根元に埋めて、供養しましょう。姫の魂が成仏するように。そして、これら付喪神が二度と旅人を喰らうことがないように」
「うん……」
 くぐもった声で応える珊瑚は袈裟の胸元に顔を埋めたままだ。
「泣いてもいいんですよ? そこはおまえだけの場所ですから」
 少しからかいを含んだ法師の声音に安堵を覚える娘だったが、生来の勝気さが涙をせきとめた。
「泣かない、泣いてない。でも……もう少しこのままでいさせて」
「喜んで」
 手に持っていた龍笛を雲母に渡し、地面に置いてもらうと、弥勒は、自分に寄りかかる快い重みを全身で受け止めた。
 空を仰ぐと、闇の中からおびただしい紅い枝葉が四方から降りかかってくるようだ。
 抱き合う二人を取り巻くのは、夜陰と静寂、そして時折舞い散る、茜色の葉々。

 ――宴は終わったのだ。

 変化したままの雲母が落葉の上に寝そべった。
 吹き抜ける夜風が木々の枝を揺らして紅葉を降らせ、龍笛の余韻のような音色を響かせた。

≪ 第弐話 〔了〕

2008.12.1.