夢魔 非時香菓ときじくのかくのこのみ− [壱]

五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする

 忘れられない面影がある。
 残酷な現実に打ちのめされながらも、己の定めに気丈に立ち向かおうとしていた一人の娘。
 むごたらしい事実を目の当たりにした、強張った表情。そして決然とした顔が忘れられない。
 死を覚悟して、仇を討とうとする娘の冒しがたい美しさ、強い意志に心を奪われた。
 それは自らの最期に重なる美しい影。
 あの娘が欲しい。
 もうこの世には居場所のない、自らが欲するたったひとつの魂。

* * *

 いつものようにその村で一番大きな屋敷を選んだ。
 いつものように法師が適当なお祓いをして、今宵の宿を得た。
 かごめは薬箱の中身が乏しいことに気づき、医薬品補充のため、先ほど犬夜叉と現代へ向かった。明朝、この屋敷に戻ってくる予定だ。
「さ、これで終わり」
 あてがわれた部屋で武具の手入れを終えた珊瑚は、大きく伸びをして、部屋の中を見廻した。
「ねえ、七宝。法師さまは?」
 珊瑚の傍らでは七宝が使い終えてしまったスケッチブックを所在なげに眺めている。
「ええと、その……いつもの悪い癖じゃ」
 困ったように口を濁す仔狐の様子に、珊瑚はやれやれと小さく吐息を洩らした。
 いつものように、法師は屋敷の娘を口説いているらしい。
「七宝、あたしに気を遣ってくれなくてもいいよ。雲母と外へ遊びに行きなよ」
「でも……」
「あたしは何とも思ってないよ。いつものことだから」
 珊瑚が微笑んでみせると、やはり退屈していたのだろう、仔狐は明るい陽の射す戸外へ、縁側で毛づくろいをしていた雲母を伴い、駆けていった。
 七宝と雲母の姿が見えなくなると、珊瑚はたちまち仏頂面になる。
 法師の女癖はいつものこととはいえ、やはり、慣れることはできない。
 縁側に膝を立てて座り込み、珊瑚は苛々と自らの膝を抱きしめた。
 外界を照らす陽光がまぶしい。
 この屋敷の広い庭を、法師は娘に案内してもらっているのだろうか。
 弥勒を追っていくのも悔しいし、かといって弥勒が他の娘と戯れているのを黙って見過ごすのも嫌だ。
 苛々しながらじっと宙を睨みつけていた珊瑚は、ふと人の気配が訪れたのを感じて顔をあげた。

 ふと、弥勒は振り向いた。
 そろそろ珊瑚が怒りの形相で追いかけてくる頃ではないか――と。
「……」
 屋敷の娘の誘いに応じて庭を散策しているのは珊瑚の嫉妬を期待してのことだったが、なんとなく当てが外れ、弥勒はつまらなそうに視線を落とした。
「法師さま?」
 望んだ声とは別の声が、弥勒を呼ぶ。
「あの、あたし、不調法な者で……気の利いた話もできず、すみません」
 名を咲という娘はおどおどと上目遣いの視線を法師に向けた。
 おとなしやかな娘の目には、彼は非の打ちどころのない美貌の好青年として映っているようである。
「いえ、そんなことはありませんよ。ちと、用事を思い出しまして」
 相手を傷つけぬよう、さっさと部屋に戻ろうとしたのだが、娘は困ったようにうつむいた。
「……あの、もう少しだけ、あたしといてくれませんか?」
「あとではいけませんか?」
「ええ、今。あの。兄に頼まれて――
 何を、と弥勒が問い返そうとしたところで、新しい話題を見つけて咲は微笑んだ。
「お兄様ったら、退治屋さんと二人きりで話したいから、法師さまを誘い出してくれってあたしに。あ、でも法師さまをお誘いしたのは兄に言われたからじゃないんですよ? 素敵な方だなあって、ひと目見たときから思ってて……」
 弥勒の足がぴたりと止まった。
 己に気があると咲にほのめかされたわけだが、ついでに聞かされた、この屋敷の子息が珊瑚に気があるらしいという、そちらのほうが弥勒には重大だった。
「それで、兄君――えっと」
「卯一です。今ごろ、退治屋さんとお話しているんじゃないかしら」
「咲どの」
 弥勒は娘の手をさっと握りしめる。
「名残惜しいのですが、先ほどのお祓いで札を貼り忘れた箇所があることに気づきました。失礼して、ちょっと見てまいります」
 黒い瞳に間近で射すくめられ、ぽうっとなってたたずむ娘を庭に残したまま、弥勒は珊瑚がいるであろう部屋に足を向けた。

「珊瑚!」
 勢い込んで部屋に駆け込むと、広い室内は無人、視線を巡らせると、西日のあたる縁側につくねんと珊瑚が座っていた。
 珊瑚はちらりと振り返って弥勒を見たが、不機嫌そうにすぐに視線をもとに戻した。
 眉をひそめ、弥勒は彼女のすぐ背後まで近づいた。
「つかぬことを尋ねるが」
「なに?」
「おまえ一人か?」
「法師さまには、二人か三人に見えるの?」
 棘のある物言いにむっとするも、そもそも弥勒が珊瑚を置いて屋敷の娘のところに行ってしまったことを彼女は怒っているのだから、文句は言えない。
 憮然と、法師は無言で珊瑚の隣に無造作に片膝を立てて座った。
 彼がこんな座り方をするのは珍しい。
 ふと見れば、珊瑚の傍らには何かの皿が置かれ、横座りしている膝の上には一輪の白い花がある。
「……誰か来たのか?」
「ああ、これ。珍しい菓子だからって、家の人が持ってきてくれたんだ」
「卯一どのが?」
「誰だか知らないけど」
 珊瑚は何となく菓子を手に取って口許に持っていき、少しかじった。
「あ、甘い。橘の実を砂糖漬けにしたものなんだって」
「砂糖? そのような高価なものを、行きずりの旅の者に?」
 高価な菓子で珊瑚の気を惹こうとしたのかと、弥勒は不愉快さを隠せない。
 そして、珊瑚の膝の白い花。
「その花も? 卯一どのがくれたのか?」
「だから、誰なのか知らないって。花はともかく、砂糖漬けなんて貴重なものだろうから遠慮したんだけど、あんまり勧めてくれるからさ」
「ほう?」
 法師が意地悪い響きで相づちを打つ。
「……でも、あの人……以前、どこかで会った……ような」
 珊瑚はふと遠くを見遣るような眼つきをしたが、法師が横目で自分を睨みつけているのに気づき、慌てて手を振った。
「何でもない。そんな気がしただけ」
 弥勒の責めるような視線から逃れ、珊瑚は膝の花に目線を落とし、橘の砂糖漬けを少しずつかじった。
「花も橘ですな」
「そう? なんの花か知らないけど、綺麗だね」
「橘ですよ。案外、珊瑚は忘れているだけで卯一どのと面識があるのでは?」
「なんでよ」
「“昔の人の袖の香ぞする”」
 珊瑚はきょとんとして弥勒を見た。
「それに、今は橘の花の時季ではないでしょう。どこの狂い咲きの枝を折ったのか知りませんが、何故わざわざ橘なんです」
「そんなの、あたしに言ったって――
「花橘を詠んだ和歌にちなみ、橘の花を贈るのは、昔の恋人を覚えているか……と問いかける意味があるんですよ」
「……何よ、昔の恋人って」
「恋人でなくとも、つまり、昔、会った自分を覚えていませんかと、卯一どのも橘を用いておまえに尋ねているのではないかと――
 ふと言葉をとめた弥勒は、白い花をもてあそぶ娘の表情がかなり険しいことに気づいた。
 弥勒の視線を屹と珊瑚が見返す。
「そんな小難しいこと、あたしが知るわけないだろ。卯一さんとやらだって、そんなこと知らずにただ気まぐれにくれたのかもしれない。そんなことより」
 珊瑚の声音が微妙に低くなった。
「法師さまは、あちこちの女からそういう意味で橘の花を贈られた経験があるんだ」
「は?」
「だから、そんなことに詳しいんだ」
 彼女が花などもらったことが面白くない弥勒だが、珊瑚のほうが彼に輪をかけて不機嫌で、つんとして手に持った菓子の残りを口に放り込んだ。
 取りつく島もない珊瑚の様子に、弥勒は大きなため息を洩らし、皿にもう一切れのっている菓子に無造作に手を伸ばす。だが、途端にぴしゃりと手の甲を叩かれた。
「駄目。これは七宝の」
「……私の分は?」
「ない」
 けれど、いくら冷淡に振る舞おうとしても、結局、珊瑚が自分を突き放すことなどできないと知っている弥勒は、にやりと人の悪い笑みを浮かべて身を乗り出した。
 珊瑚の顎に指をかけて、もぐもぐと口を動かしている彼女をこちらに向かせる。
「では、おまえの分を味見させてもらおう」
「えっ、ちょっ……法師さま!」
 簡単に振りほどける程度の力だったが、不意を突かれて珊瑚はよろめく。
 法師の唇が珊瑚の唇に触れるか触れないかというところで、かろうじて珊瑚は弥勒の身体を押し戻した。
 そして勢いよく彼の頬を平手打ちにし、怒りで頬を紅潮させて叫んだ。
「何すんのさっ! さっきまで屋敷のお嬢さんに言い寄ってたかと思えば!」
「言い寄って……って、あれは私がというより向こうが……」
 一応、娘のほうから言い寄ってきたのだと主張しておきたい弥勒だったが、常が常なので説得力がなく、信じてもらえないだろうと諦めた。

 異変が起こったのは翌朝だった。
 衝立をはさんで同じ部屋に寝ていた弥勒と珊瑚、そして七宝と雲母だったが、いつもは早起きな珊瑚がなかなか起きてこない。
 朝餉の支度が整いましたと屋敷の使用人が呼びに来たので、弥勒は珊瑚を起こすよう七宝に頼んだ。
 衝立の向こうに消えた仔狐はすぐに慌てた声で弥勒を呼んだ。
「弥勒! 珊瑚の様子が変じゃ」
「どうしたんです、七宝」
「珊瑚が起きんのじゃ!」
 え? と眼を見張り、法師は夜具の中で横たわっている娘のそばへ近寄る。
 すやすやと眠っている姿はまるで美しい人形のようで、一瞬、不吉な予感に襲われた。
 弥勒は小さく首を振り、娘に手を伸ばした。
「珊瑚、起きなさい」
 軽く揺すっても何の反応もない。
「珊瑚?」
 軽く頬を叩く。
「な? 起きんじゃろう?」
「……」
 尋常ではないと直感で悟った。
「もう少し、このまま寝かせておきましょう。もう少ししたら、自然に眼が覚めるかもしれません」
 それは小さな七宝と不安げにしている雲母を必要以上に心配させないための言葉だった。弥勒の両手は彼の膝の上で固く握りしめられている。
 底知れない不安。
 弥勒の意識を冷たいものが流れた。
 七宝の目がなかったら、激しく珊瑚を抱きしめ、起きろと叫びながら狂ったように揺さぶっていたかもしれない。
 ふと、この部屋に第三者の気配を感じた気がして、不気味な思いに駆られた。
 冷静になる時間が必要だと思った。
 珊瑚がこのまま目覚めることがなかったら……それは無意識のうちに、彼自身、予想していた事実だったのかもしれない。

弐 ≫ 

2010.3.25.