夢魔 非時香菓ときじくのかくのこのみ− [弐]

 娘は昏々と眠り続けている。
「珊瑚ちゃん……」
 傍らにつきそうかごめが不安そうにつぶやいた。
 犬夜叉とかごめが現代から戻ってきてから二刻ほどが経つ。もう、昼を過ぎる。
 その間、珊瑚はずっと、眼を覚ます気配すら見せなかった。
「畜生、珊瑚に何が起こったんだ」
 珊瑚の枕元に座り込んだ犬夜叉が苛立たしげにがしがしと頭をかいた。
「すみません、犬夜叉。私がついていながら」
「別におまえを責めてるわけじゃねえよ。けど、どうしてこうなったのか、それが判らねえと手の打ちようがねえ」
 横たわる珊瑚の傍ら、かごめの向かい側に座った弥勒が微かにうなずく。
「弥勒さま、何か心当たりはない? 珊瑚ちゃんだけが一人で行動していたとか」
「いえ、珊瑚はずっと部屋に……」
「夜はおらがずっと一緒に寝ていた」
 弥勒の隣に座る七宝が涙声でつぶやいた。
 珊瑚を案じ、責任を感じて涙を浮かべる七宝の頭をなぐさめるように撫で、弥勒は考えながら注意深く言葉を紡いだ。
「珊瑚は一人で、部屋にいて――
 そのとき、障子の向こうで控えめな咳払いが聞こえた。
 咳払いはノックを意味する。弥勒が立ち上がり、障子を開けた。
 障子の向こうには屋敷の兄妹が心配げな面持ちで立っていた。
 二人には朝餉の席で珊瑚が病気であると告げていたので、彼女を見舞いに訪れたのだろう。
「あの、法師さま。退治屋さんの具合は……」
「……まだ、何とも」
「薬湯など作らせましょうか」
 と、これは卯一が言った。
 妹とよく似た、おとなしげな、人のよさそうな青年だった。
「いえ、お気遣いは無用に」
 ふと弥勒は卯一に向き直り、嫌みではなく、法師としての礼儀正しさから、昨日、珊瑚が菓子を差し入れてもらったことへの礼を述べた。
「昨日は、珊瑚に結構なものを。おなごゆえ、甘いものを喜んでおりましたよ」
「何のことでしょう?」
 軽く眼を見開いた卯一に対し、弥勒も眼を見張る。
「卯一どのに橘の砂糖漬けをいただいたと珊瑚が申しておりましたが。あと、橘の花を一枝――
「橘の砂糖漬け……? 何のことか、私には」
「え?」
 珊瑚を訪れたのが卯一でないなら、誰なのか。
 弥勒は問うように咲を見た。
 咲が困ったように兄を見たので、卯一はばつの悪そうな顔をした。
「……あ、昨日、私が妹に頼んだことをご存知ですか。いや、しかし、結局、臆してしまいまして。情けないことに、珊瑚さんの部屋を訪れることができなかったんです」
「そう……ですか」
 新たな疑問に弥勒は激しい眩暈に捕らわれる思いだった。
 その場を去る兄妹を見送って、口許に拳をあてて考え込む。
(では、珊瑚を訪れて菓子と花を渡したのはいったい……)
 立ちつくす法師に、かごめが怪訝な眼を向けた。
「弥勒さま?」
 かごめの声も聞こえぬふうに、弥勒は昨日へ思惟を巡らす。
 昨日は自分たちは互いに意地を張ったまま、夕餉を食べ、床に就いた。
 つまり、七宝のために取っておいた橘の砂糖漬けは二人に忘れ去られたまま、そのまま残されている。
 弥勒は部屋の隅の棚の上に、手拭いをかけて置いていた皿を持って、皆のもとに戻った。
「どうも、これが怪しいのではないかと思います。昨日、珊瑚だけが口にした菓子です」
「お菓子?」
 かごめはその菓子とやらを見つめた。
 何の変哲もない和菓子に見えた。
 弥勒は、犬夜叉とかごめに昨日の珊瑚とのやり取りを要点だけかいつまんで説明し、犬夜叉の長い銀髪をちらと眺めた。
「今日は、冥加さまはいらっしゃらないのですか?」
「知らねえよ。いつも気まぐれにいたりいなかったりで、肝心なときにいねえからな」
 が、犬夜叉の言葉を受けて珊瑚の枕元にいた雲母が後ろ足で背中をかりかりとかくと、あっさり蚤妖怪の冥加が飛び出してきた。
「何やらお困りのようで」
「いたのかっ! なら、さっさと出てこい」
 勿体ぶった登場に犬夜叉はもとより、かごめも弥勒も七宝も、とても友好的とはいえない眼差しを冥加に向ける。
「……こほん。この菓子が、何ですかな?」
 法師が正座した膝の上に持っている皿に冥加は飛び乗り、そして弥勒を仰いで眼を合わせた。
「冥加さま」
「なんでも訊いてくだされ、法師どの」
「毒見してください」
 真顔で言う法師に冥加は慌てて怒る。
「馬鹿を言うでないっ。珊瑚はそれを食べて、眼が覚めんのじゃろう!」
「やはり、聞いていらしたので」
 弥勒は厳しい表情で冥加を見た。
「では、冥加さまの知恵をお借りしたい。今までの話で、この菓子の正体をどう思われます?」
 正体不明の者が持ち込んだ香り高い果実と花。
 そもそも、その人物の標的は珊瑚個人なのか。
 だとしたら何故。
 犬夜叉とかごめ、七宝も、期待を込めて皿の上に乗った冥加を見つめた。
 冥加はしげしげと菓子を眺める。
「普通の菓子に見えますなあ。砂糖とは別に柑子のようなよい香りを放っていますが」
「これは橘の実らしいのですが」
「橘ですと?」
 冥加の声の調子が変わった。
 砂糖漬けにされた果実をまじまじと見遣る。
「もしかして、これは――
 弥勒をはじめ、みなが冥加に注目したが、冥加は頭をかかえて「いや、でも」と繰り返している。
「何なの? 冥加じいちゃん、はっきり言ってよ」
「わしも実際に目にしたことはないが、だが、何故そんなものが人間の手に」
「だから何なんだよ。勿体ぶってねえでさっさと言いやがれ」
 それでも大袈裟に苦悩の身ぶりを示す冥加だったが、嫌に静かな声で弥勒が、
「吸いますよ?」
 とつぶやくと、ころっと態度を変えた。
「それは“時じくの香の木の実”かと思われます」
――トキジクノカクのこの実?」
 怪訝な声を出す犬夜叉とかごめ。法師も訝しげに冥加を見た。
「なんでい、それは」
「“時を定めぬかぐわしき木の実”という意味の名前の果実です。しかし、冥加さま。それは……」
 冷静に犬夜叉に説明し、けれど信じがたいという表情で弥勒は蚤妖怪に視線を戻した。
「不老不死をもたらすと言われる、あの言い伝えの果実のことですか?」
「不老不死?」
 犬夜叉とかごめと七宝が、そろって頓狂な声をあげた。
 不老不死の果実・“時じくの香の木の実”、それは橘のことだと伝えられる。――そういう神話があることを、法師はみなに説明した。
「その“時じくの実”ですじゃ。しかし、真の時じくの香の木の実とは、橘のことではありません。それは妖怪たちの間でも幻の果実といわれるもの。ましてや人間が、どこで手に入れたのやら」
「それで、冥加じいちゃん、これが本当にその果実だとして、それを食べたら、どうなるの?」
 心配そうなかごめに急きたてられ、冥加は言いにくそうに神妙な顔を作った。
「人間たちは不老不死の意味を誤って伝えておる。この実を食べると、生きたまま不老不死になるのではなく、眠ったまま、年を取らんのじゃ」
「どういうことでいっ。もっと解りやすく説明しろ」
「つまり、食べた者は眠り続けたまま、夢の中で永遠に暮らすんじゃ」
 一瞬、一同は息を呑んだ。
「……なん――だって?」
 色を失い、弥勒は皿の上の菓子を見て、眠り続ける珊瑚を見つめた。
 半泣きになった七宝が叫ぶ。
「このまま、珊瑚はもう眼が覚めんということか?」
「まあ、な」
「そんな……」
 かごめは両手で口許を押さえ、言葉をなくした。
 腕を組んで眼を閉じる冥加を指先でつまみあげ、その指を顔の前まで持ってきて犬夜叉は詰め寄る。
「解決策はねえのか! おめえなら、なんかひとつくらい知ってんだろ!」
「まあ、ないこともありませんが……」
 冥加は歯切れが悪い。
「冥加じいちゃん、教えて」
 教えるべきか否か、迷っている様子の冥加だったが、祈るようなかごめの声に、しぶしぶ口を開いた。
「幸いというべきか、時じくの実が、ここにもう一切れある。危険な賭けじゃが、これを食べ、誰かが珊瑚の見ている夢の中に入って、強引に珊瑚を連れ戻すしか――
「私が行こう」
 間髪をいれず、弥勒が言った。
「ですが、法師どの、生身の人間には極めて危険なことですぞ。第一、珊瑚が見ている夢に行きつけるとは限りません。下手をすれば、珊瑚ばかりか法師どのまで夢の世界に閉じ込められるやもしれん」
「なら、おれが行く」
 と犬夜叉が言った。
「人間だと危険ならおれが行くしかねえ。心配するな、弥勒。珊瑚は絶対におれが救い出す」
 だが、鉄砕牙を握り、決然と言う犬夜叉に、弥勒はきっぱりと首を横に振った。
「私が行く」
「でも、弥勒――
「頼む、犬夜叉。珊瑚は私の手で救いたいんだ」
 はっとした犬夜叉が弥勒の眼を見つめた。
 その言葉を言ったとき、弥勒は語調を荒げたわけでも、声を大きくしたわけでもなかったが、それ以上に彼の想いが強く感じられて、犬夜叉は無言でゆっくりとうなずいた。

 雲母はずっと珊瑚の枕元によりそっている。
 珊瑚に異変が生じたあとも、鳴き声ひとつたてないのが健気だった。
 犬夜叉は七宝と一緒に屋敷の周辺や村内に妖怪が出没した気配はないか調べに行き、かごめは、眠りに就く前の準備をする弥勒を手伝った。
 破魔札を燃やして灰を作り、その灰を、弥勒は片手で印を結び、右手の指先で、珊瑚の額、両手首の内側、両足の内側のくるぶし辺りに形ばかり塗った。
 自らの身体にも同様にする。
「妖に精神面に踏み込まれないよう。一種の結界です」
 と、弥勒はかごめに説明した。
「夢の中では法力が使えるか判りませんから。まあ、気休めですが」
「そんなことないわ。あたし、弥勒さまを信じてる。珊瑚ちゃんも、きっと弥勒さまのこと待ってると思う」
「ありがとう、かごめさま」
 泣きそうなかごめに対し、弥勒は微笑してみせた。
 だが、彼が淡々としていればいるほど、かごめには痛々しくてならない。
「一度眠ると、私と珊瑚の身体は完全に無防備になります。監視をお願いできますか」
「解ったわ」
「今朝、この部屋で何やら怨霊らしき気配を感じました。何かあっても、かごめさまなら祓えるでしょう」
 万が一のときのために、かごめは弓矢を引き寄せた。
「部屋の中だけど……」
「まずは弦打ちを」
「解った」
 弥勒は錫杖をそばに置き、例の橘の菓子を食べる。
 仄かに甘く、床しい味がした。
 それを呑み込んでから、珊瑚の隣に身を横たえた。
 ひとたび眠ると、いつ目覚めることができるか判らない、その恐怖はあった。
 しかし、珊瑚を救えるなら、己の身などどうなってもいいと思う。
 弥勒は珊瑚の手を握る。同じ夢に辿りつけるよう――
 小さなその手をしっかりと握りしめて、ほどけないよう、指をからめて。そして弥勒は眼を閉じた。
 不安げなかごめと、珊瑚の枕元の雲母が二人を見守る。
「弥勒さま……珊瑚ちゃん……」

≪ 壱   参 ≫ 

2010.4.1.