夢魔 −非時香菓− [伍]
やがて、喉をつまらせ、かすれた声で彼は言った。
「少しだけ、抱いていいか?」
珊瑚は弥勒の顔を見上げた。弥勒は少し躊躇ったようだったが、珊瑚に代わってすぐに答えた。
「ほんの少しの間なら」
蔭刀は珊瑚の前に膝をつく。
傷ついた珊瑚の身体が弥勒の手から蔭刀の手に渡された。
血に染まった打ち掛けを痛ましげに見つめ、蔭刀はその華奢な肢体を抱きしめた。
珊瑚はおとなしくしている。
「すまなかった、珊瑚」
「……ううん」
この人からは花橘の香りがする、と珊瑚は思った。
蔭刀の手が傷を受けた珊瑚の背中にあてられた。不思議なことに、傷の痛みがすっと和らいでいく。
二人の様子を眺め、弥勒は、自らを戒めていた。
この死霊は成仏できないのだ。だから、なぐさめを見いだそうと珊瑚を攫ったのだ。
「ありがとう、若様。痛みが引いた」
「法師。珊瑚を返す」
弥勒はうなずき、蔭刀の手から珊瑚を抱き取った。
そして、立ち上がった蔭刀のほうを見遣る。
「死者の霊を弔うのは法師の務め。遺骨か、もしくは遺品などを捜して、ご供養したいが」
蔭刀はふんと笑った。
「そのようなものは、残ってはいまい」
彼はゆっくりと棚のほうへ向かい、壺に挿してあった花橘を手に取った。
「珊瑚をつれて去れ。ここにいれば、私はきっと何度でもおまえを殺そうとする」
「では、あなたが現世へ持ち込んだあの橘の花を代わりに、珊瑚の故郷の土に埋め、ご供養すると約束しましょう」
一瞬、驚いたような顔を見せた蔭刀だったが、すぐに法師から眼をそらした。
「……憐れみなどいらぬ」
花の枝から白い花びらをちぎり取り、彼はそれを二人に渡した。
「この花びらを飲み込めばよい。自然に眠り、もとの世界へ戻れる」
「若様……」
「禁断の実の力を借りても、私はおまえを得ることができなかった。仕方のないことだ」
しばしの間、彼女を目に焼きつけるように見つめていた蔭刀は、やがて未練を断ち切るように立ち上がった。
「さらばだ、珊瑚」
蔭刀は音もなく部屋を出た。
静けさの中に二人残され、彼が去ったそのあとを、珊瑚はじっと見つめていた。
「法師さま」
「なんです?」
「若様は、永遠にこの城で孤独に暮らすんだろうか」
「きっと成仏できますよ。おまえが彼の言葉を覚えていたことが、彼の魂を救ったんです」
「法師さま」
「はい」
「あたし、法師さまのこと、思い出したい」
腕の中の娘に視線を向けると、真摯な瞳が彼を見ていた。
ふっと表情を緩め、弥勒は強くうなずいた。
二人同時に白い花びらを呑む。
ほどなく、睡魔に襲われた。
「珊瑚。ひとつだけ、眠る前に確認しておきたいのだが」
座ったまま彼女の肩を抱いている弥勒は、珊瑚が身をもたせてくるその重みを快く受け、問うように首を傾げた彼女の耳元に口を寄せた。
「夜伽など、させられてはいまいな」
そのささやきに驚いた珊瑚がわずかに身を引いて法師を見た。
「なんてこと言うの、法師さま!」
真っ赤になって眼を見張る様は、確かに彼がよく知る珊瑚であり、弥勒はこの世界に来て、初めて安堵を覚えた。
そろそろ眠気も限界だ。
微かな吐息を洩らし、法師は娘の小さな手を取った。
「おまえが私とはぐれないように」
指と指をしっかり絡める。
珊瑚はいくぶん恥ずかしげにしていたが、それでも安心したように、法師にもたれ、眠りに身を委ねて眼を閉じた。
* * *
眠る彼女の睫毛が動いた。
はっとしたかごめは、横たわる二人をじっと見つめている半妖の少年のほうを見た。
「犬夜叉、珊瑚ちゃんの瞼が」
「ああ」
そろそろと開かれた瞼がけだるそうに瞬いた。
「……」
珊瑚は、今、自分がどういう状況にあるのか解っていないようで、ぼんやりと視線で周囲を確認する。
「かごめちゃん……雲母」
横たわる自らのそばにはかごめ、そして顔のすぐ横には小さな猫又がいる。
反対側に頭を巡らすと、同じように犬夜叉と七宝が座ってこちらを見ていた。
ペットボトルやポテトチップスの袋、食べ終えたカップ麺のカップなどが辺りに置かれている様は、彼らがずっと二人のそばを離れず、食事もここですませていたことを物語っていた。
「法師さま……」
珊瑚は、自分と同じように横たわって眠っている弥勒の姿に小さく驚きの表情を作る。
彼はどうしたのだろう。
自分たちの身体にはそれぞれ夜具が掛けられていたが、その下の指が彼の指に絡められていることに、珊瑚は気づいた。
刹那、ぴくりと彼の指が動いた。
「法師さま」
思うように声が出ない。
大きな声で呼びかけたつもりが、ささやくようになってしまった。
だが、彼には伝わったようで、繋がれた手がやわらかく握られた。
全身が重く、ひどくだるい。
身を起こせないのがもどかしかった。
ゆっくりと眼を開けた弥勒も、そのままじっとしているところを見ると、やはり起き上がれないようだ。
「弥勒ー、珊瑚ー!」
「二人とも無事か。いやー、よかった」
涙ぐむ七宝、そして犬夜叉の肩の上で冥加が言う。
「破魔札を使ったのは賢明でしたな。どうかすれば、戻った意識と肉体がうまく融合せず、そのまま死に至る場合もあるようですから」
「なっ! てめ、そんな大事なことをなんでもっと早く言わねえんだ!」
「いや、下手に脅かしてはいけないかと」
冥加を指先で押しつぶす犬夜叉にふふっと笑い、かごめは弥勒と珊瑚に視線を戻した。
「本当によかった。喉、渇いてない? 何か食べられそう?」
珊瑚は弱々しく首を振った。
「とてもだるいんだ。それに、眠い。……あたし、どうしたの?」
かごめが答える前に、弥勒が、天井を見たまま大きく息を吐いた。
「体力を使い果たしたのでしょう。我々は二人とも、常世の国へ行ってきたのですから」
かごめがまばたきをし、犬夜叉が、
「常世の国?」
と問い返した。
「夢の中じゃねえのか? どういうことだよ、弥勒?」
「駄目ですよ、犬夜叉さま。わしも常世の国がどのようなところなのか興味がありますが、今は二人をゆっくり休ませてやらなければ」
「眠ったら、また眼が覚めんというようなことにはならんか?」
不安げに犬夜叉の膝にすがる七宝に冥加は尤もらしく腕組みをした。
「大丈夫、時じくの香の木の実の効果は一度きりじゃ」
「確かなんだろうな」
疑わしそうに蚤妖怪を見遣る犬夜叉だったが、弥勒がけだるげにそちらへ顔を向けた。
「とはいえ、この先、ずっと眠らずにいるわけにもいくまい」
視線が合い、薄く弥勒は微笑む。
「私と珊瑚の身体を見張っていてくれたのだな。ありがとう、犬夜叉、七宝」
「おう」
「そして、かごめさま」
にっこりと応じるかごめの手前、珊瑚の枕元で、みう、と雲母が鳴いた。
「雲母も」
室内はもう薄暗かった。
灯を持って部屋を訪れたこの屋敷の娘が、障子の向こうから遠慮がちに中の者に声をかけた。
「あの、みなさん。夕餉の用意ができましたが、今日もこちらへお運びしましょうか?」
「あ、ありがとう、咲さん。今日はそっちへ行きます」
弥勒さまと珊瑚ちゃんを眠らせてあげなくちゃ、と雲母を抱き上げたかごめは犬夜叉や七宝を急きたてて、部屋を出た。
燈台に火を点すために室内に入った咲の目に、夜具に横たわっている法師と退治屋の娘の姿が映った。
手燭の火を部屋の燈台に移すとき、横目で法師を窺った咲は、彼が愛おしげな眼差しで傍らの娘を見つめているのを見て、諦めたように口許を笑ませ、吐息をついた。
そして、二人を残して、自分も夕餉の席へ向かった。
弥勒と珊瑚は、空白になった時間を埋めるかのように、じっと互いに見つめあっていた。
「法師さま、唇、血が出てる」
ふと、珊瑚に指摘され、弥勒はどこか照れくさそうな表情を作った。
「ちょっと噛んでしまいまして。あとで癒してくれますか」
「――? うん」
まさか夢の世界で負った傷が現実世界に持ち込まれるとは思わなかった。
おまけにあのときのことは、珊瑚も知ったら恥ずかしがるだろうが、己もやり過ぎてしまった感があり、照れが残る。
「おまえは? 背中は大丈夫か?」
「背中? 何ともないけど」
瞼が重くなってくる。
弥勒は部屋の中に橘の花を探した。
部屋の隅に、竹筒に挿された可憐な花が、そこだけ白く、清らかに浮き上がって見えた。
かごめか、咲が取っておいてくれたのだろう。
「珊瑚」
「ん?」
吐息のように娘は応えた。
「近いうちに、退治屋の里へ行こう。私の私用のようなものだが、おまえにも係わりのあることだ」
「解った。起きたら、その話を詳しく聞かせて?」
里へ行き、一緒に花を埋め、ねんごろに供養しよう。
そのときは、あの男を覚えているかと珊瑚に訊きたい。
見つめあっていた珊瑚が眼を閉じたのを見て、弥勒も眼を閉じた。
繋いだ手が握られ、彼も彼女の手を握り返す。幾日この世界から離れていたのか判らないが、珊瑚を取り戻すことができたのだ。
朝が来たら、またいつもと同じ日々が訪れるのだろう。
燈台の灯がわずかに揺れ、橘の葉が微かに震えた。
誰かまた花橘に思ひ出でむ われも昔の人となりなば
≪ 肆 〔了〕
2010.4.22.