夢魔 非時香菓ときじくのかくのこのみ− [肆]

「法師さま。……法師さまなの?」
 茫然としていた弥勒は珊瑚の声にはっとした。
 だがそれは、彼を思い出したのではなく、彼のなりを見て言った言葉に過ぎないとすぐに気づく。
 弥勒は現実世界での記憶を保ったままこの世界に来ているのに、珊瑚は夢の世界にのみ存在し、現実の出来事を全て忘れているようだ。
 眠る前にまじないに使った破魔札の効果か。
「私は弥勒法師。おまえを迎えに来ました。とにかく、ここを出て帰るべきところへ帰りましょう」
 弥勒は珊瑚が手に持っていた貝を横に置かれた貝桶に戻し、彼女の手を取って立ち上がらせようとした。
「父上に頼まれて来たの?」
 弥勒はふと眼をあげて珊瑚を見た。
(父親が生きている世界なのか。とすれば、琥珀も。退治屋の里も滅びていないのだろう)
 ――だから、自分がいないのか。
「まあ、そんなところです」
「じゃあ、父にあたしは大丈夫だと伝えてください。もう少し城に滞在してみて、蔭刀さまの正室になることを真面目に考えてみるつもりだと」
「誰の……正室だって……?」
 弥勒は唖然と珊瑚を見た。
「おまえには許婚がいるのに……他の男に嫁ぐつもりか?」
「許婚? そんなものはいない」
「私を裏切ると……?」
「どういう意味さ?」
 珊瑚にそんなつもりがないことは解っている。
 しかし、感情が許さなかった。
 彼の手にいざなわれて立ち上がった珊瑚の姿を改めて眺めやる。
 どこからどう見ても、武家の姫君ではないか。
 あでやかな大輪の牡丹を描いた辻が花の打ち掛けを優雅にまとう姿は、珊瑚であり、珊瑚でなかった。少なくとも、彼の知る珊瑚ではない。
 野の花を手活けの花にされてしまったような、そんなやり場のない憤りを覚え、締めつけられるように胸が痛む。
 何故、視界がぼやける。
 何故、瞳の奥が熱い。
「法師さま? どうしたの、急に黙って」
 その言葉は、声は、愛する娘が発するものに違いないが、彼を見る眼はまるで他人を見るようで、彼女の言う“法師”は弥勒個人を指すものではない。
 こんなあでやかな“姫君”は知らない。
 遠慮がちに見上げてくる瞳、法師さま、と控えめに、けれど最上の響きを込めて呼ぶ、あの声が恋しい。
「法師さま、顔色が……」
 心配げに法師に一歩近寄った珊瑚の腕を、反射的に弥勒は掴んだ。
「里は滅びず、琥珀も無事だ。この世界はおまえには住みよいものかもしれん。だが、おまえにとって、私の存在は――

 夢魔に踊らされて消し去れるほど軽いものだったのか。

 ぐいと腕を引かれ、珊瑚は驚いたような顔をした。
「何を……!」
「おれを信じて、おれに心を預けろ。でなければ、おまえはこのかりそめの世界に永久に閉じ込められることになる」
 弥勒は錫杖を捨てた。
 強引に珊瑚の身体を引き寄せ、腕の中に収めようとする。一か八か、現実世界の彼女の身体に塗った破魔札の灰に念を送ろうと。
「珊瑚、思い出せ」
 だが、珊瑚は弥勒の身体を突き飛ばした。
「変な真似しないで。あたしは妖怪退治屋だよ。あんたみたいな優男一人、簡単に倒せる」
「ならば、やってみろ」
 珊瑚を取り戻したいのは勿論だったが、彼女の背後に男がいるらしいことが、余計に弥勒を駆り立てていた。
 この世界にとどまることを許せば、必然的に、珊瑚はその男のものになってしまう。
 法師の振る舞いに腹を立てた珊瑚は、思いきり投げ飛ばしてやろうと彼に迫った。
 しかし、隙がない。弥勒もまた、力ずくで彼女を押さえようと珊瑚の動きを見るが、こちらも簡単に捕まる相手ではない。
 この男、闘い慣れている、と珊瑚は思った。
 身のこなしに無駄がなく、その動きから、里の手練れたちにも引けを取らないほどの戦闘能力を持っていることが窺えた。動きづらい衣裳を着ている分、彼女のほうが不利だ。
「珊瑚」
 不意に、すがるように名を呼ばれ、珊瑚はびくりとした。
「珊瑚。何故、おれを拒む」
「えっ……?」
 一瞬の怯みが勝負を分けた。両方の手首を掴まれ、珊瑚は息を呑んで眼を見張る。
 身を引こうと後退さり、ぶつかった屏風が音をたてて倒れた。
 それでもなお彼から逃れようと後ろへ下がる珊瑚の背中が、ついに壁に押しつけられた。
「いや。来ないで」
 両手を縫いとめられてもがき、視線を合わせたまま首を振る。
 深い色を湛えた漆黒の瞳がじっと珊瑚を見つめていた。
 間近に顔を近づけられ、己の激しい鼓動に狼狽え、珊瑚は眩暈を覚えた。
 蔭刀に抱きしめられたときとは全然違う。あのときはこれほどの昂揚感はなかった。
 こんな乱暴な振る舞いに及ばれて、本当なら怒りを感じるべきだ。
 しかし、現実には甘美といっていいほどの戦慄と切なさが彼女を包む。
 嫌悪などない。むしろ、
(恋しい?)
 何故――
 潤沢な黒珠の瞳にひたと見つめられ、法師はたまらなくなって顔をゆがめた。
「どうして、そんな眼でおれを見る」
 見つめあっていることに耐えられなくなり、弥勒は、壁に押しつけている彼女の両手首を握る手に力を込めた。そして、瞳を合わせたまま、一気に珊瑚の吐息を奪った。
「……っ!」
 激しく唇が重なる。
 全てを奪われるような口づけに、珊瑚はその場にくずおれそうな足を必死に叱咤した。やさしいのに荒々しい、そんな彼の為しようにくらくらと気が遠くなっていく。
 退治屋としても女としても、これは屈辱的なことであるはずだ。
 なのに、珊瑚の心は、魂は、全霊を傾けてこの青年を求めている。
(あたしは、このひとを知っている)
 この気持ちはなんだろう。何故、このようにこの男が恋しい?
 流されてしまいそうで、全てを委ねてしまいそうで、そうされまいと、気を強く保てと自分に言い聞かせ、珊瑚は反撃の手段を探した。
「つっ!」
 次の瞬間、弥勒が珊瑚から唇を離し、一歩身を引いた。法師の唇には血が滲んでいた。
「珊瑚……!」
「謝らないよ。ひどいことしたのはあんたのほうなんだから」
 手の甲で唇をぬぐう法師を睨めつけて言う娘を見て、法師は不敵そうににやりと笑う。
「上等だ」
 揺るぎない瞳に見据えられ、珊瑚は思わず口をつぐんだ。
「たとえ、おまえに舌を噛み切られようとも、おれはおまえを取り戻す」
 不覚にも鼓動が跳ねた。本当にこの人に抵抗することができるのかと珊瑚が動揺を覚えた刹那、再び腕を取られ、その腕を引かれた。
 珊瑚を抱き寄せた法師は彼女の額に指を当て、念を送ろうとする。
 しかし、廊下を走ってくる人の気配に振り返り、現れた人物を見て、驚愕に眼を見開いた。
「奈落!」
 押っ取り刀で駆けつけたこの城の主は、険しい眼つきで侵入者と珊瑚を見比べた。
「何やつ。珊瑚に何をしている」
「奈落……! きさまが珊瑚をこんなふうにしたのか? 今度は何を企んでやがる!」
 法師の厳しい声音に珊瑚は戸惑いを隠せない。そんな彼女を背後にかばい、弥勒は封印の数珠に手をかけた。
「私は奈落ではない。あのような妖怪と一緒にするな。奈落は私を殺し、私の家や身分や姿まで奪った忌むべきもの」
「なに?」
 退治屋の里の最後の仕事。その悲劇が起きた城の若殿が奈落であったと珊瑚から聞いている。
「奈落に姿を奪われた? では、おまえが、珊瑚に時じくの実を渡した怨霊か?」
「怨霊?」
 驚いた珊瑚が法師の動きを押しとどめるように、彼の腕に手をかけた。
「怨霊じゃない。蔭刀さまだ。あたしはとても親切にしてもらってる」
「ふざけるな!」
 弥勒は珊瑚の手を振り払った。
「狂った世界に珊瑚を閉じ込めることが、親切なのか? 生きている珊瑚を、永遠に怨霊と住まわすことがおまえの望みだとでもいうのか!」
「外界の人間が、どうやってこの世界に入り込んだものやら」
 つと法師から視線をそらし、独り言のように蔭刀は言った。
「……そう。屋敷の人間に憑依して、珊瑚に時じくの香の木の実を渡した。珊瑚とこの世界で暮らすことだけが私の望みだ」
 蔭刀の持つ刀が光を撥ね、屹となった弥勒は視線で錫杖を探した。だいぶ遠くに落ちている。
「珊瑚、こちらへ来い」
「行くな、珊瑚!」
 珊瑚は切羽詰まったように弥勒を見て、蔭刀を見た。が、弥勒のそばから離れようとはしなかった。
「その男がいて心が乱れるというなら、私がそやつを消してやる!」
――っ、やめて!」
 弥勒に刀身を振り下ろす蔭刀。珊瑚をかばおうとする弥勒。弥勒と蔭刀の間に入る珊瑚。
 鮮血が散る。
 元結いが切れ、解かれた黒髪が扇状に舞う。
 その場に崩れ、膝をつく珊瑚の身体を弥勒が正面から抱きとめた。
(この痛みはいつか受けた)
 背中を斬られた。
(あたしの背中には傷がある。琥珀が……つけた傷が)
 瞳を上げると、受け止めてくれた法師が大きく眼を見張って彼女を見つめていた。
 蔭刀は呆然としている。
「珊瑚……どうして……」
「この人を傷つけないで。この人を殺すなら、あたしも一緒に」

“置いていくくらいなら……ここで一緒に死ぬ”

「珊瑚、思い出したのか」
 弥勒の問いかけに珊瑚は弱々しく首を横に振った。
「ううん。でも、たぶん、あたしはあなたを知っている」
 膝をついたまま無言で珊瑚を抱きしめる法師を見下ろし、唇を噛んで、蔭刀は刀をわきに捨てた。
「……記憶が消えても、その男のことは覚えているのか」
 自嘲気味に吐き捨てる声には、寂寥と哀切、わずかばかりの嫉妬が見えた。
「現世において存在を消された私には、思い出してくれる者などない」
 ふと振り返った珊瑚の視線と蔭刀の視線が絡んだ。そのままじっと見つめあう。
「珊瑚。寂しさのみがおまえを求めさせたのではない。本当におまえを愛している。だが、おまえは……私のことなど、露ほども記憶にないのだろうな」
 蔭刀は瞳を伏せ、横を向いた。
 そんな彼を見て、珊瑚は弥勒の腕からゆっくりと身を起こした。
 座りなおそうとする珊瑚を背後から弥勒が支えた。
「戻ってこいって。……若様は、あたしに仇を討ったら城へ戻ってくればいいって言ってくれた」
 はっとした蔭刀が鋭く珊瑚を見遣る。
「いつのことだったか判らないけど、それだけは覚えてる」
「……っ」
 蔭刀は声を呑んで片手で両目を覆った。
「珊瑚……」
 押し殺した声で愛する娘の名をつぶやく。
 身体を支えてくれている法師の手に力が込められたのを感じ、珊瑚は肩に置かれた彼の手に自分の手をそっと重ねた。
 蔭刀はそのまましばらく動かなかった。

≪ 参   伍 ≫ 

2010.4.15.