眠れる森 −第一話−

 弥勒と珊瑚が夫婦になって、はや、五年が経つ。
 楓の村で、二人は妖怪退治を生業にし、ときには弥勒は法師としての仕事もこなし、三人の子供とともに平和に暮らしていた。
 弥勒の子煩悩さは独り身の頃の彼を知る者たちを驚かせ、また、弥勒と珊瑚の子供たちは、人懐っこく無邪気で愛らしく、誰からも愛された。
 村の人たちの前で、法師はよく、美しい妻と可愛い子供たちのことを楽しそうに話題にし、
「まだまだ増える予定です」
 と笑顔で言うので、三人の子らはみんなまとめて「法師さまのところの子供たち」と呼ばれていた。

 子供たちの名前は、弥弥やや珠珠すず、翡翠という。
 最初に生まれた双子は、一人は父親の名前・弥勒から一字を取って「弥弥」、そしてもう一人は母親の名前・珊瑚が海の宝珠であるところから「珠珠」と名づけられた。
 はじめての男の子は、退治屋姉弟に倣って宝玉の名を、と「翡翠」と命名されている。
 今年、弥弥と珠珠は数え年で五歳、翡翠は三歳になる。

 その日、朝早く、弥勒は数日ぶりに我が家へ戻った。
 仕事で家を空けていたのであって、決してどこかで浮気していたわけではない。
「ただいま戻りました」
 愛しい妻が恥じらいながら出迎えてくれるのを期待したのも束の間、
「お帰りなさい、弥勒の旦那」
 玄関に現れたのは、最愛の妻よりも古いつきあいの狸だ。
 期待したのと似ても似つかぬ顔を見て、刹那、弥勒は絶句した。
「旦那?」
「……何でおまえなんです」
「何でって言われても。姐さんに留守居を頼まれたんですよ。って、何ですか、その不満そうな顔は」
 法師はわざとらしく盛大に、はああ、とため息を吐いている。
「別におまえでも構いませんが、珊瑚は?」
「仕事とかで、あっしに子守りを押しつけて、さっき、出かけましたよ」
「仕事――ああ、そうか、今日か」
 珊瑚が引き受けた妖怪退治が、確か弥勒の帰宅の日と重なっていたはずだ。
 珊瑚が出かけるまでに戻るつもりだったのが、入れ違いになってしまったようだ。
「ずいぶん早く出かけたんだな。それで、どうしておまえがここにいる?」
 玄関をくぐりながら、弥勒はハチこと八衛門狸に尋ねた。
「あっしは夢心さまの使いで顔を出しただけですよ」
「夢心さまがどうかされたか?」
「たまには寺へ顔を出せと」
 誰も彼も人使いが荒い、否、狸使いが荒い、と妖狸は声に出さずにため息をこぼした。
 それだけを伝えに弥勒の家を訪れたところ、珊瑚に捉まり、弥勒はまだ帰宅していないから、彼が帰るまで子供たちの世話を頼むと有無を言わせず任された。
 彼女はすでに退治屋の装束を身にまとっており、髪を結い上げながらせかせかと言った。
「本当は弥勒さまを待ってるつもりだったんだけど、あたしの仕事が急を要することになったんだ。お昼までには弥勒さまが帰ってくるはずだから、それまで子供たちを見てて? 大丈夫。ちょっとの時間だし、三人とも、あんたに懐いているから」
 しかし、ハチは知っていた。子供たちが妖怪に――自分や犬夜叉や七宝に――容赦がないことを。
 はあ、とか、まあ、とか、ハチは曖昧に相槌を打つ。
「じゃあ、頼んだよ」
 珊瑚は飛来骨を持って、きびきびと家を出ていった。
 残された狸に最初から拒否権はなかった。

 錫杖を置き、草鞋を脱いで、弥勒はハチに尋ねる。
「で、珊瑚が出かけてどれくらいになる? 子供たちはおとなしくしているか?」
「へえ。四半刻経つかどうかです。お子さんたちはまだ寝てます」
「ああ、だから、家の中が静かなんだな」
 まだ、早い時刻だ。
 ふっと愛しげに笑んだ弥勒を見て、そろそろ退出しようかと、ハチはそわそわとタイミングをうかがう。
「じゃあ、あっしはそろそろ……」
 しかし、ハチの声をかき消すように、突然、複数の甲高い声が彼の言葉をさえぎった。
「母上ー」
「母上、どこー?」
 奥から可愛い声が近づいてくる。
 ぱたぱたと家の中を歩き廻って、彼らは玄関までやってきた。
 小さな女の子が、自分よりもっと小さな男の子の手を引いている。その後ろには前の女の子とそっくりな女の子がついてくる。
「あ、父上!」
 父親の姿を認めた三人の子供たちは、ぱっと表情を明るくして、弥勒のもとに駆け寄り、彼の衣の裾にまとわりついた。
「お帰りなさい」
「お仕事終わったの?」
「母上は?」
 弥勒はその場に膝をついた。
「はい、ただいま。順番に顔を見せて。弥弥、珠珠、翡翠、いい子にしていましたか?」
「はい!」
 三人はそれぞれにっこりと一番いい笑顔を作ってうなずいた。
 この笑顔を見るのを楽しみに帰ってきたのだ。
 弥勒は、一人ずつ、子供たちの頭を撫でてやる。
「母上は?」
「あ、ハチだー」
「母上は今日、仕事だと言っていませんでしたか? もう出かけましたよ」
 子供たちは「えーっ」と声をそろえた。
「母上に、いってらっしゃい、言ってないのに」
「おはようございますも言ってない」
「父上だって母上の顔を見ていないんですよ。文句はハチに言いなさい」
 三つの顔がむうっと化け狸を睨んだので、ハチは慌てた。
「あっしは関係ないでしょうが」
 むくれる三人を法師がよしよしとなだめているが、妖狸は何となく釈然としない。
「まあ、朝餉にしましょう。ハチ、おまえも食べていきなさい」
「恐れ入ります」
 まだ何か企んでいるのか? と恐る恐る上目遣いで弥勒を見ると、彼はどこまでも穏やかな、それでいて得体の知れない雅な笑みを浮かべていた。
「珊瑚は歩いていったのか?」
「はい。だって、雲母は姐さんの弟の琥珀さんと一緒なんでしょう?」
 弥勒はにっこりと笑みを深くする。
「では、朝餉のあと、みんなで珊瑚を迎えに行きましょうか」
 うわーい、と子供たちが一斉に歓声を上げた。
「や、やめてください、旦那。面倒をみるように言われたのに、それでは珊瑚姐さんに怒られてしまう」
 旦那の面倒も、と暗に含ませてみたのだが、弥勒は動じなかった。
「構いません。怒られるのはおまえ一人です」
「勘弁してくださいよ」
 しかし、ここでもハチに拒否権はない。

* * *

 子供たちに食事をとらせ、きちんと身支度させると、法師と三人の子供たちは、変化した化け狸に乗って、珊瑚の仕事先の村へおもむいた。
 珊瑚は徒歩なので、弥勒たちのほうが断然早い。
 村の外れで待っていると、程なく、こちらへ向かって歩いてくる珊瑚の姿が見えてきた。
 母親に気づき、子供たちが大声を上げる。
「母上ー!」
 珊瑚はぎょっとしたように、一瞬、立ち止まり、自分の子だと判ると、駆け寄ってくる三人のために飛来骨を置いてその場にしゃがんだ。
 子供たちにはやわらかな微笑を向け、その後方にいる弥勒とハチを怖い顔でちらと睨む。
「おはようございます、母上」
「おはよう、弥弥」
「母上、お仕事、頑張って」
「ありがとう、珠珠」
「あのね、ハチ、乗った」
「よかったね、翡翠。翡翠はハチ大好きだもんね」
 それから、彼女は苦笑いで誤魔化す夫と挙動不審な狸を睨みつけた。
「ちょっと、どういうこと、二人とも? 子供たちを頼むって、あたしは言ったはずだけど」
「おまえを迎えに来たんですが、ちょっと早く来すぎたみたいです。みなが珊瑚に会いたいと騒ぐので」
 緊張感のない法師にむっとしたように、珊瑚は立ち上がって声を荒げた。
「物見遊山じゃないんだよ。妖怪退治に子供たちをつれてくるなんて、何考えてんのさ!」
「ですな。だから言ったじゃないですか、ハチ。珊瑚の迷惑になるからよそうって」
「はい?」
 都合のいいように話を作りかえられて、ハチは唖然と弥勒を見た。
「ハチもハチだよ。留守番しててって頼んだのに」
「無責任なことです」
「え、いえ――
「ここは危険なの。危険な妖怪がいるの!」
「まあまあ、ハチも反省しているようですから」
 旦那は反省してるんですかい、と問う暇もなく、珊瑚の怒りが弥勒に向いた。
「だいたい法師さまは……」
 両親のやり取りをじっと聞いていた子供たちが、そこで「あーっ」と叫んだ。
「母上、父上にちゅ、しなきゃ」
「ほっぺじゃなくてお口にだよ」
 何事かとハチが子供たちから二人に目を移すと、恥ずかしそうに珊瑚は口許を押さえ、弥勒はにやにやして彼女を見つめている。
「罰ですよ、珊瑚」
「……しょうがないな」
 子供たちが珊瑚の真似をして父親のことを「法師さま」と呼ぶので、子供の前では必ず名前で呼ぶようにと、珊瑚は弥勒に約束させられている。
 間違って呼んだ場合は罰則として口づけをひとつ。
 しかし、一方で本人は、母を真似する娘たちから「ほうしさまー」と呼ばれ、頬にちゅっとされるのを結構喜んでいる。
「もう」
 珊瑚は照れたように、身をかがめる法師の肩へ手を掛け、爪先立って彼の唇に口づけた。
 どこを見ていればいいのか、ハチは視線を泳がせるが、子供たちには見慣れた光景らしい。
 くすくす笑う子供たちの声に、仄かに珊瑚の頬が赫く染まった。
「とにかく、おまえたちがここにいたら危ないの。父上と家に帰ってくれるね?」
「母上は?」
「これから仕事。夕方には帰れると思うから」
 双子はこくんとうなずいた。
「解った。父上とハチとお家で待ってる」
 弟の翡翠はまだ寂しいらしく、母親にぎゅっとしがみつき、
「母上、怪我しない」
 と言った。
「ありがと、翡翠。父上と姉上たちをよろしくね」
「うん」
「この仕事が終わったら、母上はしばらく仕事しないで家にいるから」
「ほんと?」
「ほんとだよ。約束」
 かごめから教わった指切りをすると、珊瑚は立ち上がって弥勒を見た。
「弥勒さま、寄り道しないですぐ帰ってよ」
「信用ありませんなあ」
 と、弥勒はうそぶく。
「おまえの顔を見たので、みな、納得したでしょう」
 結局、子供たちを出しにして、一番姐さんの顔を見たかったのは弥勒の旦那ではないだろうか、とハチは考えたが、怖くて口には出せなかった。
 珊瑚はこれから、妖怪退治の依頼主に会うという。
 妖怪による被害の状況を村人たちに聞きに行くのだ。
 子供たちが気になるのか、弥勒が気になるのか、振り返り振り返り、珊瑚は集落のほうへ歩いていった。
 そんな彼女の不安はすぐに現実のものとなる。
 子供たちは久しぶりの遠出に興奮し、すんなり帰宅というわけにはいかなかったのだ。
「ねえ、ハチ、お散歩しよう」
「お散歩ー」
 ハチの両手にぶら下がる弥弥と珠珠が、掴んでいる狸の手をぐいぐい引っ張って言った。
 何だかんだいって、子供たちがハチに懐いているのは本当らしい。
「父上、あそこの森に行きたい」
「仕方ありませんな。ちょっとだけですよ」
「いいんですか、旦那」
「せっかくここまで来たんですし。でも、珊瑚には内緒ですよ」
 翡翠を抱いた弥勒は、弥弥と珠珠と手を繋いだハチと一緒に、気軽に村に程近い大きな森へと足を向けた。
 そして、この時点の彼らは知る由もないが、この森こそ、珊瑚が妖怪退治に向かおうとしている場所であった。

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2010.8.24.