眠れる森 −第二話−

 その森は、深く、森閑としていた。
「あまり奥まで入ると、迷いそうだな」
「ですから、弥勒の旦那、もう帰りましょうよ」
 抱いていた翡翠を一旦地面に下ろし、弥勒は、ふう、と息をついた。
「そのほうがいいかもしれん。そろそろ帰りますよ、弥弥! 珠珠!」
 ハチの手から離れて周辺を歩き廻っていた双子の一人が、草を分けて父親のもとに戻ってきた。
「弥弥、珠珠はどこです?」
「あっち」
 再び翡翠を抱き上げ、弥勒とハチは弥弥のあとに続く。
 双子のもう片方は、少し広くなった場所で、しゃがみ込んでいた。
「珠珠?」
 弥勒の声に珠珠は振り向く。
「父上、これ、お薬?」
 見慣れない植物を発見したようだ。山や野では、食べられる草や薬になる草があることを、双子はよく父や母から教わっている。
 弥弥も珠珠のそばに座り込む。
「お野菜じゃない?」
「美味しいかな」
「食べてみようか」
 そのまま、躊躇いもせずに二人がちぎった葉を口に入れたので、弥勒は仰天して、
「あーっ!」
 と叫んだ。
「弥弥、珠珠、なに拾い食いしてるんです。朝餉をお腹いっぱい食べてきたでしょう」
 思わず翡翠をその場に置いて、二人に駆け寄った。
「何を食べたんです」
「これ」
「美味しいよ。やっぱり、お野菜じゃない?」
「あっちにもこっちにもある。持って帰ったら、母上、喜ぶよ」
「こんな野菜、見たことありません。毒だったらどうするんです?」
 弥勒は双子の娘たちの手からその葉を取り上げ、眉をひそめて問題の植物に視線を落とした。と、
「毒じゃなさそうですよ」
 後ろでハチの声がした。
 しゃりしゃりとその葉を食べている。
「なかなかいけます」
 その足許では翡翠も同様に、しゃりしゃり。
「翡翠まで! こら、食べちゃいけません! ハチはまあ、妖怪だから害はないとして、うちの子はか弱い人間なんです」
 しかし、三人ともその正体不明の葉を食べてしまったあとではもう遅い。
 仕方なく、弥勒も毒見のつもりで食べてみた。
「ね、美味しいでしょ? 父上」
「ハチの言う通り、毒はなさそうですな」
 小さくため息をつく。
「ですが、念のため、帰ったら解毒剤を調合しましょう」
 弥勒は樹々に囲まれた頭上を仰ぐ。
 静かすぎる森は不気味に感じた。
 音が全て、森の深淵に吸い込まれているような錯覚に捕らわれる。――妖気もまた、然り。
 そんなことを考えた刹那、突然、ふわりと眩暈に襲われた。


 村人たちから聞いた話と、村の周辺やこの森で目撃された獣の足跡、その他の情報から、珊瑚は目的の妖怪の行動範囲とその縄張りを推測して動いていた。
 この森の中に巣があるようだ。
 妖怪本体は目撃されていないが、足跡を見た村人がどうも普通の獣ではないようなので調べてほしいと相談を持ち込んだのが十日ほど前。
 専門的な知識が必要なため、弥勒や犬夜叉ではなく、珊瑚が現場を見たほうがいいということになった。
 弥勒が仕事で数日家を空けるので、その後であれば引き受けると珊瑚は応じ、この日の午後に詳しい話を聞くつもりでいた。
 しかし、急遽、夜明け前に村人が訪ねてきて、子供が何人も行方不明になったと訴えたので、珊瑚は急いで村に駆け付けたのだ。
「樹に爪痕がある。近いか」
 森の中を、一歩一歩、確かめるように歩を進める。
 獣が草を分けた跡や、樹に傷をつけた跡がだんだん目立つようになり、珊瑚は巣にいるだろう妖怪の距離と森の深さを頭の中で計算した。
 慎重に、別の角度からもう一度妖怪の足跡を辿ろうと、少し森の中を移動し、そして、彼女は信じられないものを見た。
「弥勒さま!」
 少し広くなった場所で、弥勒とハチが気を失って倒れていたのだ。
「弥勒さま、ハチ! どうしたの、しっかりして!」
 二人に駆け寄り、飛来骨を投げ捨てて弥勒の身体を抱き起こした珊瑚は、規則正しい寝息を聞いた。
「寝てる……? 寝てるだけ?」
 ふと周囲を見廻すと、あちこちに見慣れない植物がある。
チサ……」
 珊瑚ははっとした。
 子供たちがいない。
「弥勒さま、起きて! 子供たちはどうしたの!」
「ん――
 乱暴に揺すぶられ、頬を軽く叩かれ、弥勒は眼を覚ました。
「弥勒さま、あたしが判る?」
「珊、瑚……?」
 弥勒はだるそうに珊瑚の腕から身を起こして額を押さえ、軽く頭を振った。
「私はいったい」
「よかった、あたしが判るんだね。でも、苣を食べたんだろう?」
「苣?」
「この植物」
 苣――つまりレタスのことだが、この時代のレタスは現代のレタスと同一のものではなく、掻き萵苣である。食卓に馴染みも薄いが、一応、弥勒もその名前は知っていた。
「そんなことより、子供たちは? 弥弥と珠珠と翡翠は?」
「子供……?」
 弥勒はきょとんと眼を見張る。
 珊瑚は言葉を失い、その場にぺたんと座りこんでしまった。
「……子供たちを頼むって、あれほど言ったのに……」
「珊瑚?」
 気を取り直すように、珊瑚は大きく息を吸った。
「弥勒さまは、今、どんな生活をしている?」
「奈落を倒すため、犬夜叉たちと旅をしている。おまえもだろう?」
「右手を見て」
 己の右手に視線を落とし、弥勒は愕然とした。
「これは……?」
 風穴がない。
 珊瑚は両手で顔を覆った。
「ああ! やっぱり喰われたんだ」
「どういうことです、珊瑚? 私は夢を見ているのか」
「あたしと弥勒さまの関係は? ただの仲間? それとも」
「何を言っている。この間、奈落を倒したら一緒になろうと約束したばかりだろう。……もう一度言ってほしいのか?」
「冗談言ってる場合じゃない!」
 勢いよく立ち上がった珊瑚に合わせて、弥勒も錫杖を手に立ち上がる。
「弥勒さま、よく聞いて」
「聞いてますよ。それより、おまえ、心なしか、少し大人びたような……」
 珊瑚の身体の線を上から下までなぞるように法師が視線を動かしたので、珊瑚は慌てて飛来骨を持ってその後ろに隠れた。
「確認のため触ってもいいですか?」
「駄目っ! なんでそんないやらしい目で見るの! 子供産んだんだから、そりゃ変わるよ」
「子供っ?」
 驚いた弥勒は珊瑚の飛来骨を取り上げて錫杖と一緒にわきに置き、彼女の両肩を掴んだ。
「いつの間に? って、そんな時間なかったでしょう! っていうか、誰の子だ!」
 そんな法師をなだめるように珊瑚は彼の腕に手を乗せ、彼の瞳を見上げた。
「だから、よく聞いて。今はあれから五年以上経ってるんだ。あたしと弥勒さまは夫婦で、あたしたちには子供が三人いるの」
「おまえと私が夫婦?」
「弥勒さまとハチは、たぶん、眠っているうちに記憶を喰われたんだ」
 弥勒からすれば、一気に五年後にタイムスリップしたようなものだ。
 にわかには信じられないが、右手の風穴は確かに消えている。
 傍らで鼾をかいているハチに珊瑚が目を向けたので、自身も妖狸の姿を確認し、弥勒は再び彼女をまじまじと見つめた。
「三人も子供を産んでいるようには見えんが」
「上の子は双子だから、お産は二回」
 弥勒から離れて飛来骨を持ち上げる珊瑚を見つめ、それにしても、と弥勒はつぶやく。
「おまえに手を出した記憶がないのに、すでに子供が三人もいるなんて、納得いかないと思いませんか?」
「知らないよ、そんなこと!」
 不意に腰から下を撫でられ、振り向きざま、珊瑚は法師の頬を思いきり打った。

「おら、起きろ、ハチ」
 ハチを蹴飛ばして起こす弥勒を珊瑚は吐息を洩らして眺める。
「何度も言うようだけど、子供たちのことは二人が責任持って助けてね。あたしはお礼をもらって村の人たちのために働いてるんだから、自分の子を優先させるわけにはいかないんだ」
「解ってますよ」
 欠伸をする狸を促し、二人は森の奥へと進んだ。
 道すがら、珊瑚が妖怪について説明する。
「草を踏み分けた跡があるだろう? あたしはこれを追って来たんだ。まだ新しい。妖気が薄い妖怪だから、弥勒さまも気づかなかったんだと思う」
 飛来骨を手に珊瑚が先頭を行き、弥勒、ハチが後に続く。
「何という妖怪だ?」
「獏。苣を見て、確信した」
「獏? 夢を喰う妖怪ですか?」
「正確には獏の亜種になる。夢じゃなく、記憶を喰う獏なんだ」
 珊瑚によると記憶を喰う獏は、どういう生態なのかは不明だが、季節を問わず冬眠のような状態になることがあるという。その際の保存食に、人間の子供を集めるらしい。
「獏は新鮮な記憶を好む。子供は新しい記憶で満たされているから、主に子供が狙われるんだ」
 よほど飢えてでもいない限り、大人は弥勒のように新しい記憶だけを喰われる。
「あの苣は?」
「あれは人間が栽培しているものとは全く異なるもので、獏の糞を肥料にして自然に育つ。いわば獲物をおびき寄せる餌だよ」
「餌?」
 珊瑚は振り返ってうなずいた。
「そう。そっくりだから苣と呼んでいるけど、あれには強い催眠作用があるんだ。眠った獲物を、縄張りを巡回する獏がその場で喰うか、巣に持ち帰る」
「なるほど」
「同時に苣の分布で獏の棲息地と行動範囲が特定できるんだ」
 獏は、記憶だけではなく、獲物を身体ごと喰う場合もある。何人も子供が行方不明になっている今、早急に手を打たねばならない。
 ふと、弥勒が言った。
「さっきから気になっていたんだが、五年後のおまえは私を弥勒さまと呼ぶんだな」
 はっとした珊瑚は微かに頬を染めた。
「そう呼べってあんたが言ったんじゃないか」
「いいですな。夫婦らしくて」
「そう?」
 五年前の弥勒とのやり取りに戸惑い、珊瑚はどぎまぎと瞳を伏せた。
「それに、おまえはますます色っぽくなって」
「そんなふうに見ないでって!」
「……お熱いことで」
 最後尾で、ハチが見ていられないというふうにぼそりとつぶやいた。
「子供たちの名前は何でしたっけ」
「双子の女の子が弥弥と珠珠。色違いの揃いの着物を着て、そっくりだから、すぐ判る。下の男の子は翡翠。狸が好きだから、こっちもすぐ判ると思う」
「狸が好き?」
 弥勒は怪訝そうにハチを顧みた。
 目が合った狸が肩をすくめる。
「とにかく、あんたのことを父上って呼ぶのがあんたの子だよ」
「いい響きですな」
 弥勒のつぶやきを背後に聞き、珊瑚はほんのりと口許を笑ませた。
 ともに生きると約束したばかりだという弥勒が、自分との結婚、子供の存在を受け入れ、嬉しそうにしている様に、やわらかな気持ちで満たされた。
 森はどんどん深さを増す。
 天からこぼれる陽光が、光の欠片のようにきらきらと降り注ぐ。
 気を引き締めようと前方に目をやり、彼女はふと足をとめた。
「洞穴がある。弥勒さま、ハチ、あそこを調べてみよう」

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2010.8.31.