眠れる森 −第三話−
深い森の奥にひそむように、年を経た木々に包み隠されるように、ひっそりと洞穴は口をあけていた。
生き物の気配はない。
しかし、洞穴の周りには苣がまばらに生えていた。
弥勒と珊瑚、そしてハチは、用心深く洞穴の入口に近づき、そっと中の様子を窺った。
「静かだな」
珊瑚の隣で弥勒がつぶやく。
「ここが巣だとしても、獏はここにはいないのか、もう眠りに入ってしまったのではないか?」
「そうだね」
珊瑚は洞穴の大きさを測りながらうなずいた。
獏に攫われた子供たちが全員無事だという保証はないが、冷静に対処しようと努める。
「弥勒さまの言う通り、もう眠りに入っているのかもしれない。ただ、洞穴の中の狭い空間で獏をしとめようとすれば、攫われた子供たちが巻き添えを食う可能性があるな」
「よし、私とハチが囮になろう」
「えっ、あっしもですか?」
戸惑ったようなハチの声はあっさり無視され、弥勒は言葉を続けた。
「獏を洞穴の外へおびき出そう。攫われた子供たちの人数は?」
「村の子供が六人。うちの子を入れて九人だよ」
「解った。この洞穴の中に私の子がいるかもしれんのか。何だか緊張してきた」
いつも泰然としている法師が、それだけのことにどこかそわそわしているように見え、珊瑚は微笑ましくなって彼の肩に手をかけて、思いきり背伸びをした。
「しっかりしてよ、父上」
と、いとも簡単に珊瑚が彼の頬に口づけたので、弥勒は唖然とした。
五年前の珊瑚からは考えられない行為に図らずも動揺してしまう。
眼を大きく見開いて自分を見つめる弥勒を見て、珊瑚は彼が記憶を失っていることを思い出し、慌てたように眼をそらした。
「ごめん。つい」
「……いえ」
少し恥ずかしげに弥勒から離れようとした珊瑚の腕を素早く掴み、弥勒は彼女の耳元に唇を寄せた。
「無事、妖怪退治が終わったら、今度は唇にしてくれますか」
珊瑚の耳に甘くささやく。
「……いいよ」
甘酸っぱい気持ちに浸りながら、珊瑚は小さくささやきを返した。
時間の隔たりを超えて、ほんの一瞬、見つめあい、微笑してから、弥勒はハチを顧みた。
「さあ、ハチ。とっとと終わらせますよ」
「やっぱり、あっしも行くんですかー?」
巻き込まれた形の狸は往生際が悪いが、昔から弥勒に逆らえたためしがない。
弥勒とハチが洞穴の中へ進むのを見送り、珊瑚は飛来骨を持ち直した。
獏が外へ出てくるところを飛来骨でしとめれば、すぐにけりが付くはずだ。
洞穴は、外から想像したより深かった。
苣の生えている様子から見て、ここが巣に違いないと珊瑚は言う。
弥勒はハチを伴って、慎重に奥へと進んだ。
「……!」
いた。眠っている。
巨大な熊のような獣がいる。
後足で立ち上がれば、優に十尺は超えるだろう。そして、行方不明になった子供たちが、そのそばに、やはり眠りに支配されて横たわっていた。
捕獲した獲物を眠らせたままそばに置くのは、夢を介して記憶を喰うためらしい。
「九人いますよ、旦那」
「よし。私が獏を外へ追い出そう。ハチ、子供たちを頼んだぞ」
「そんなあ! 一度に九人も抱えて逃げられませんよ」
ハチが困り果てたような声を出した。
「では、先に子供たちを避難させてから、獏を追いたてるとしよう」
二人は獏を起こさぬよう、そっと子供たちのそばへ移動した。
ハチが言ったように九人も抱いて逃げるわけにはいかないから、歩ける者は歩いて洞穴の外へ出てもらうことにする。
弥勒は、一人ずつ手をつねって眼を覚まさせ、狸について洞穴から出るようにと言い聞かせた。
見たところ、七歳より下の子供ばかりだ。どの子も寝起きでぼんやりしているためか、疑問を抱く様子もなく、化け狸のそばへ歩いていった。
不意に弥勒の鼓動が跳ねた。――そっくりの女の子が二人、見つかったのだ。
珊瑚をそのまま小さくしたような愛らしさ、けれど、整った面立ちは欲目ではなく自分にも似ていると弥勒は思った。
名は確か……
「弥弥、珠珠、眼を覚ましなさい」
手の甲をつねられた双子は同時に眼を開け、父親の顔を瞳に映した。
「父上」
「父上、ここどこ?」
子供たちはまだ記憶を失っていないばかりか、自分を父上と呼んでくれた。
何とも言えない感動を覚え、弥勒は小さく息を吐いて呼吸を整えた。二人を思いきり抱きしめたかったが、気持ちを抑え、小声で命じる。
「ここは危険です。ハチと一緒に珊瑚の……母上の、ところへ行きなさい」
珊瑚が“母上”というのもいい響きだと、弥勒は感慨深い。
「解った」
弥弥と珠珠はハチのほうへ向かおうと立ち上がった。が、あっと思う間もなく片方が転んだ。
「大丈夫ですか!」
娘を助け起こした弥勒は、だが、そこで言葉につまってしまった。
「えっと、……珠珠?」
「弥弥だよ。しっかりしてよ、父上」
珊瑚にそっくりの口調で言われ、思わず苦笑いがこぼれる。
やはり珊瑚を思わせる美しい髪をさやさやと揺らせ、弥弥と珠珠はともにハチのもとへ駆けていった。
最後に残った一番小さな男の子が翡翠に違いない。
弥勒は同じように手の甲をつねって起こし、開かれた黒い瞳に、また胸が熱くなった。
この子は目許が珊瑚に似ている。
あどけないながらきりりとした眼が印象的で、二人の姉に負けず劣らず美しい子に成長するだろうと思われた。
「父上ー」
手を伸ばしてくる翡翠をぎゅっと抱きしめ、腕の中の小さな存在に感無量の弥勒だったが、幸福に浸っている暇はなかった。
「弥勒の旦那、急ぎませんと」
弥勒ははっとした。
空間の中で巨大なものが動く気配。
「ハチ、二人抱けるか」
「へ、へい。二人なら何とか」
「では小さい子を抱いて早く外へ出ろ。走れ! おまえたち、あの狸について行きなさい。我々が家に帰してあげます」
そこに錫杖を置き、弥勒は自身も翡翠ともう一人小さな子を腕に抱いて、最後尾を守って獏の巣から出ようとして、ふと、後ろを見た。
唸り声が洞穴の中に響く。
子供たちを起こしたことで「夢」が霧散し、その夢から糧を得ていた獏が目を覚ましたようだ。
躯は熊に似ている。だが、その顔は、熊に猪を混ぜたような、異形のものだった。
ハチを先頭に、子供たちは必死に逃げた。
弥勒に抱かれた翡翠が前方のハチに気づき、
「ハチー」
と無邪気に呼ぶ。なるほどな、と弥勒はくすりと笑った。
やがて洞穴の外へ出ると、飛来骨を構える珊瑚の姿を見つけ、ハチは叫んだ。
「姐さん、来ます!」
「任せて」
ハチに続いて次々と子供たちが、そして最後に弥勒が洞穴の外へ出てくると、逃げた獲物を追って一頭の獏が姿を現した。
熊のようだが、鋭い牙と長い鼻を持つ、異様な姿。眠りの邪魔をされ、獲物を奪われ、怒り狂っている様が見て取れた。
「――飛来骨!」
珊瑚が投げた飛来骨が、勢いよく獏の躯を両断する。
「やったか?」
「珊瑚、後ろ!」
獏は一頭ではなかった。
縄張りを巡回していたらしいもう一頭が、後方から珊瑚に襲いかかろうと咆哮を上げた。
弥勒は素早く抱いていた子供を下ろし、右手を構えた。
「かざあ……! って、あれ?」
五年前の習慣で風穴を開こうとするが、ない。
「下がってて、弥勒さま。これはあたしの仕事だ」
体勢を立て直した珊瑚が、再び飛来骨を投擲する。
二頭目の獏も断末魔の声を上げた。
二頭目が倒されたとき、不意に眩暈に襲われ、弥勒は額を押さえた。
「弥勒さま!」
珊瑚が彼に駆け寄る。
「大丈夫?」
「……ああ。心配かけてすまん、珊瑚。……大丈夫、思い出した」
珊瑚は飛来骨から手を離し、彼の首に両手を廻して抱きついた。
「よかった……! 喰われた記憶は数日かけて消化されるんだ。消化さえされていなければ、記憶は戻るって解ってたけど」
「五年前の私より、今の私のほうがいいですか?」
悪戯っぽく問うてみれば、薄く涙の浮かんだ瞳で彼女は屹と夫を見た。
「当たり前じゃないか。五年前も今も弥勒さまには違いないけど、同じ刻を生きているほうがいいに決まってる」
一瞬だけ、二人は抱き合う。
「ありがとう、“法師さま”」
それが五年前の自分へ向けられた言葉だということに、弥勒は気づいた。
不意に袈裟の裾が引かれた。
見下ろすと、双子の娘が父親に、身をかがめるようにと合図している。
彼がその場に膝をつくと、弥弥と珠珠が、両側から父親の頬に可愛い口づけを贈った。
「ありがと、ほーしさま」
「ほーしさま」
助けてもらったことを理解しているのか、母親の真似をしているのかは定かではない。けれど、みな無事だったことに安堵し、弥勒は娘たちを抱きしめた。
翡翠は……と見遣れば、ちゃっかり狸に抱かれていた。
村の子供たちも全員いる。にこやかなハチの表情を見るに、彼の記憶も、無事、戻ったようだった。
楓の村への帰路は、珊瑚を含めた家族全員がハチの世話になった。
変化した妖狸の背の上に弥勒と珊瑚は縦に並んで座り、珊瑚の膝で、翡翠が眠っている。
弥弥と珠珠は一番前で風を受けていた。
「なんか疲れたね」
それでも満足そうに珊瑚が振り返って弥勒に微笑みかければ、弥勒は手を伸ばして労うように彼女の頭をぽんと叩いた。
「あの獏は、おまえの腕からすれば、さほど手強い妖怪ではなかったな」
「一歩間違えば危険だよ。退治する者が記憶を喰われてしまったら打つ手はないから」
「ああ、なるほど」
獏に捕らわれていた子供たちを村に帰し、無事に妖怪を退治したことを村人たちに報告した珊瑚は、決して豊かとはいえない村の暮らし向きを見て、礼物を辞退した。
代わりに、洞穴の周囲に生えていた苣をいくつか持って帰ることにしたからと。
「この苣は、いろいろ使い道があるんだよ。量を調節して睡眠薬としても使えるし、他の薬草と調合すれば痛み止めにもなる」
すぐ後ろの両親の話を聞いていた珠珠が、母親を振り返って言った。
「やっぱり、お薬なんだね、母上」
すると、弥弥も負けずに言う。
「お野菜だよ。妖怪のお野菜だったんでしょ?」
答えを求めるようにきらきらした瞳でこちらを見つめる双子に珊瑚は微笑みかけた。
「父上が正解だよ。これはおまえたちには毒だったんだから。これからは何だか判らないものを勝手に触ったり食べたりしないこと。解った?」
「はい」
「父上にごめんなさい、した?」
「ごめんなさい」
双子がそろって頭を下げる様は、この上なく愛らしく、微笑ましかった。
この日の小さな冒険に疲れたのだろう、弥弥と珠珠もハチの上にうつ伏せになって、うとうとし始めた。
子供たちの意識が自分たちから離れたのを見て、珊瑚は背後の弥勒にささやく。
「あたし、弥勒さまに伝えたいことがあるの」
「何です? 改まって」
片手で翡翠を支え、もう片方の手を珊瑚は後ろへ泳がせた。その手を弥勒が捉える。
「四人目……身ごもってるみたいなの」
驚いた弥勒が珊瑚の横顔を見つめると、珊瑚は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「本当に?」
「うん。一番先に弥勒さまに伝えたくて、まだ楓さまにも言ってない」
「珊瑚」
身を乗り出した弥勒の口づけを受けようと珊瑚は眼を閉じたが、唇ではなく瞼に、そよ風のように彼の唇は触れた。
「駄目じゃないですか」
「……え?」
「そのような身体で妖怪退治など、もってのほかです」
冗談なのかと瞳を瞬かせれば、弥勒は真剣で、珊瑚は今回の仕事を自分一人で判断したことを少し申しわけなく思った。
「ごめんなさい。でも、これからしばらくは家にいるから」
「当たり前です。おまえが仕事を好きなのは解っているが。……私のためにも、無理せず、よい子を産んでくれ」
「はい」
弥勒は瞳を伏せる妻を抱き寄せようと手を持ち上げたが、彼女の膝で翡翠が眠っていることを思い出し、彼女の片手を握るだけにとどめた。
珊瑚は照れを誤魔化すように、明るい声で、飛行を続ける化け狸に声をかける。
「ハチ、今日はいろいろありがとう。美味しいものたくさん作るから、夕餉を食べていって」
「ああ、なんだったら泊まっていきなさい、ハチ。明日、みんなで夢心さまの寺へ行こう」
「今夜も坊ちゃんたちのおもりですか?」
泣き言を言ってみるが、人間の子供に慕われるというのも悪くはなかった。
翡翠を起こさないよう気をつけ、弥勒は珊瑚の肩を後ろからそっと抱きしめる。珊瑚は弥勒に身を委ね、愛しさを込めて彼の腕に手を重ねた。
抜けるような青い空。通り過ぎていく心地好い風。
眠る子供たちや身重の珊瑚を気遣って、妖狸はできるだけ揺れないように、上空を滑らかに移動していく。
――我が家は、もうすぐ見える。
≪ 第二話 〔了〕
2010.9.10.