花の心、我知らず −前編−

 珊瑚は怒っていた。
 田の畦道を、怒ってずんずん歩いていた。

 ことの発端は、法師の戯れである。
 いつものこと――といえば、それまでだが。
(……でも、だって、今日は)
 珊瑚は思い切り眉間にしわを寄せた。

 犬夜叉たちの一行は昨日から楓の村に戻っている。
 かごめは実家に帰り、珊瑚が家事や楓の仕事を手伝っている間、弥勒が村の娘たちと戯れていることは別段珍しくはない。
 そうした光景は、不愉快ながらも、珊瑚もいつものことかとため息をつき、法師に嫌みを言う程度で諦めていた。
 弥勒の女好きは今に始まったことではないのだからと。
 けれど、今日、目にした光景はいつものそれとは違っていた。
 弥勒の相手は複数ではなかったのだ。
 一対一で、彼は村の娘と楽しそうに語り合っていた。
 その光景を思い出し、珊瑚はきゅっと唇を噛んだ。
 大勢を相手にされているほうが、特定の相手と一緒にいるところを見るより遥かにマシだと思った。

「おう、珊瑚じゃねえか」
 楓の家に程近いところで頭上から声を掛けられ、珊瑚は立ち止まった。
「犬夜叉」
 ざざっと葉の擦れる音がして、緋色の水干姿の少年が樹上から地に降り立つ。
「ちょうどよかった。今日は昼から弥勒と市に行くんだろ? さっき七宝が、市に行くなら自分もつれてけってわめいてたぜ?」
「……」
 珊瑚は浮かない表情のままうつむく。
「で、おまえか弥勒を見つけたら引きとめろと七宝が……」
 と、そこで犬夜叉は珊瑚の表情に気づいた。
「どうかしたか?」
 訝しげに自分の顔を覗き込もうとする犬夜叉の袖を掴んで引き、珊瑚は、彼に傍らの大樹の根元に座るように合図した。
「あんたでいい。話、聞いて」
「なんだよ、何かあったのか?」
 とはいえ、話すほどの事実もなかった。
 弥勒が他の娘と一緒にいたという、ただそれだけ。
 珊瑚の話を聞き終えた犬夜叉は、はあ、とため息をついた。
「またかよ。おまえら夫婦になる約束してんだろ? 現場おさえて、その場で弥勒を怒鳴りつけりゃいいじゃねえかよ」
「それができれば苦労はないよ。なんか声かけづらい雰囲気ってあるじゃないか」
 樹の幹にもたれて胡坐をかく半妖の少年の隣に座る珊瑚は、立てた膝をぎゅっと両手で抱きしめながら、足許の地面を睨みつけて悪態をつく。
「全く、あの女好きはっ」
「まあ、あいつも懲りねーよな」
 ぼそっとつぶやく犬夜叉を、珊瑚は屹と見遣る。
「男って誰でもそうなの? あんたといい、法師さまといい、どうして一人に決めることができないのかな」
「おい、待て。おれと弥勒を一緒にするな」
「あんただって似たようなものじゃないか。かごめちゃんがやさしいのをいいことに。桔梗だって、飄々としてるけど、本当はあんたの態度に不満を持ってるんじゃないの?」
「う……」
 いきなり矛先を向けられ、いささか犬夜叉には藪蛇だった。
「おれのことはどうだっていいだろーが」
「犬夜叉もそういうところ、優柔不断だよねえ」
「だから、おれの話はいいっつってんだろ! それに珊瑚にそんなこと言われる筋合いはねえ。おまえはあくまで部外者の立場から見てるだけで、おれの立場でそういうこと考えたことねえだろ」
 珊瑚は考え込むように犬夜叉の金の瞳を見つめた。
「……そうかも」
「そんな単純なものじゃねえんだよ」
「じゃあ、法師さまはどうだろう?」
「あ?」
「法師さまの行動も単純じゃない意味があるのかな」
 犬夜叉は両腕を組んで、再びため息を洩らす。
「んなこと知るか。でも、そうだな。弥勒の立場に立ったら、また違ったふうに物事が見えてくるかもな」
 しばらく二人は無言のまま空を見つめていたが、だしぬけに珊瑚が立ち上がった。
「犬夜叉、あたし、市に行ってくるね」
「おう。じゃ、七宝も連れてってくれ。その、女がいて弥勒に声をかけづらいんだったら、おれが呼んできてやろうか?」
「いい。一人で行くから。七宝にはまた今度って、うまく謝っておいて」
「え? あ、おい」
 二、三歩進み、珊瑚は悪戯っぽく犬夜叉を振り向いた。
「犬夜叉の言うように、法師さまの立場に立って、少し考えてみる。あたしの心が狭いのか、法師さまがやっぱりただの浮気者なのか」
 よく飲み込めない様子の犬夜叉にちょっと笑いかけると、珊瑚は、そのまますたすたと村を出る道を歩いていった。

 弥勒が戻ってきたとき、楓の家に珊瑚の姿はすでになかった。
 しばらく辺りを捜してみたが、娘の姿はどこにも見あたらず、やがて法師は外に出て、一本の樹の下まで行って上へ声をかけた。
「犬夜叉、珊瑚を知りませんか?」
「珊瑚なら、市へ行ったぞ?」
 すぐに樹上から答えが返る。
「市? 一人で街道へ行ったというのですか。何故、とめてくれなかったんです」
 非難するような声音にむっとして、犬夜叉は樹から下りてきた
「おめえが浮気するから、珊瑚が怒って一人で行っちまったんだろうが。人のせいにするな」
「いつ私が浮気しました」
「さっきまでしてたんだろ。珊瑚がそう言ってた」
 弥勒は大仰にため息を吐く。
「では、珊瑚は私を捜しに来たんですね? 声をかけてくれればよいものを」
「どっちにしても、珊瑚と市に行く約束をしていながら他の女と一緒にいたわけだろ? 珊瑚が怒っても当たり前じゃねえか」
「だから浮気じゃありません。散歩してたら向こうから声をかけてきたんです。断る理由もないので珊瑚の手が空くまで話してようかなと」
 心外だと言わんばかりの法師に犬夜叉は内心やれやれと吐息を洩らす。
「とにかく、珊瑚は市に向かったんですな?」
「ああ」
「雲母は?」
「いや、一人だった」
「しょうがありませんな」
 犬夜叉の簡潔な答えに、法師は物思わしげに眉をひそめた。

 珊瑚を怒らせてしまったことが気にかかり、また、一人で市に行った彼女を放っておくこともできなかったので、弥勒は珊瑚を追って市が開かれる街道に向かった。
 行き先は判っている。
 いずれ追いつくだろう。
 村を出て間もなく、向こうから見知った少年が歩いてくるのが目に入った。
「おや」
「あ、法師さま」
 彼・蘇芳は、珊瑚に片想いしていた村の少年だったが、今では珊瑚の相手として法師を認めているらしく、何かにつけ、人懐こく声をかけてきたりする。
 法師は蘇芳にとって、よき相談相手のような存在になっていた。
 ともあれ、蘇芳の中での珊瑚は、憧れの女性として今でも特別な人だった。
 そんな蘇芳に、
「“なんぱ”って何ですか?」
 と、いきなり問われ、弥勒は一瞬、絶句する。
 かごめが使う異国の言葉を、この村の少年が知っているはずがない。
「蘇芳、その言葉をどこで聞いた。かごめさまか七宝が、私のことを話していたのか?」
「いえ、珊瑚さんが──
「珊瑚が?」
 法師の表情が変わった。
「おまえ、珊瑚と会ったのか? 珊瑚はどこに」
「この道をまっすぐ歩いていきましたよ。おれが声をかけても怖い顔をしたまんまで……何かあったんですか?」
「珊瑚は何か言っていたか?」
「ああ、はい。どこ行くのかって尋ねたら、“なんぱ”をしに行くんだから誰にも内緒だよって。特に法師さまには絶対しゃべるなと……あ!」
 口止めされていたことを思い出し、蘇芳は慌てて手で口を押さえた。
「珊瑚が……なんぱ──?」
「おれがしゃべったこと、珊瑚さんには内緒ですよ。……で、なんぱって何なんです? やっぱり、妖怪退治に関係が?」
 無邪気に問いかける蘇芳を横目でちらりと見遣り、弥勒は大きくため息をついた。
「……ある意味、妖怪退治よりもたちが悪い……」

(なんぱ……なんぱの仕方か)
 市へ向かって歩きながら、珊瑚は大真面目に考えていた。
 弥勒を理解しようと思ったら、弥勒の行動を真似るのがいい。
 そうだ、“なんぱ”をしてみようと。
(でも、どうすればいいんだろう)
 弥勒が呼吸するように当たり前にやっていることでも、いざ自分が真似しようとすると、どうすればいいのか皆目見当もつかなかった。
(とにかく、声をかけて、私の子を産んでください、みたいなことを言って――

 “あなたの子を産ませてください”?

(きゃああーっ)
 突然立ち止まった珊瑚は、熱を持った頬を両手で押さえ、その場にしゃがみこんだ。
(そんなこと言えないっ! 法師さまにも言ってないのに。でも、お手本からすると、これが正しい声のかけ方……だよね?)
 そもそもお手本としている弥勒の“なんぱ”の仕方からして正しいとは言えないだろうに、そういう方面に疎い珊瑚には他に参考とするものがなかった。
(とにかく、実行あるのみ!)
 しかも、頭に血がのぼったその勢いだけの行動であることは、当の本人は全く気づいていない。
 市の雑踏にまぎれて何人かに声をかけてみたら、少しは弥勒の浮気心も解るだろうと、そのことのみに意識が向いて、そもそも“なんぱ”がどういう行為なのか、それがどのような結果をもたらすかというようなことには思い至らない珊瑚であった。

後編 ≫ 

2009.11.15.