花の心、我知らず −後編−
定期市が立つのは、楓の村から歩いて半刻足らずの距離に位置する街道沿いであった。
いくら健脚とはいえ、女の珊瑚に弥勒が追いつくのは時間の問題といえる。
しかし、無鉄砲ともいえる彼女の行動を蘇芳から聞いた弥勒は、どうしようもない焦りに苛立って歩を進めていた。
(珊瑚がなんぱ? いったいどうやって男をひっかける気だ!)
珊瑚にそんな経験があるはずもない。
いくらか知識があるとすれば、それは他でもない彼自身の行動を見て得たもので。
(まさか、そっくりおれの真似をする気じゃねえだろうな)
いきなり男を呼びとめ、相手の手を握り、はにかみながら、あなたの子を産みたいんです、みたいなことを口走る珊瑚の姿が目に浮かぶ。
(……頭いてえ……)
眩暈を覚え、立ち止まり、片手で目許を覆う弥勒だったが、頭を振って気を取りなおしたように再び足早に歩き出した。
何としても止めねばならない。
見知らぬ女にそんなことを言われたら大抵の男は引くだろうが、なんといっても珊瑚は美しい。
彼女ほどの美女にそんなふうに言い寄られ、あとさき考えずに誘いに乗ってしまう男がいてもおかしくはないのだ。
無頼な手合いに出くわす可能性も高い。
(何を考えてるんだ、珊瑚は)
身の危険の自覚もないのかと、弥勒は苛立つ心を持て余しつつ、歩く速度をさらに速めた。
市が近づくにつれ、人通りが増えていく。
珊瑚は、きょろきょろしながら、雑踏の中を物珍しげに進んだ。
「どうせなら、法師さまや七宝と来たかったな……」
つい、本音が洩れ出てしまい、彼女は慌てて手で口を押さえた。
今日は、弥勒を理解したいという想いから、彼と同じ行動をしてみようとここまでやってきたのだ。
目的を見失ってはならない。
どうやら珊瑚は弥勒が楓の村を出るよりかなり早く村を出発していたらしく、市に着くまでに弥勒が彼女に追いつくことはなかった。
しかし、当初の目的である“なんぱ”をするために行き交う男たちを物色するも、なんと声をかけてよいやら困惑し、珊瑚は途方に暮れるばかりだった。
(あなたの子を産みたいなんて、言えるわけないじゃないか。かと言って、法師さまが他になんて言ってたかなんて、よく覚えてないし……)
法師の例の「私の子を……」のインパクトが強すぎて、珊瑚には彼の他の口説き文句が思い出せないらしい。
それでも、まあ何とかなるだろうと、彼女はしばらく市をぶらついて様子を見ることにした。
市には様々な商品が並べられていた。
野菜や魚といった食料品をはじめ、反物や、履き物、小間物などに至るまで。
手持ち無沙汰な様子で珊瑚がそれらの店を覗いていると、後ろから声がかけられた。
「あんた、一人?」
「えっ?」
振り返ると、二十歳前後かと思える男が、彼女をじろじろと眺めていた。
「あ、あの……」
「市が珍しいんだろ? 遠くから来たの? おれ、案内してやろうか」
「いっいえ、結構です!」
驚いた珊瑚は、急いで拒絶すると、素早くその場を離れた。
人込みに紛れてから振り向くと、男は追ってはこないようだ。
(ああ、びっくりした)
息をついて、それからはっと思い至る。
(え、もしかして、今の絶好の“なんぱ”の機会だったんじゃ……)
けれど、「あなたの子を……」などと言えるような雰囲気ではなかった。そんな余裕は珊瑚にはない。
珊瑚は小さくため息をついた。
(法師さまがあんなに気楽にやってることが、こんなに難しいとは思わなかった)
まさか自分のほうが“なんぱ”されたのだとは、彼女は全く気づいていない様子だった。
市に到着した弥勒は、珍しく、軽く息を弾ませていた。
無謀な珊瑚がとんでもない男につかまっていやしないかと、そればかり気になって、最後には全力で走ってここまで来たのだ。
「珊瑚……珊瑚はどこだ」
この人込みの中、飛来骨を背負っていればすぐに見つけられるのだが、如何せん、今日の彼女は普通の村娘の格好だ。
すでに男にどこかへ連れ去られたのではないかと、頭をよぎる最悪の状況を振り払うように、弥勒は無我夢中で賑わう市の中を珊瑚の姿を求めて駆け廻った。
と、目の端に見慣れた小袖の色彩を認め、はっと足をとめた。
(いた……)
彼女は反物を商う店の前で、そこにしゃがみこみ、隣にいる人物と話し込んでいる。
(って、男と一緒かよ!)
最悪の事態だけは回避できたと弥勒は胸をなでおろしたが、だからといって、見知らぬ男と一緒にいる珊瑚の行動を全て許せるほど寛容にはなれなかった。
店には大勢の人が群がっている。
気配を消せば、ある程度近づいても気取られることはないだろうと、弥勒は、錫杖を鳴らさぬように気を配り、そっと彼女に近づいていった。
珊瑚から二、三人を隔てた位置で、何気ないふうに商品を眺めながら、法師は珊瑚と、その隣にいる男との会話に耳をすませた。
「やっぱり、こっちの品のほうがいいって」
色気のかけらもない珊瑚の言葉が耳に入る。
「同じ値だけど、こっちのほうがいい品だよ。色や柄は、好みがあるから一概には言えないけどさ」
「あんただったら、どっちの反物を買う?」
「こっちかな。奥さんの好みは判らないけど」
弥勒が横目で窺うと、珊瑚の向こうにいる男は売り物の反物を前にしばらく迷っていたが、やがて、その中のひとつを手に取った。
「うん、あんたが勧めてくれたほうにするよ。おれはこういうことにはとんと疎くて。いつもは女房が選ぶんだが、今日は来られなくてね」
彼らのやり取りに、弥勒は少しほっとする。
(妻帯者か。かといって、安心できるわけじゃねえが)
「じゃあ、あたしはこれで」
「ああ。ありがとう」
思いのほかあっさり珊瑚が立ち上がったので、弥勒はいささか拍子抜けする想いだった。
その店から離れると、珊瑚はまた別の店を覗き込み、ぶらぶらと歩き出す。
声をかけるタイミングを失った法師は、そのまま彼女の姿を見守ることにした。
ただ、道行く男たちをどうやら珊瑚が意識しているらしいのが、どうにも不愉快だった。
なんぱをすると言っていたのは本当らしい。
けれど、珊瑚は控えめに視線を投げるだけで、反対に男のほうが彼女に近寄ろうとすると、たちまち人込みに隠れて姿を消してしまう。
自分から声をかけるまでには至らぬようであった。
そうして、何度か珊瑚を見失って、また見つけてということをくり返していると、少し油断したようだ。
珊瑚が、遊び人風の男二人と言葉を交わしている様が見て取れた。
珊瑚の視界に入らぬよう、そっと近づく。
「さっきから、何も買わず、うろうろしてるだろ? 人を捜してるのか?」
「連れとはぐれたの?」
二人の男にかわるがわる声をかけられ、珊瑚は少し考え込んでいたが、
「あの、あんたたち、暇?」
ようやく出た言葉に弥勒は仰天した。
「えっと、あたし、時間が余ってて。少し話とかできたら」
頬を染めておずおずと言う珊瑚の様子に、二人の男は眼と眼を見交わし、すぐに頬を緩ませた。
「おれたちも暇だよ。気が合うじゃねえか」
「いい場所知ってるよ。さ、行こうぜ」
「てっ、手相とか、見てあげられる……かも」
「ははっ、そりゃいいや」
(……)
あまりにもといえばあまりにもな珊瑚の素直さに、弥勒は脱力してその場にうずくまってしまった。
「珊瑚……おまえという奴は……」
しかし、いつまでも放心している場合ではない。
このような事態を懸念して、珊瑚を追いかけてきたのだ。
気を取り直して彼女を捜すと、人の波の向こうに、男二人に挟まれて歩く娘の姿が見えた。
片方の男の手が珊瑚の肩を抱こうとしているのが目に入り、弥勒の眼光が険しさを増す。
(こいつ……!)
人込みをかき分け、三人に近づいた法師は、ものも言わず、男の手をひねりあげた。
「う……うわ、痛てててっ」
「汚い手でこの娘に触れるな」
そのまま、片手で男を地面に叩きつけた。
「うあっ!」
「えっ、法師さま?」
「何だ、おまえは!」
「この娘の捜し人だよ」
素早く珊瑚の手を引いて、自分の背後に押しやった弥勒の瞳は、凍てついた星のように冷ややかな光を放っていた。
「人の女に手を出して、ただですむとは思ってねえだろうな」
「あの、法師さま、この人たちはさ、あたしが“なんぱ”したの。ちょっと事情があって……」
どう見ても怒っている法師に、その場をとりなそうと珊瑚が言った言葉は、さらに弥勒を怒らせるだけだった。
「いい加減にしなさい、珊瑚。ひっかけたつもりがひっかけられたんだぞ。こんなクズどもに自分を安売りするな!」
激しい彼の口調に、さすがに珊瑚もびくりとして口をつぐむ。
ざわめきとともに人がたかり始める。
こう、人目についてはこれ以上の騒ぎを起こすこともならず、狼狽した男は倒れている仲間を捨て、そそくさとその場を立ち去った。
「行きましょう」
弥勒もまた、珊瑚の腕を掴み、人だかりから離れるよう、促した。
喧騒から外れた静かな場所で、市に出ていた一服一銭の茶売りから買った茶を、弥勒は待たせていた珊瑚に手渡した。
「で? どういうことですか」
「……ごめん」
うつむいて小さくなっている珊瑚を、弥勒はため息交じりに見つめる。
経緯を話し、珊瑚は素直に謝った。
弥勒を理解したいという一心での行動で、浅慮だったと。
「もう、しないな?」
「はい」
「私を一途に想ってのことというのは嬉しいが、あのままいけば、間違いなく大変なことになってましたよ」
「あ、隠し武器つけてるから」
「そういうことを言ってるんじゃありません」
並んで腰を下ろし、弥勒は珊瑚に言い含めるように言葉をつなぐ。
「言いたいことがあれば私にじかに言えばいいでしょう。おまえがやったことには何の意味もない」
「反省してる」
「全く犬夜叉もろくな影響を珊瑚に与えませんな」
自分の責任を棚に上げ、茶を飲みながら弥勒はうそぶく。
「帰ったらきつく注意して――」
ふと視線を上げると、黒珠の瞳がじっと彼を見つめていた。
「なんです?」
「じゃあ、結局、どんな理由があったの? 法師さまの浮気には」
「浮気じゃありません。藍どのとは話をしていただけです」
しれっとした法師の態度に珊瑚はむっとなる。
「あたしとの約束も忘れて、二人きりで、あんなに楽しそうに話しこんでたくせに!」
「私はちゃんと約束を覚えていました。すっぽかしたのは珊瑚でしょう?」
法師はおもむろに珊瑚の視線を見返した。
「藍どのの恋の相談に乗っていただけです。もちろん、藍どのの想い人は私ではありません」
「どうだか!」
傍らの地面に茶碗を置いた法師の両手が、娘の白い手を取って包み込む。
「それにしても、焼きもちからの行動というのが、また珊瑚らしくて可愛いですなあ」
「……っ!」
追求するつもりが弥勒のペースに巻き込まれ、頬を赤らめる珊瑚に反撃の術はなかった。
「そういえば、おまえ、誰かに反物を見立てていたようだが、おまえの分を私が見立ててあげましょうか?」
「えっ? やだ、法師さま! いつからあたしの行動を見てたの!」
「さて、いつからだったか」
弥勒は小さく微笑み、珊瑚の手を握ったまま、立ち上がった。
「珊瑚。せっかくここまで来たんですから、少し市を見ていきましょう」
弥勒に促されて、珊瑚も立ち上がると、彼は彼女の手を握る指に力を込めた。
「手はこのままで。これ以上、心臓に悪い想いは懲り懲りです」
確認するように笑顔を向ける彼の視線を面映ゆそうに避けながら、恥ずかしげに彼女は目線を落とした。
「法師さま」
「はい」
「ありがと。あたしを追いかけてきてくれて」
くすりと頬を緩めた弥勒だったが、実のところ、その心境は複雑だった。
今日のことで、己も少しは珊瑚の立場を体験したといえる。
この日、味わった苦い想いと珊瑚の心情を考えあわせ、弥勒は独り苦笑した。
(もう少し身を慎まねば)
こんな想いはたくさんだ。
「珊瑚」
「なに?」
「どこへも行くな」
変な法師さま、とつぶやく彼女の顔を見つめる法師の目許に微笑が揺れたのを見て、珊瑚はまぶしげに瞳を伏せた。
そして、二人は賑やかな市の雑踏に紛れていった。
しっかりと手をつないだまま。
≪ 前編 〔了〕
2009.11.17.