道端の菫の花を目に留めた。
 儚い花は、儚い想いを思い起こさせる。
 一面の菫の野と、やさしく吹き抜ける風と、そして、今はもういないあのひとと──

恋風 − こひかぜ −

「菫が好きか?」
 無意識に立ち止まり、控えめに咲く小さな花を知らず見つめていたらしい。
 法師の声に我に返ると、珊瑚は小走りに、彼女を待って足を止めた弥勒のもとへと駆け寄った。犬夜叉たちは少し先を歩いている。
「ううん、何でもない」
 弥勒は何か言いたげな視線を珊瑚へ向けていたが、あえてそれ以上追求しようとはしなかった。

 かごめが足を挫いた。
 急な坂道を駆け下りる七宝を、危ないわよ、とたしなめようとしたところ、身軽な仔狐より彼を追ったかごめのほうがバランスを崩し、見事に転んでしまったのだ。
 大きなリュックが重心を傾かせたらしい。
 驚いて立ち止まる七宝。慌てて駆け寄る犬夜叉たち。
「大丈夫」
 と、かごめはにっこり微笑んで立ち上がろうとしたが、
「痛っ……!」
 すぐそばにいた犬夜叉にしがみつくように倒れ込んでしまった。
「かごめさまっ」
「かごめちゃん!」
 気遣う仲間たちにばつが悪そうにかごめは苦笑いを向ける。
「たたた……ちょっと、足、挫いちゃったみたい」
「大丈夫か、かごめ?」
「うん──けど、歩くのはちょっとつらいかな」
 申しわけなさそうなかごめの足許には、さらに申しわけなさそうにしゅんと泣きそうな顔を見せる七宝の姿。
「すまん、かごめ。おらが坂を走ったりせなんだら……」
「七宝ちゃんのせいじゃないわ。あたしが不注意だったのよ」
「足を休ませて早く冷やしたほうがよさそうですな」
「ほらよ」
 と、犬夜叉がかごめに背を向けてかがむ。
「負ぶされ。次の村まで我慢できるな?」
「うん。ありがと、犬夜叉」
 そのようなわけで、一行は前方に見えてきた村落で、今夜の宿を取ることになった。

 そこは大きな村だった。
 宿もすぐに見つかるだろう。
 往来を行き交う人々の中に、何気なく眼をやった珊瑚の足がふと止まった。
「……珊瑚?」
 宿屋を探してずんずん進む犬夜叉と七宝の後ろを歩いていた弥勒が、珊瑚がついてこないことに気づいて振り返る。
 少し離れた場所で立ち止まったままの珊瑚の眼が、ある一点を見つめていた。
 首を傾げた法師がその視線をたどると、彼女の瞳は一人の青年を追っていた。
(誰だ……?)
 知った顔なのだろうか。
 相手が若い男ということで何となく面白くない弥勒が憮然として珊瑚へ眼を戻すと、心なしか、彼女の頬が赤らんでいる。
 法師はぎょっとなった。
 改めて、珊瑚が見つめている青年へと観察の眼を向けた。
 風体はどこにでもいる村の若者だが、すらりとした長身に、若い娘たちが好みそうな涼しげな眉目が気に入らない。
 実際、珊瑚だけではなく、すれ違う娘が一人二人、ちらりとその青年へと視線を投げている。
 まさか、珊瑚は違うだろう。
 そのような意味合いでその青年を見つめているわけではあるまい。
 しかし。
(気のせい、だろう……?)
 というか、気のせいであってくれ。
 黙っていると、いつまで経ってもその青年から眼を放さない珊瑚。
 そして、そんな珊瑚の姿を見つめる、強張った表情の弥勒。
 聡いかごめがそんな二人の様子を見逃すはずもなく。
「珊瑚ちゃーん!」
 犬夜叉の背に負ぶわれたまま、声を張り上げて珊瑚を呼ぶ。
「宿、ここにしましょー?」
 その声にはっと我に返った珊瑚が、あたふたと、もうだいぶ離れた位置にいる犬夜叉たちのもとへと出し抜けに駆けた。
 彼女の様子が傍目にもおかしいのは、茫然と珊瑚を眺めている弥勒の前を素通りしてしまったことでも明らかだった。
「どうかしたの、珊瑚ちゃん?」
「な、なんでもないよ」
 動揺を隠せない珊瑚と、ふらふらとそのあとをついてきた弥勒──珊瑚以上に動揺しているらしい──とを見比べて、かごめは首を傾けた。

 宿の部屋に落ち着いた一行は、かごめを布団に寝かせ、薬師を呼んでもらうことにした。
 運悪くかごめは薬箱の湿布を切らしており、この先も徒歩の旅が続くため、専門家に診てもらおうということになったのだ。
 靴下を脱いだ足首はだいぶ腫れていた。
「痛むか、かごめ?」
「大したことないわ」
 かごめは心配げな犬夜叉や仲間たちに笑顔を向け、ふと思い出したように珊瑚を見た。
「それはそうと、珊瑚ちゃん、知ってる人でも見つけたの?」
「えっ──?」
 いきなり話の矛先を向けられて、珊瑚は上擦った声を上げた。
「人込みの中をじっと見てたでしょう? 誰だったの?」
「うっ、ううん! 人違い。よく見たら知らない人だった」
 珊瑚はそわそわと視線を泳がせつつ、ちらりと法師を盗み見る。
「珊瑚」
 すっと立ち上がった弥勒が、珊瑚に片手を差し出した。
「ここにいたところで我々は大して役には立たんでしょう。少し散歩でもしませんか?」
「え……でも」
 戸惑う珊瑚にかごめの明るい声がかぶさった。
「あたしに遠慮なんかしないで。怪我っていっても軽い捻挫だから、じっとしてれば治るわよ。まだ日も高いし、せっかくだから行ってきたら?」
「……じゃあ、悪いけど、少しだけ」
 かごめの笑顔に背中を押され、遠慮がちに立ち上がった珊瑚がそそくさと部屋を出た。そのあとに続こうとする法師に、かごめが声をかける。
「頑張ってね、弥勒さま」
 少女の含み笑いに、引きつり気味の笑顔を返す弥勒だった。

 あの男に会いたいのか……?
 先ほどの珊瑚の様子が気になって仕方がない弥勒は、村の中心部から少し外れた小川の畔まで珊瑚を連れ出した。
 並んで腰を下ろし、それとなく娘の様子を窺う。
 法師と二人きりだというのにどこか上の空な珊瑚は、寄り添う雲母を膝に乗せ、無言でそのやわらかな毛並みを撫でていた。
「珊瑚」
「えっ……なっ、なに?」
「この村は、初めてか?」
「え、うん。そうだけど」
「それでは、かごめさまが言っていたような知り合いはないのだな?」
 さりげなく問うたつもりだったが、たちまちのうちに珊瑚が顔を赤らめてうつむくので、その判りやすすぎる反応に弥勒は慌てる。
「珊瑚──
 選ぼうにも言葉が出ない。
 まさかとは思うが、一目惚れなどということは──
 そうだ。まさかだ。珊瑚に限って、そんな。
 いやしかし。それならば、何故あの男を見つめて頬を染めていた?
 不毛な思考の輪に囚われかけたとき、ぽつ、と珊瑚の声が洩れ聞こえた。
「初恋の人に……似てたんだ」
「初恋?」
 ──珊瑚の──
 弥勒は絶句する。
(嘘だろ……?)
 色恋に奥手な珊瑚の初恋は自分だと信じて疑わなかったのだ。
「先ほど見かけた男が──おまえの初恋の相手に似ていた、と……?」
「うん、ほんとはね、初恋にもいたらなかった。ただの憧れ」
「その男とは……どのような関係だったんです?」
 内心、激しい焦燥感に苛まれていた弥勒だったが、恐る恐る、できうる限り穏やかな声で尋ねた。
「関係なんてないよ。たぶん、法師さまだったら、そんなの恋のうちに入らないって言うと思う」
 それまで、じっと膝の雲母に視線を落としていた珊瑚は、そっと弥勒を見遣ると、寂しげに微笑んでみせた。

後編 ≫ 

2007.8.3.