ぽつりぽつりと珊瑚は話し出した。
 それは、彼女が十四の春のこと。
 無論、退治屋の里も見在で、珊瑚はすでに一人前の退治屋としてその腕を認められていた。
「ある村から依頼を受けて、あたしがその村へ妖怪退治に行ったんだ」
「おまえ一人で?」
「うん。雑魚妖怪相手なら、父上はあたしに仕事を任せることも多かったな」
 これも修行のうちだから、と珊瑚は小さく微笑んだ。
「物は何だったんです?」
「巨大井守。ちょっとドジっちゃったけどね、図体ばかりの妖怪だったから、結果的には飛来骨の一撃で片がついた。……そのときはね」
 翳りを帯びた語尾に法師の眉がひそめられる。
「その帰り道なんだ。その人と──扶桑ふそうと出会ったのは」

 そのとき、十四歳の珊瑚は、一人で巨大井守を片付けた際、わずかな油断が災いし、足に怪我を負っていた。
 帰り道、重い飛来骨を背負って歩くのがつらくなってきた珊瑚は、菫の咲く野に足を止め、肩から飛来骨を下ろすと、一息入れようとその場に腰を下ろした。
 しばらく休息を取るだけのつもりだったのだが、自分でも気づかぬ疲れがたまっていたのだろう。そのまま飛来骨に寄り掛かり、うつらうつらと眠りに落ちた。
 どれだけの時間が経過したのか。
 誰かに揺さぶられる感覚に、珊瑚はふっと眼を覚ました。
 肩に手を掛け、彼女を揺さぶっていたのは、年のころ十八ばかりの青年であった。
 微かな警戒の眼差しを向ける珊瑚に、その青年はにこりと白い歯を見せて笑い、怪しい者ではない、この先の村の扶桑という者だと名を名乗った。
「若い娘がこんな場所で眠り込むものではない。妖怪やならず者に襲われたりしたらどうする」
 誡めるような口調に、退治屋としての誇りを持つ珊瑚はややむっとする。
「あたし、妖怪退治屋なんだ。だから、平気」
「だが、おなごなのだから、少しは用心しないと」
「あたしはそこらの娘とは違うよ」
 気丈な美少女の言に、青年──扶桑は微かに微笑んでみせる。
 だが、勢いよく立ち上がろうとした少女がよろめき、彼女が足に怪我を負っていることに気づくと、その表情はたちまち険しくなった。
 腰に下げていた袋から数種類の薬草を取り出すと、患部を消毒し、血止めの薬草をあてがい、細く裂いたさらしを足に巻きつけて、丁寧な治療を施してくれた。
 その手際のよさに、珊瑚も驚く。
「あんた、薬師なのか?」
「ああ。通りかかったのが私でよかった。万が一、放っておいて化膿でもしたら厄介だからな」
「……あの、ありがとう」
 恥ずかしそうに礼を言う少女の可憐さを好ましげに眺めていた扶桑は、そのまま珊瑚と並んで腰を下ろし、いろいろと彼女の知らない世界の話をしてくれた。
 珊瑚は豊富な話題を持つ扶桑の話に引き込まれていく。
 彼の一言一句に胸を躍らせている自分がいる。
 初めて抱く感情は、やさしく、切なく、野苺のように甘酸っぱかった。
 このまま別れてしまうのが何となく惜しく、また会えるかな、と珊瑚は遠慮がちに問うてみる。
 青年はやさしく微笑み、では明日もまたこの菫の野に来るからここで会おうと答えた。

 翌日、早起きをした珊瑚は朝餉もそこそこに菫の野に駆けていく。
 青年はすぐに珊瑚を見つけ、嬉しげに手を振った。
「実は、あなたがまた来ると思うと立ち去るのが惜しくて、夕べはここで野宿してしまった」
 そんな青年の告白に珊瑚は胸をときめかせ、赤面する。
 胸が高鳴り、どうにも落ち着かない。
 この感覚が、里の少女たちが話している、恋というものなのだろうか。
 その日一日、珊瑚は扶桑が薬草を集めるのを手伝って過ごした。

 しかし、終わりは呆気なく訪れた。
 翌日もまた同じ野で会う約束をした二人だったが、青年がそこへ現れることはなかった。
「裏切られたのか……?」
 低い声で尋ねる法師に、うつむいた珊瑚は小さく首を横に振った。
「扶桑は、その前の日に、村へ帰る途中、妖怪に殺されたんだ」
 弥勒は息をつめて珊瑚を見つめる。
 珊瑚は昏い瞳を雲母に落とし、ただその背を撫でていた。
「村を荒らしていた妖怪は一匹じゃなかったんだ。あたしが退治した奴のほかに、もう一匹いた。扶桑はそいつに殺されたんだ」
 法師は珊瑚の手を握ろうとして、躊躇し、その手を宙に彷徨わせた。
「自分を責めたよ。妖怪が二匹いるってことに、早くに気づいていれば……それに、あたしが会いたいなんて言わなければ、扶桑は妖怪と遭遇することもなかったかもしれないし」
「珊瑚──
 でも過去のことだから、と珊瑚は無理に笑んで法師を見た。
 その笑顔が痛々しい。
「ね? あたしが一方的に憧れただけ。向こうにしたらあたしは子供に見えたろうし、いい仲の女の人がいたか、もしかしたら結婚していたかもしれない」
 珊瑚は微笑みを消して、視線を落とした。
「ただ、さ……」
 今日見かけた人が、あの人によく似てたから──
「……」
 弥勒は無言のまま、行き場を失っていた手を自分の膝に戻した。
 何と言葉を掛けたらよいのか判らない。
 それは幼くはあるが、紛れもなく恋。
 珊瑚は否定しているが、そのまま何事もなければ、彼女はその男と結ばれていたかもしれないのだ。
 もし、自分のほうが先に珊瑚と出逢っていれば。
 もし、その男が珊瑚と出会わなければ、珊瑚が初めて抱く恋心は自分のものだったはずだ。
 珊瑚に同情するも、彼女の心を最初に奪った男への嫉妬や、くすぶる醜い感情は、法師の心のうちから消えてはくれなかった。

 二人が宿へ戻ると、かごめの足の治療に薬師が訪れているところであった。
 その薬師を一目見るなり、唖然と眼を見張る弥勒と珊瑚。
 珊瑚の初恋の人にそっくりだという、あの男だったからだ。
 言葉を失っている二人に呆れたような犬夜叉の声がかけられた。
「おめえら、何ぼーっと突っ立ってんだよ」
 呆然と薬師を見つめる二人に、不思議そうな表情のかごめが大きく首を傾けたとき、
「あなたは──
 立ちつくす法師と娘に眼をやった薬師が、驚きの声を上げた。
「えっ? なに? 珊瑚ちゃんたち、知り合いなの?」
「知り合いってわけじゃ……」
 問いかけるかごめにどう答えればよいのか戸惑う珊瑚と、怖いくらい無表情な弥勒。かごめが訝しげに二人を見比べていると、
「あなたにそっくりな人を知っている」
 と、珊瑚を見つめる薬師が口を開いた。
 法師に促され、珊瑚は布団の上に身を起こすかごめを挟み、薬師と対座するように腰を下ろした。
 青年を間近にして、再び動揺を隠せない珊瑚の隣には、法師がしっかりと寄り添うように座す。
 無表情を装う弥勒を横目で見遣り、ひと波乱起こりそうな予感に顔を見合わせ、うなずきあうかごめと七宝の瞳には、心なしか、好奇心らしきものがちらついている。
「なんだ? おめえ、こいつらのこと、知ってんのか?」
「ああ、すみません。ただ、あちらの娘さんが私の初恋の相手に似ているものですから、つい」
 緊迫した場の空気をものともしない犬夜叉の問いかけに、薬師はさらりと答えを返す。
 その言葉にはさすがの一同も呆気にとられた。相変わらず無表情な弥勒だが、その眉間にはじわじわと皺が寄り始める。
 驚きのあまり、珊瑚は口を開けたまま、まばたきもせずに薬師を凝視している。
「騙されてはいけません、珊瑚」
 法師は娘の耳元に強い口調でささやく。
「男はみな、このようなことを言って、おなごの気を引くのです」
「……おめえが言うと、妙に説得力があるな」
 ぼそりとつぶやくのは半妖の少年。
 珊瑚は混乱していた。
 初恋の相手──扶桑と同じ職業で同じ容姿を持つ男。しかも、向こうも珊瑚を知っているような口振りだ。しかし、年齢があわない。
 あれから二年は経っているのに、今そこにいる青年は当時の扶桑と同じ年頃だ。
 何より、扶桑は死んだと聞いている。
 逡巡していると、静まり返った室内に薬師の声が響き、珊瑚を我に返させた。
「そうですね、その人はずっと離れた土地に住んでいる。同一人物のはずがない」
「あの、訊いてもいいですか?」
 遠慮がちな、しかし微かな好奇心が見え隠れするその声はかごめのものだ。
「珊瑚ちゃんにそっくりだっていうその人、どんな人だったんですか?」
 薬師の青年はかごめに涼しげに微笑んでみせた。
「まだ幼いのに、妖怪退治を生業にしていた少女でした」
 一同の驚きの視線が、一斉に珊瑚に向けられる。
 ──本人じゃないか──
「扶桑──なの……?」
 愕然とした珊瑚が思わず発した名に、青年のほうも驚愕の表情になる。
「兄を知っているのですか?」
「あに!?」
 犬夜叉とかごめと七宝の声が奇麗に重なった。
「それじゃあ、あなたは」
「薬師さまは扶桑の弟なの?」
「では、あなたはやはりあのときの少女──
 穴のあくほど珊瑚を見つめ、薬師は嬉しげに穏やかな微笑を浮かべた。
「私は扶揺ふようといいます。扶桑は二つ違いの私の兄です」

 彼は珊瑚の初恋の人、扶桑の実の弟だった。
 よくよく話を聞いてみると、珊瑚と扶桑がともに一日を過ごしたあの日、戻らない兄を心配した扶揺は菫の野で兄を見つけ、一緒にいた少女に一目惚れしたのだという。
 その日の彼は、そっと草叢に潜んで兄たちの様子を窺い、美しい少女に見惚れていた。
 しかし、兄もまたその少女に惹かれているらしいと悟った彼は、自らの想いを振り払い、一足先にその場を去った。そして、同日の夕刻、妖怪に襲われた兄は帰らぬ人となった。
 まさか、その相手にこんな場所で出会うとは。
 懐かしげに眼を細める扶揺だったが、切なげな表情を見せる珊瑚と、そんな彼女の肩をさりげなく支えている法師の姿に、ふと、表情を改める。
 見れば、珊瑚の華奢な指が法師の袈裟の裾をしっかりと握りしめているではないか。
 そんな様子を目の当たりにした扶揺は、二人の関係を察したようだった。

 夕餉のあと、独り、宿を抜け出した珊瑚は、薄闇の中、ぼんやりと川岸に座っていた。
 ふと、傍らに咲く一輪の菫に気づき、摘み取って、そっと口づけてみる。
「……隣に座ってもよいか?」
 風に運ばれてきた低い声。
「法師さま──
 不意に聞こえたその声にびくりと振り返り、慌てて菫を捨てようとする珊瑚の手を、法師の手がやさしく包み、制した。
「その花は扶桑か?」
──違う。これはただの想い出」
 想い出を相手に勝ち目はない。
 まして、それがすでにこの世にいない男の想い出となれば、挑むことすらできはしない。
 もどかしさが募る。焦がれる切なさに身を切られるようだ。
 掴んだその手を引き寄せ、珊瑚が口づけた花びらに、法師自身も唇を寄せた。
 珊瑚の全身が羞恥にかっと熱を持つ。──自分の所作を、彼に見られていた。
 こんな女々しい自分を弥勒は何と思うだろう?
(どんなに大切な想い出だろうと、もう過ぎたことだ。あたしには法師さま以上に大切な人間なんて、いやしないのに──
 弥勒に、嫌な思いをさせたかもしれない。
 探るように法師を見れば、どこか切なげな瞳で、珊瑚をまっすぐ見つめていた。
「過去のことだと理屈では解っているが、目の前におまえの恋をつきつけられるというのは、やはりつらいものだな」
「え……?」
「おまえの心を奪った男が過去にいて、その男によく似た弟が目の前に現れたのだから」
「あ、あのね、法師さま」
 ぎこちなく、珊瑚は言い訳じみた言葉を探す。
「血はつながっていても、扶揺さんと扶桑は別人だよ。あまりにも似てたから、驚いただけ。それに、今のあたしは……」
──私は、おまえが初めてなのだがな」
 ぽつりと洩らされた弥勒の言葉に、珊瑚はきょとんと首を傾ける。
「何が?」
「初めての恋が、ですよ」
 さら、と言い放たれたその内容に、二、三度まばたきをした珊瑚は苦笑する。
「法師さまがあたしが初めてなわけないだろう? すぐばれるような嘘つかないでよ」
「確かに、肌を合わせたおなごは数知れんが──
 むっとして途端に眉を険しくする珊瑚に構うことなく、弥勒は言葉を続けた。
「私が本気になったのは、珊瑚、おまえが初めてだ」
 咄嗟に、嘘だ、と言おうとしたが、弥勒の表情は見たことがないほど真摯で。吸い込まれそうな黒曜の瞳に囚われた珊瑚は反論する術さえ失った。
「……扶桑とは何もなかったと言ったな」
 弥勒の手が珊瑚を引き寄せ、そっと両腕の中に閉じ込める。
「おまえの初めてをひとつ、私がもらってもいいか──?」
「あ──
 ゆっくりと顔を近づけられた。
 弥勒の唇が掠めるように珊瑚の唇を奪う。
 頬をられるくらいは覚悟の上だったが、珊瑚はただただ驚いたように眼を見張り、法師の顔をひたと見つめている。
 大きな手がしなやかな髪を撫で、もう片方の手が彼女の背を支えた。そのまま彼女を逃がさぬように抱き込むと、法師はやわらかな紅唇を存分に味わうことに専念した。
 緩やかに与えられる甘美な口づけに、陶然となった珊瑚の四肢から徐々に力が奪われていく。
 力の抜けた指の間からこぼれ落ちた菫の花が、夜風に攫われ、空中を舞った。
 朧月に照らされて、一輪の菫が風に散った。

≪ 前編 〔了〕

2007.8.5.