名前考
弥珊は大前提ですが、CPについては語っていません。
あくまで個人的に感じたことなので、見当違いなことを言っていたらごめんなさい。
「外面似菩薩内心如夜叉」という言葉について、あるとき、ふと思いました。
言葉の意味は関係なく、夜叉と菩薩が並んでいることに、つい、犬夜叉と弥勒を連想してしまいまして。
夜叉と菩薩が、比較の対象としてセットになっている。
じゃあ、もしかしたら、犬夜叉と弥勒の名前も、かごめと桔梗のように、対になっているのだろうか。
そんな発想から、犬夜叉の周囲の人たちの名前を、別々にではなく、犬夜叉を中心に関連付けて考えてみました。
犬夜叉という名前は、そのまま夜叉という言葉の性格を表しているのでしょうから、慈愛と残忍さ、神と鬼の二面性をあわせ持つ存在であると考えます。
人間にも妖怪にもなりきれない不安定さ。
けれど、己のそんな二面性に苦しむ犬夜叉の周りに、仲間たちの名前を連ねていくと、彼は見えない言霊にすごく守られている感がある。
かごめ(籠目紋)は邪悪なものを払う魔除けの印。「神具女」だと、そのまま巫女の意味だそうです。
(今さら知ったんですけど、「かごめかごめ」には輪廻転生説があるんですね)
弥勒は菩薩。弥勒菩薩は特に救済の象徴。
七宝は仏教における七種の宝の総称。
珊瑚も七宝のひとつ。
ただ、珊瑚は無量寿経では七宝に数えられるけれど、法華経や阿弥陀経では外される、ということなので、無量寿経とはどんなものか、一応、調べてみました。
すると、親鸞聖人が無量寿経を特に重んじていたとあって、偶然でしょうが、妻子を持たれた聖人様と繋がっていることが、なんだか嬉しかったです。
というか、大っぴらに妻帯している弥勒さまは、もしかして、浄土真宗なのでしょうか。
浄土真宗なら、当時でも妻帯が許されているから、堂々と結婚できますね。
雲母…は何だろう?
珊瑚や琥珀に合わせてあるんだろうな。
個人的なイメージで恐縮ですが、京都に雲母坂という場所がありまして、そこは昔、山へ行く修行僧や修験者の通り道になっていた場所なんです。
雲母坂を通る修行僧たちが雲母漬を食べてほっこりする。
そんな印象があるので、雲母も仏教とかお寺とか、そういうイメージがないこともないです。(思いきりローカルで偏ったイメージですが)
雲母坂の辺りも、親鸞聖人にゆかりがあるようです。なんか嬉しい。
(親鸞聖人は叡山から雲母坂を通って六角堂へ行き、参籠して夢告を受けたとのことです)
犬夜叉は、孤独や偏見の中、人間としての心と、妖怪としての本能という、二つの相反する自分自身の均衡を独りで保つことは難しい。
でも、彼の周りに、神仏に関係のある名前を持つ仲間が増えることで、犬夜叉の心を正しいほうへと傾け、安定させる重しの役割を担っているようにも感じます。
そんなふうに、名前の響きだけを抜き出してみると、仲間が増えていくたびに、孤独で危うさを秘めていた犬夜叉の魂には、どんどん見えない救済の手が差し伸べられているような、そんな印象を受けました。
名前つながりでちょっと脱線。
以前、「硝子の迷路」というタイトルの転生パラレルを書いたとき、転生した弥勒と珊瑚の周りに、戦国時代の仲間や近しい人たちの名前のイメージを散りばめようとしました。
でも、犬夜叉の名前だけがうまくイメージ変換できなくて、番地の1−84が犬夜叉から取ってるって、気づいてもらえてるかな…主人公なのにあんなポジションでごめんなさい。
あの話にもそれなりにイメージの位置づけをしていて、
・珊瑚は仕事を雲母と一緒にしているイメージ
・楓の村の犬夜叉のいるところに、弥勒と珊瑚は住むというイメージ
(その後の弥勒さまは珊瑚ちゃんのアパルトマンに入り浸るはず)
・珊瑚の故郷は琥珀のイメージ
・街の(人々の)中心が、かごめであり、噴水は井戸の代わり
(噴水にはルルドの泉のような伝説を付け加えようかとも思いましたが、さすがに蛇足なので、これは却下)
・コンサートホールは七宝と八衛門狸のイメージで、狐と狸が珊瑚を化かす、みたいな
・プロポーズでは、神父様の代わりに指輪で夢心さまのイメージ
桔梗は飛び入りです。
桔梗の名前を冠したら、レベルの高い大学になるなって。
じゃあ、殺生丸一行からも飛び入りを、と思ったけれど、殺生丸の名前だと、
・殺生丸→殺生石→石の妖怪→ガーゴイル?
としか浮かばなくて、諦めた。
次にりんの名前で考えて、
・りん→鈴の音→クロシェット(小さな鐘)
で、チョコレート屋さんか花屋さんがいいなと思ったのですが、作品を書くのと同時進行で考えていたせいで、二人がオペラを食べるシーンはすでに終わっていた。
なら、花屋さん。と思ったけれど、店名が「鐘」じゃ、薔薇専門店ではなくてカンパニュラ専門店になってしまうと、これまた使えず…
そのときに、りんの名前から連想されるものをいろいろ考えていて、ふと思いついたのが、仏具のおりんでした。
またしても私個人のイメージになりますが、仏前にお供えをするとき、りんを鳴らすと、その音を聞いたご先祖様がすっとあの世から仏壇の中へと戻ってくるから、だから、お供えをするときにはりんを鳴らしてねと、子供の頃に言われたことが印象深く残っています。
おりんの本来の意味は知りませんが、そんなイメージが自分の中に定着しているので、亡くなった人の魂が一時的にそこに戻ってくるような、そんなイメージが、死からよみがえったりんのイメージと重なります。
そして、犬夜叉一行のように、殺生丸の名前にも、仏教的な意味を見いだせないかと、半ば強引に考えてみました。
殺生は、仏教の五戒にあるように、そのまま「殺すこと」ですよね。
彼は妖怪ですが、「殺すこと」を、人間の観点から罪とします。
りんの名前は、前述のように、死者が戻る=よみがえりのイメージとします。
・殺生丸=殺す
・りん=よみがえる
殺生丸一人だと、“殺す”で終わってしまうけれど、そこに、りんの名前(=よみがえる)が言霊として加わることで、殺生という罪を軽減させる役割を担っているように感じました。
一緒にいることで、りんの名前が、殺生丸の名前に対する返しの役割りをしているような気がしたんです。
日本ってそういう、悪いものをいいものへ、いいものを悪いものへ、まじないや言霊で“返す”思想がありますよね。
古代、占いの結果が凶と出たとき、それを吉へと返したり、返し矢とか、呪詛返しとか、忌み言葉もそんな感じかな。
ラストでりんを人里に返す可能性が示されたのも、人間のりんのためであると同時に、“りん”という言霊の助けがなくても、もう大丈夫、殺すばかりではない慈悲の心が殺生丸の中に根付いたのだと、そんなふうにも受け取れるかも。
もともと半分人間の犬夜叉と、完全な妖怪の殺生丸とでは、持っている性質が違う。
だから、殺生丸にとってのりんは、犬夜叉にとってのかごめのような恋愛対象でもなく、弥勒のような対等な友人でもなく、迫害されても殺されても、それを受け入れるしかない、無力で無邪気な子供だったのかもしれない。
“かごめ”の言霊は犬夜叉を護り、“弥勒”の言霊は犬夜叉を救う。
それに対し、りんは自分から何かを働きかけるのではなく、ただそこにいる、そういう形で、少しずつ殺生丸に影響を与え、自覚を促していく立ち位置であったのかもしれないと感じました。
最後に、楓さま。
桔梗と楓。片や花で、片や木です。
シルエットはちょっと似てるかも。
花言葉だと、桔梗の“変わらぬ愛”に対し、楓には“隠棲”や“自制”などがあって、そういった言葉は、同じ姉妹として、巫女として、桔梗と比較しての楓の性格的なものを表しているようで、面白いですね。
でも、儚い花とは違って、木はずっとそこに在る。
しかも常緑。(色が変わると紅葉になるから)
楓の名前には、犬夜叉たちが帰る場所として、常に変わらずそこにいるという、そんな意味があったら嬉しいです。
2015.12.19.