葡萄姫

第三章 王子の恋と姫君の恋

「う……」
 冥加に刺された蔭刀王子が目を覚ましました。
 ふと人の気配を感じ、傍らを見遣ると、うら若い一人の娘が眠っているではありませんか。
 ──これは誰だろう?
 身を起こし、蔭刀は眠る娘をしげしげと眺めます。
「しかし、これほど美しい女人は初めて見る」
 女はみな魔物。
 そう信じていたが、この娘の清らかさはどうだろう。
 蔭刀は月光に濡れて光沢を放つ黒髪をすくい取ってみました。
 それはさらさらと彼の手から流れ、王子の心の奥底に未だ感じたことのない不思議な感情を呼び覚まします。
 そして、仄暗い部屋に仄白く浮かび上がるその娘の面立ちの繊麗さ。
「もし、女の大多数が魔性だとしても、この娘がそうだとは到底思えぬ。これ以上、無垢な美しさがまたとあろうか」
 蔭刀の手がそっと珊瑚の頬に添えられます。
「娘よ、眼を開けてくれぬか。その唇で、そなたの名を教えてはくれぬか」
 珊瑚の白い頬を滑る蔭刀の指が、薔薇の蕾のような、彼女の唇をなぞりました。
「私がどうあっても結婚を拒むので、父上は強引に妃となる者と契りを結ばせようと、このような手段に出たのだな。しかしこのような女人が相手であれば、私とて妻を娶ることに何の異存もない」
 蔭刀はじっと珊瑚を見つめます。
 見れば見るほど美しい。
「私はすっかりそなたに心を奪われてしまったようだ。その証として、私の指輪をそなたに──
 言いながら、蔭刀は己の指輪と珊瑚がはめている指輪とを交換して、互いの指にはめ直しました。
 そして再び、珊瑚の頬に手を添えると、眠る姫の唇に、己の唇を重ね合わせようとしたのです。
 七宝を胸に抱くかごめはさりげなく幼い妖魔の視界をふさぎ、一方の犬夜叉といえば、頬を朱に染めて居心地悪げに視線を泳がせていました。
「はっ、姫君の身が危険!」
 慌てた冥加は「一人ずつ」というかごめの指示を無視して、珊瑚の白い肌を刺しました。
「……つっ……」
 目覚めた姫は、すぐ目の前に若い男の顔があるのに仰天して跳ね起きます。
「わああああっ──!」
 ついでに相手の身体を思いきり突き飛ばしました。
 寝台の上に突き飛ばされて呆然とする王子と、ずざざざっと窓際まで後退さる姫。
「あっ、あんた誰! ここどこよっ?」
「私の名は蔭刀。王子だ。……そなたは?」
 比較的冷静に受け応えする蔭刀に対して、珊瑚はきょろきょろと落ち着かなげに周りを見廻し、
「ちょっと待て。それより、なんであたしはこんなところにいるんだ」
「それはおそらく、私の花嫁候補ということだろうな」
「なっ……!」
 混乱を極める珊瑚姫。
「聞いてない!」
「私も聞いてないが……父王の謀だろう」
「冗談じゃないっ」
 珊瑚は怒り心頭に発している様子。
「いくら父上でも、やっていいことと悪いことがある! あたしの意思を無視してこんなことするなんて!」
 信じられない、と大きく頭を振り、ふと、自らの姿に気づきました。
 薄い絹の羅襦をまとっただけのしどけない格好で、見知らぬ男と二人きり──そんな状況をようやく理解します。
(父上ってば! あたしを強引にこの男と結婚させる気だ──!)
「怯えずともよい」
 蔭刀は寝台を降り、そっと珊瑚に近寄りました。
「そなたに危害など加えぬ。だから、その美しい顔をよく見せてくれ」
 そうは言われても、珊瑚はうつむいた顔を上げることができません。
 ──あたしはあんな狭い寝台の上で、こいつと一緒に寝てたのか?
 ちらりと寝台を眺めやり、考えれば考えるほど怒りと羞恥で頬が紅潮し、珊瑚はとても冷静になどなれません。
 すっと蔭刀の手が伸びます。

 どきどきどき

 いえ、珊瑚ではありません。かごめの心臓の音です。
「そなたの名が知りたい」
「別に知る必要もないだろ?」
 にべもなく、けれど、どこかおどおどと答える珊瑚。
 蔭刀の右手が珊瑚の左頬をやわらかく撫で、形よい顎を持ち上げます。
「そなたは変わっているな。そなたのような娘は初めてだ」
 その麗容だけではありません。
 自分の問いかけに対する珊瑚の受け応え、さらに可憐に恥じらう初々しい様子に、蔭刀は心底惹かれたのです。
 今まで王子の周りにいたのは、みな、王子の美しさを褒めそやし、王子の気を惹こうと、王子に気に入られようと、媚を売る女性たちばかりでした。
 女という女が、王子の美しさの前にひざまずきました。
 中には王妃という地位が目当ての者もいたでしょう。
 ところが、この見知らぬ娘は、そのような様子は微塵も見せません。おまけに王子である自分にこのような口の利き方をする者も初めてです。
 蔭刀には新鮮な衝撃でした。
「……うん、変わってるってよく言われる。姫らしくないって」
 それがコンプレックスである珊瑚は、わずかに表情を曇らせ、顔を背けました。
「そなたは純真でまっすぐなのだな」
 横を向いてしまった珊瑚の頬に、もう片方の掌を添え、顔をこちらに向かせると、蔭刀は珊瑚の瞳を正面から捉えました。
 黒真珠のようなその瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいます。
「永遠に愛すると誓おう。そなたを心から大切にする。だから、私の妃になってほしい」
 珊瑚の両頬を包んだ蔭刀の手が、彼女の輪郭をなぞるようにゆっくりと滑り落ち、首を撫で、肩に辿り着きました。
 そのまま両手を姫の背に廻し、抱きしめようとしたとき、珊瑚がはっと我に返りました。
 この蔭刀と名乗る若者、悪い人間ではなさそうです。
 しかし、それとこれとは話が別。
「ええいっ、よるなさわるな」
 抱き寄せられた、と感じた刹那、珊瑚は反射的に荒々しく相手の腕を振りほどき、身をよじって男の腕の中から逃れました。
 そのまま、じりじりと王子との距離を取り、外へ出るには窓か扉か、と思案をめぐらせています。
「そなたは私が嫌いか?」
「あんたおかしいんじゃないの? 会ったばかりでどんな人間かも判らないのに、好きも嫌いもないだろう」
 だけど──と珊瑚は視線をやや斜めに落とし、考えます。
 結婚ってそんなものなのかな……
「あたしの父上もあたしに結婚しろってうるさいんだ。でも、あたしそんな気ないから」
「では、これから私のことを知り、そなたの夫に相応しいかどうか見極めてはくれぬか」
「いや、だからそんな気ないんだって!」
 かごめと犬夜叉と七宝は、固唾を呑んで二人のやりとりを見守っています。
 この勝負、蔭刀王子の完敗なのでしょうか。
 というより、珊瑚姫は単に人間の容姿に惑わされるタイプではないようです。
「姫には王子の美貌など眼中にないらしいな」
「けっ、くだらねえ」
「そっか。あのお姫様には別に好きな人がいるのね」
 かごめだけはあっさりと納得しました。

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2007.4.25.