葡萄姫

第四章 賢者・弥勒

 翌朝、眼を覚ました珊瑚は、狐につままれたような表情で辺りを見廻しました。
 そこは、夕べ自分がいた、あの殺風景な部屋ではなく、見慣れた自室の光景だったからです。
 珊瑚姫は、当たり前のように、いつもと何ら変わることなく、自分の寝台の上に眠っていました。
「何だったんだ? あの、夕べの出来事は……」
 夢だったんだろうか。
 夢だったらしい。──だけど、知らない男に迫られる夢なんて……
 上体を起こした珊瑚は、両腕で自身の身体を抱きしめ、ぶるっと身震いしました。
 あのような夢を見ること自体が、珊瑚にとっては自分の想い人への裏切りのように感じられ、己が赦せないような気にさせられるのでした。
 と、右手の中指に光る指輪に気づきました。
「……あれ?」
 それはいつも珊瑚がはめている指輪ではありません。
 サイズも珊瑚の指には少々大きめなそれは、見覚えのない印章指輪です。
(どういうことだ?)
 それより、いつもはめている指輪をどうしたのでしょう?
 確かに、夕べ月を見上げていたときにはその指にありました。月と、指輪と、交互に見つめていたのですから。
(うそ……失くしてしまったの?)
 今ここにある指輪の存在も気になるけれど、夜具の中を捜しても、枕をどけても、床や寝台の下を隈なく捜しても、大切なあの指輪が見当たらないことが、珊瑚にはショックでした。
(どこへやったんだろう……?)
 途方に暮れて、ぼんやりと冷たい床に座り込んでいると、勢いよく叩扉の音が響きました。
「姉上、起きてる? 弥勒さまが帰ってきたって。今、宮殿に来てるそうだよ」
 扉の向こうから聞こえる声は、弟・琥珀のものでした。
方士ほうしさまが?」
 珊瑚の顔が、ぱっと華やぎます。
「すぐ行くって伝えて」
 慌てて珊瑚は立ち上がり、あたふたと身支度を始めました。

「方士さま!」
 宮殿の一室の扉を開け、窓辺に立つ黒衣をまとった長身を確認すると、珊瑚は恥じらいつつも嬉しさを隠し切れない声で呼びかけました。
 黒衣の青年がゆっくりと振り向きます。
 秀麗な顔に穏やかな笑みを乗せた方士・弥勒は、右手を額に当て、少し身をかがめて額手礼サラームをしました。
 慌てて、珊瑚も額手礼を返します。
「三ヶ月ぶり、ですな。お元気でしたか、姫」
「やだ、やめてよ。そんな改まった言い方。いつもみたいに珊瑚でいいよ。乳兄妹なんだから」
 弥勒はやわらかく眼を細めて珊瑚を見つめます。
 自分が妙齢の娘であり、一国の姫君だということにも無頓着。
 王宮の中とはいえ、男の前へ面紗ベールもつけずに平気で出てくるのも珊瑚らしい、と口許が自然にほころびます。
「おまえは変わらないな。それが嬉しくもあり、切なくもある」
「何それ」
 弥勒の母は、珊瑚・琥珀姉弟の乳母でした。
 珊瑚の母は琥珀を産んだあと、まもなく亡くなり、弥勒の母も今はもうこの世の人ではありませんでしたが、一緒に育った弥勒を、珊瑚も琥珀も本当の身内のように心から慕っているのでした。
 幼い頃より神童と呼ばれ、よわい十歳にして方術を修めた弥勒は、三年ほど前から、遊学と称して時折ふらりと旅に出てしまうことが多くなりました。
 そのたびに、自分でもよく解らない胸の痛みを抱えるようになった珊瑚が、寂しさにも似たそれが恋だと気づいたのは、いつのことだったでしょうか。
 弥勒の帰国はいつも突然で、思い出したように王宮に顔を出します。
 けれど、彼に対して素直になれない珊瑚は、己の想いを伝える術を知らず、再び彼が旅立ってから、何故この気持ちを口にすることができなかったのか、後悔の念に囚われるのでした。
「旅先でおまえの噂を耳にしました。支那のとある国の姫君は、この世の者とも思えぬ美女だが、男嫌いで求婚した周辺諸国の王侯たちがみな、振られていると」
 珊瑚は苦笑しました。
「噂ってのは尾ひれがつくものだからね」
 そして、拗ねたような上目遣いで、弥勒を軽く睨みます。
「それより、方士さまこそなんで結婚しないのさ。方士さまの噂だって、ここまで届いてるよ」
 琥珀は弥勒を名で呼びますが、尊敬の念をこめ、珊瑚は彼のことを“方士さま”と呼んでいます。
 彼に知らないことはない、と称されるほど賢者として名高い弥勒でしたが、絶え間なく浮き名を流すことでもまた、有名なのでした。
「この世に数多いる女人の中から、たった四人を選べというのですか? 選ばれなかった娘たちが可哀想でしょう」
「あのね……」
 大真面目な表情で本気なのか冗談なのか判断しかねる言葉をつらつら並べたてる乳母兄を、珊瑚は呆れたように眺めました。かといって、もし本当に彼が結婚してしまったら、苦しむのは他でもない自分自身だと知りながら。
「そんなことよりお土産がありますよ」
 そう言って、弥勒は卓子テーブルの上に置いてあった匣の中から、見事な真珠の、意匠を凝らした首飾りと耳飾りを取り出しました。
「あたしに?」
「もちろん。もっとも、この海の宝玉の美しさも、同じく海の宝玉の名を持つおまえには敵いませんが」
「うまいこと言っても何も出ないよ」
 憎まれ口をたたく珊瑚ですが、それが彼女の照れ隠しだと知っている弥勒は、にっこりと微笑むだけでした。
 首飾りを彼女の手に持たせようとして、ふと、気づきます。
「……珊瑚、いつもしているあの指輪はどうした?」
 内心の動揺をおくびにも出さず、何気なく弥勒は尋ねます。
 そう、珊瑚が失くしたあの指輪は、弥勒からもらったものでした。
 三年前、彼が初めてこの国を離れる際、彼女に贈られたものだったのです。以来、彼女はその指輪を外したことがありませんでした。
 それは弥勒にとって、たったひとつの心の拠り所でした。
 乳兄妹として育った姫君を、いつしか妹としてではなく、一人の女性として愛し始めていた彼は、その身分違いの恋に苦しみました。
 彼女は王女であり、自分はその乳母の息子に過ぎません。
 幾度もその想いを断ち切ろうとして、そのたびに想いの深さを思い知らされ、彼女から逃げるように旅を続けるようになったのです。
 彼女の顔を見たくなって王宮を訪れると、旅立ちのとき、自分が贈った指輪を必ず彼女がはめていることに、どこか安心している己がいました。その指輪が、唯一、自分と彼女とをつないでいるように感じていたのです。
 そして、心に決めていました。珊瑚がその指輪を身につけなくなったとき──そのときが来たら、この恋を終わらせようと。
「ち、違うんだ、方士さま。昨日の夜までは、確かにこの指にはめていたのに──
 失くしてしまったとは到底言えず、珊瑚は必死に言い訳の言葉を探しましたが、そのような誤魔化しが弥勒に通じるはずもなく。
「それは印章指輪ですね。……とうとう結婚をする気になりましたか」
「だから違うんだって!」
 いつも弥勒からもらった指輪をはめている指に、男の物らしい印章指輪がはめられている。
 その事実が誤解を招くものであることに、ようやく珊瑚は気づきました。
「……あ、あのさ、信じてもらえないかもしれないけど──
 嫌われてしまうかもしれない。
 その恐怖に怯えながら、恐る恐る、珊瑚は夕べ見た夢のことを話しました。
 夜中、気がついたら見知らぬ部屋に、見知らぬ青年とともにいたこと。
 どこかの王子だというその青年から求愛されたこと。
 そして再び気づいたときには、この宮殿の自分の部屋で目覚めたこと。
 もし指輪を失くしたのであれば、そのとき、あの見知らぬ部屋で落としたに違いない。
「……それで? おまえはその王子の妻になったのか?」
 弥勒の質問の意味を悟り、珊瑚は真っ赤になって激しく首を横に振りました。
「そんなわけないだろ! 第一、夢か現実かも判らないっていうのに!」
 弥勒は大きくため息をつきます。
「おおかた、悪戯な魔神の仕業というところだろう。その印章指輪が、夢ではない証拠だ」
 弥勒の推測は、当たらずといえども遠からず。さすがは賢者です。
「どうしよう。じゃあ、やっぱり、あそこで指輪、落としてきたんだ」
「もう忘れなさい。この先、その王子と会うこともないでしょう」
 おろおろとうつむく珊瑚の頭に手を乗せ、なだめるようにぽんぽんと軽く叩く弥勒に、彼女は決然と顔を上げました。
「取り戻しに行く」
「……はい?」
「方士さまからもらった指輪、失くしたままにはしておけない」
「珊瑚……」
 弥勒は呆れ果て、彼女を説得するための言葉を選びます。
「あのですね、珊瑚。その王子はおまえに惚れているのでしょう? このままにしておけば、向こうも夢だったと諦めるかもしれない。それなのに、わざわざおまえのほうから出向いて、この出会いが現実のものであると知らせる必要はあるまいに……」
「だけど、あの指輪──
「指輪のことは諦めなさい。また異国へ旅をしたら、新しい指輪を買ってきてあげます」
「あれは、あたしにとって特別なものだから……」
 もどかしげに眉をひそめ、低い声でほとんど聞こえないくらい小さなつぶやきを洩らした珊瑚は、弥勒を屹と睨み付けました。
「方士さまには解んない! あたしの気持ちなんか! あの指輪がどれほど大切なものなのか──! 方士さまが旅に出ている間、あの指輪だけがあたしの心の支えだったのに……」
 思わず無意識に口をついて出たのであろう珊瑚の本音に、弥勒は驚き、言葉を失いました。
 珊瑚がそこまであの指輪を大切にしてくれていたとは。
 それは、つまり──
「……私にも……希望はあるということか?」

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2007.4.28.