葡萄姫
第五章 珊瑚の想い
──まさか、珊瑚が数多ある結婚話を片端から蹴っているのは……
その真の理由を、弥勒はようやく理解できたような気がしました。
しかしそれは、単なる自惚れに過ぎないのではないか──そうであってほしいと願う、己に都合のいい解釈ではないのか。
ほんの一刹那、弥勒が自己の内面に想いを馳せたとき、困ったような珊瑚の声が聞こえてきました。
「でも、取り戻しに行くって言ったってさ、どこの国のどんな場所にいたのか見当もつかないよ」
「手掛かりなしですか」
珊瑚は拳を口許にあて、美しい眉をひそめました。
「どこかの王子……だって言ってたな。名前は、えっと──確か、蔭刀、とか」
「蔭刀?」
ふと弥勒の表情が動いたことに、珊瑚は大きく眼を見張って顔を上げました。
「知ってるの? 方士さま」
「いえ、直接は知りませんが。西方の土地を廻っていたとき、踊り子たちがさらに西にある国の王子の噂を教えてくれました。その王子の名が、確か蔭刀。しかし珊瑚が会った王子と同一人物かどうかは……」
そこで弥勒、珊瑚の表情に気づいて言葉をとめます。
「……どうした?」
「遊学って、いつもそんなところに出入りしてるんだ?」
踊り子がいるような場所に。
「いえ、あの、珊瑚?」
「いいんだよ、別に。方士さまが街へ出ると、女たちが放っておかないからね」
眼に見えて急降下していく珊瑚の機嫌の悪さに、一瞬、眉を上げた弥勒でしたが、思わず頬が緩んでいくのが自分でも判りました。
「なに笑ってんのさ!」
「いえ、珊瑚。情報収集するには、そのような場がうってつけなのですよ」
ついさっき、自惚れかもしれないと打ち消そうとした考えは、ほぼ確信に変わりました。──珊瑚が頑なに結婚を拒絶し続ける理由。それは──
弥勒は、何年も秘めていた胸の痛みが薄れ、胸中の霧が晴れていくような想いで、やさしく乳母妹を見つめます。
「とにかく、全て私に任せなさい」
けれど、何かが引っ掛かります。
酒場の踊り子たちがしていた蔭刀という名の王子の噂、それは確か……
──とにかく美しい王子様なんですって──
──一度お顔を見てみたいものだわ。けれど、ひどく女を嫌っているとか──
──あんたとどっちがいい男かしらね──
うっとりとそう語っていた彼女らの言葉を思い出し、弥勒はやや硬い表情になって珊瑚に歩み寄ると、その顔をまじまじと凝視しました。
「……な、何?」
「珊瑚。その蔭刀という王子に会って、おまえ、どう思った?」
「どうって?」
きょとんと首を傾ける珊瑚。
「いや、つまり──心惹かれるものはなかったのかと訊いているんです」
「へ?」
思いもかけないことを言われ、まばたきを繰り返していた珊瑚は、次いで、柳眉を逆立てて弥勒に食ってかかりました。
「なんであたしがその王子に惹かれなきゃなんないのさ! 方士さまは、あたしが本当にその王子と結婚してしまえばよかったとか思ってるわけ?」
言いながら、珊瑚は弥勒の襟元を両手でぐっと掴みます。
「いえ、そういう意味では……珊瑚、落ち着きなさい」
「方士さまの馬鹿! 女と見れば口説きにかかるあんたと一緒にするな!」
怒りを露に弥勒の襟元をぐいぐいと締め付ける今の珊瑚を見る限り、蔭刀が噂通りの美青年であったとしても、彼女の心がそちらへ傾くかもしれないという心配は杞憂のようです。
苦笑しつつ、弥勒は己の衣を掴む珊瑚の両手首をそっと握りました。
「はいはい、解りましたよ。疑ってすみません。指輪の件は、私が必ず──」
「あたしも行くよ」
あっさりと自分の言葉をさえぎる目の前の娘の大胆さに、さすがの弥勒も、一瞬、唖然と口をつぐみました。女性が──それも一国の姫君がそう軽々しく出歩くものではありません。第一、これから会いに行く人物は彼女を妻にと望んでいるのです。
「待ちなさい、珊瑚。おまえが自ら出向くのは危険だ」
「平気だよ。変装すれば問題ないよ。男装すればいい」
再びいともあっさりと言い放つ珊瑚の言葉に、弥勒は頭を抱えて脱力する思いでした。
「ちょっと待て。おまえ、忍びで街へ出るときも、男装して顔をさらしているのではあるまいな」
「街へ行くときはいつも大面紗を被っているから顔をさらすことはないよ」
「では今回もそうしてくれ。男装だと、顔を隠せないではないですか」
「あ、そうか」
この娘は、自分が女であることを、王女であることを、そして、誰もが息を呑む美しさを持っていることをいつになったら自覚してくれるのか。
珊瑚の手首を握ったまま、はああ、と若い方士は盛大にため息をつくのでした。
国王の信頼厚い弥勒は、国を行き来したり、王宮に出入りする自由を許されていましたが、これが王女である珊瑚となると、話は違ってきます。
まともに出国を願い出たとして、まず許しがもらえるはずがありません。
「では、こうしましょう」
琥珀も交えて三人で食事を楽しんだあと、二人は人払いをし、ひそひそと密談を交わします。
珊瑚の弟の琥珀は、毎回、弥勒が帰国するたびに、珍しい異国の話を聞いたり、武術や馬術を教わったり、博識の方士と過ごす時間を楽しみにしていました。
ですから、席を離れる際、たいそう名残惜しげでしたが、姉・珊瑚の方士に対する想いを知っている琥珀は、そっと二人の様子を見遣り、心の中で姉姫の恋の成就を願います。
「まず、私と野遊びに行きたいと国王に頼んでください」
「野遊び? 方士さまが一緒なら……父上も許してくれると思うけど」
薔薇水入りのシャーベットを飲みながら、珊瑚が考え考えうなずきます。
「いつも琥珀と忍びで出歩くときは、父君の許可なしだったんですか?」
「ううん。一応、見て見ぬ振りをしてくれてるよ。でも、内緒のときもあるかな」
弥勒は軽い眩暈を覚え、小さく吐息を洩らしました。──珊瑚姫は武術の達人ではありますが、よくぞ今まで何事もなかったものだと。
「それで? どうするの?」
方士の複雑な心情には露ほども気づくことなく、姫は無邪気な瞳で尋ねます。
「ああ、はい。おまえにはつらいことでしょうが……その場に血塗れた衣を残し、我々は野獣に襲われたふうを装って、そのままこっそりと国を出ましょう」
「血のついた衣だけ残してって……父上や琥珀や、それを見た人たちに、方士さまとあたしは死んだと思わせるってこと?」
「その通り。そうすれば、追っ手がかかる心配もありません」
にっこりと笑みを浮かべる弥勒に、珊瑚は明らかに戸惑っている様子です。
「そんなこと……できないよ。父上や琥珀を悲しませる」
「では、私が独りで行ってきます。珊瑚はこの宮殿で留守番ですね」
優雅な微笑みを絶やさず、シャーベットを口に運びながらしれっとした口調で結論を述べた弥勒に、珊瑚は慌てて身を乗り出しました。
「それは駄目だ。あたしも行くって決めたんだから!」
珊瑚は、もう二度と、いつ戻るかも知れない旅に黙って弥勒を送り出したくはありませんでした。
彼が旅立つ後ろ姿を、ただ見送ることしかできない己の無力感をこれ以上味わうのは嫌でした。
それに、大切なあの指輪は、自分の手で取り戻したいのです。
それが今の珊瑚の、恋しい人に対する精一杯の真情であり、せっかく彼が贈ってくれた指輪を失くしてしまったことに対する、せめてもの償いだったのです。
「珊瑚……」
言い出したら聞かないこの姫の性格を知りつくしている弥勒はやや困惑顔でしたが、やがて、短く瞑目すると、凛然とした光を湛えている珊瑚の瞳に視線を合わせました。
──ああ、そうだ。おれはこの眼が好きなんだ……
ほうっと息を吐いた弥勒は、肩の力を抜き、やさしい眼で小さく姫に微笑みかけます。
「仕方ありませんな。けれど、私の指示には従ってもらいますよ」
「はい、方士さま」
嬉しそうに顔を輝かせる珊瑚でしたが、ふと、目線を落としました。
「あの……だけどさ、琥珀にだけは、本当のことを打ち明けてもいいかな」
「琥珀、ですか?」
ほんのわずかでしたが、方士は首を傾けました。
「父上に嘘をつかなければ国を出られないのは解るけど……琥珀だけは徒に悲しませたくないんだ」
「琥珀は心根がやさしいですからな。国王に嘘をつき通せますかねぇ……まあ、珊瑚がそうしたいのなら止めません。ただし、我々が国を出るまでは秘密裏に運ばねばなりませんから、置き手紙でもしたためてください」
「そうする。ありがとう、方士さま」
翌日、国王の許可をもらった弥勒と珊瑚は、従者も伴わず、国境の森の近くまでやってきました。
そこで、あらかじめ用意していた別の衣裳に着替え、脱いだばかりの衣をずたずたに引き裂くと、これも用意していた血糊を衣の上や辺りの地面に撒き、あたかも獣に襲われ、喰われて死んだような演出を行います。
「よし、こんなところか」
準備を終えて立ち上がった弥勒は、小さな猫を抱き、少し離れた場所に立つ珊瑚を顧みて、呆れた表情を作りました。
「おまえ……面紗も大面紗もなしですか」
「飛ぶんだよ? 風の抵抗もあるし、邪魔じゃないか。地上に降りたら、ちゃんと被る」
「でも、それはつけてくれるんですね」
普段、礼装以外ではあまり身を飾ることをしない珊瑚が、しっかりと昨日の真珠の首飾りと耳飾りをつけているのを見て、弥勒は満足げに微笑みました。
「こっ、これはだって! せっかく方士さまがお土産に持ってきてくれたものだし、そのっ、あの指輪の代わり……」
くすくすと笑う弥勒とは対照的に、むくれる珊瑚は朱を刷いた頬を隠すようにそっぽを向きます。けれど──
弥勒と二人で旅ができる。
珊瑚の心は大きく弾むのでした。
2007.5.7.