葡萄姫

第六章 雲母に乗って

「じゃあ、雲母。お願い」
 珊瑚が抱いていた小猫に声をかけると、愛らしいその猫は、とん、と珊瑚の腕から地面に飛び降り、次の瞬間、炎をまとった巨大な妖猫に変化しました。
 妖猫の雲母は、古くからこの辺りに棲む魔物です。
 野や森から離れ、わざわざ人間の住む町へ近づくことはない雲母でしたが、珊瑚のほうがこの辺りまで足を延ばすことが多く、最初、雲母は遠くから少女の様子を窺っているだけだったのが、いつの間にか珊瑚に懐いてしまったのです。
 幼い頃から、度々、珊瑚は乳母にこの辺りへ野遊びに連れてきてもらっていました。
 もちろん、乳母の実子である弥勒も一緒です。
 弟の琥珀が五、六歳になる頃には彼も伴い、弥勒と珊瑚と琥珀、よく三人でこの辺りの野や森を訪れたものでした。
 そして、三人に二股の尾を持つ赤い瞳の小さな猫が加わり、驚くほど自然に、雲母は三人の少年少女と親しくなっていったのでした。
 雲母は魔族に属する妖猫でしたが、非常に賢く、珊瑚は父王に懇願し、王宮内への雲母の出入りを許可してもらったほど、この小猫を可愛がっているのです。

 そんな珊瑚に突然呼び出され、さあ、異国まで乗せてくれと無理に頼み込まれたわけですが、雲母は別段、嫌な顔ひとつ見せることなく、変化した背に、珊瑚と弥勒を乗せました。
「えっと……どっちへ行けばいいの?」
 雲母に跨り、珊瑚は首をひねって、背後の弥勒に尋ねます。
「とにかく西ですよ。私が王子の噂を耳にした地域からもう少し西へ飛び、さらに王子の噂を拾い集めましょう」
「解った。──雲母、西へ」
 方士と姫を乗せた妖猫は、ふわりと空高く舞い上がると、西へ、西へと、風のような速さで大空を翔け始めました。

「……海が見える」
 雲母の上から下界を見下ろす珊瑚へ、方士の心配げな声が背後からかかりました。
「あまり身を乗り出すな。落ちたら死にますよ」
「だって、こんな上空から海を見ることなんてなかったからさ。それに、あたしが雲母から落ちるなんてまずないよ」
「万が一ということもあるでしょう。落ちないように、おまえの腰を支えてもいいですか?」
 彼と雲母の二人乗りをするのは随分と久しぶりであったため、珊瑚は自分でも赫くなったと解る顔を前へ向けると、思いきり首を横に振りました。
「駄目っ! そのままでいい」
「はいはい」
 相変わらずの珊瑚の初心さに弥勒は微笑ましさを覚えます。
 じかに触れることを極端に恥ずかしがる珊瑚を思いやり、賢者の持つ杖を彼女の胴に廻して、彼はそれで己のバランスを取っているのでした。

「ねえ、そのずぅっと西にある国って、到着するまで何日くらいかかるんだろうね」
 しばらくの間、沈黙が続いていましたが、ふと、思い出したように珊瑚が口を開きます。
「さて。何事もなく旅が平穏なら、ふた月……といったところでしょうか」
「そんなにかかるんだ」
「陸路を行けばな」
 と、考え深げな弥勒の声。
「まず、海を越えねばなりません。海ではいつ何が起こるか予測不可能です。今回は雲母がいてくれて助かった。海路を使うのであれば、どうあってもおまえは置いてきたでしょう」
「……そんな危険な旅だったんだ」
 珊瑚の国は島国です。
 諸国を巡り歩いていた弥勒が出国するには、必ず海を渡らねばなりません。半ば命がけの航海を、彼は幾度体験しているのでしょう。
 もし、万が一のことが起こっていたら、彼は今ここにいなかったかもしれない……
 珊瑚は、自分を宮殿に残したまま、気ままにあちこちを旅して廻っていた弥勒が、急に憎らしくなりました。
 そんなとき、背後から忍び笑いが聞こえてきました。
「……何さ?」
「いえ、珊瑚がまだ幼かった頃のことを思い出したんです」
 不機嫌そうな珊瑚の声にもお構いなく、方士はくすくすと思い出し笑いを続けます。
「あれは──そう、おまえがまだ九つのときだった。こっそりと宴会の席にもぐりこみ、葡萄酒をしこたま呑んで、翌日二日酔い。宮殿中が大騒ぎになったことがあったな」
「あっあのときは! 確か方士さまも共犯だったじゃないか!」
「私は一応とめましたよ? なのに、おまえときたら、私の言うことなど聞きもせず、ぐびぐびやってたじゃないですか」
「ほ、方士さまだって、一緒になって、あたしより呑んでたくせに……!」
「そうでしたっけ? でも、私は叱られずにすみましたが」
 拗ねたような視線をちらりと背後の方士に向けた珊瑚の声は、ますます剣呑に響きます。
「あたしだって覚えてるんだから! 方士さま、気がついたらそばにいないんだもの。酔ったあたしを見捨ててさ、自分だけちゃっかり宴席から逃げたんだろう」
 ふと、弥勒は軽く眼を見開きました。
 ──珊瑚もあのときのことを覚えている。
 ──そして、酔いから醒めたとき、真っ先に自分の姿を探したと言った。
 珊瑚は、おそらく自分がしゃべっている内容に気づいていないのでしょう。
 それでも、弥勒には充分すぎるほど手答えのある収穫でした。
 彼女が前を向いているため、誰に気兼ねすることもなく頬を緩ませ、風になびく彼女の美しい黒髪を見つめます。
「その出来事のおかげで、その後しばらくおまえには“葡萄姫”という渾名が付けられてしまいましたっけねえ」
「だっ、だから! そんな昔のこと、今さら蒸し返さなくても」
 珊瑚にとって、想い人である弥勒の前で酔い潰れてしまったなどということは、思い出したくもない失態です。
 たとえそれが、十歳に満たない子供時代の話であっても。
 ──方士さまも、早く忘れてくれればいいのにさ……
 ますます熱を持つ頬を、空を翔ける雲母によって起こされる冷たい風で冷まそうと努力しつつ、珊瑚は恥ずかしさにいたたまれない様子。
 けれど、一方、弥勒のほうは。
 ──私は、あの頃からおまえが好きだったんですよ──
 方士は、珊瑚に気づかれぬよう、風になびくその美しい黒髪にそっと口づけました。

 弥勒と珊瑚は、幾度か地上へ降り、例の王子の噂を少しずつ集めながら、西へ、西へと空路を進み続けました。
 徐々に目的地へ近づくごとに、王子の所在もはっきりしてきます。
 蔭刀という名の王子は、波斯ペルシャの、ある王国の王子ということでした。
 また、蔭刀王子は類稀なる美しさとともに女嫌いでも有名でしたが、現在、病に臥せっているというのです。
「病ねえ……」
 ある町で仕入れてきた噂を珊瑚に伝え、弥勒は思わせぶりにちらりと彼女を見遣ります。珊瑚はそんな方士の視線を不思議そうに見返しました。
「方士さま、医学の知識もあるんだろう? ちょうどいいって言ったら向こうに悪いけど、これでその王子を訪ねる口実ができたんじゃない?」
「……そうですかぁ?」
 方士はあまり気乗りしない様子です。
「そうだよ。いきなり押しかけていったって、向こうは何のことだか解りゃしないじゃないか。病を診てあげますって王子に目通りしてさ、あたしが落とした指輪を持ってるかどうか、それとなく探りを入れてみようよ」
「はあ」
「ちょっと、方士さま。やる気あんの?」
「医学で治せる病でしょうかねぇ……」
 もはや指輪のことしか頭にない珊瑚は無邪気なものです。
 よいしょ、と妖猫に跨り、弥勒は珊瑚にも早く雲母に乗るよう、目で促しました。
「とにかく、国の所在は判りました。とりあえず行ってみましょう」

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2007.6.18.