深見の里 −其ノ参−
「ちょっと待て、珊瑚」
そろそろと怖じるような眼差しで法師を見つめる珊瑚は、強張った表情をしていた。
「おまえはまた、何を早とちりしているんですか」
「早とちりじゃないだろ」
ややむっとしたような声には力がない。珊瑚は法師から眼を逸らし、再び花を見た。
「法師さま、はっきりと言ったじゃないか。あれを、大切なひとに捧げたいって」
これで確信が持てた。
大きく安堵の息を洩らした法師は、泣きたいような気持ちで、破顔する。
「聞いていたのだな。だから、私の前に姿を見せなかったのか?」
「だって……邪魔だろ? 法師さまがそのひとに花を渡すとき、あたしなんかがそばにいたらさ」
口許に笑みを刷いたまま、弥勒は磨り膝で珊瑚のほうへと寄った。もとより狭い庵だ。少し動けば、すぐに珊瑚を捉えることができる。
あっという間に珊瑚を抱きすくめた弥勒は、その頬に軽く唇を押し当てた。
「……っ! なにす……!」
反射的に身を引き、弥勒の唇が触れた頬を押さえる珊瑚の顔がさっと朱を帯びる。
「人の話は最後まで聞きなさい。おまえは、私があの花を誰に贈ろうとしているのか、知っているのですか」
「……知りたくない」
「珊瑚」
顔を背ける娘の頬を両手で挟み、弥勒は強引に、惑うように揺れる黒い瞳と己の視線とを正面から絡み合わせた。
「私が何故、おまえを捜し廻っていたのか、解らんか?」
「……」
次の言葉を耳にするのが怖い、といった風情で、弥勒に頬を固定されたまま、珊瑚はぎゅっと眼を瞑った。そんな彼女の耳元に、弥勒はそっと唇を寄せる。
「あの花を受け取ってほしい相手は、おまえだ、珊瑚」
耳元でささやかれた甘い声に思わず眼を見開き、顔を上げた珊瑚は、吸い込まれそうに深い色を湛えた漆黒の瞳を、呆気にとられたように見つめている。
「……あ、あた……し?」
「そうですよ。なのにおまえときたら何を勘違いしたのか、一人で思いつめて、姿を消して……」
悪戯っぽく弥勒は言うが、その瞳はどこか切なげに揺らめいていて、珊瑚はきゅうっと胸が絞めつけられる。
「珊瑚。これは私の心からの気持ちだから、よく聞いてほしい。もし、おまえさえよければ、この先は私とともに生き──私の子を、産んでくれんか……?」
私の妻として──
「ううん、それはできない。ごめん、法師さま」
その先の言葉を、珊瑚は哀しげにさえぎった。
日々、珊瑚が己に向ける表情や視線、その態度から、彼女もまた、己に好意を寄せてくれていると確信するものがあった弥勒は、意外さを禁じえない。
「珊瑚……?」
哀調を帯びた静かすぎる弥勒のつぶやきにも、珊瑚は寂しげに竹筒に挿されている牡丹の花を見遣るだけだった。
「あたし、もう数日もしたら、ここからいなくなるから」
「いなくなる?」
華やかに咲く牡丹を目に映したまま、珊瑚はうなずいた。
「だけど、法師さまの気持ち、とっても嬉しい」
「……」
「だから──その、今夜だけ……」
「え……?」
「今夜、一晩だけ……ここで、法師さまといてもいい……?」
思いもよらない言葉を口にした娘に驚いた弥勒が珊瑚を凝視すると、彼女は真っ赤に頬を染め上げ、顔を隠すようにうつむいていた。
一夜を、ともに──
つまりそれは、臥所をともにしたいということか?
ならば、珊瑚は私を嫌ってはいないということだ。では何故、別れを告げようとする?
「珊瑚──」
「何も訊かないで。ただ、そばにいさせて」
消え入りそうに、泣き出しそうに、珊瑚は切れ切れに言葉を紡ぐ。
「珊瑚、どういうことだ」
納得のいかない弥勒は、頑なに顔を上げようとしない珊瑚をそっと抱き寄せ、やさしく詰問する。
「この土地を離れ、どこか遠くへ行くのか?」
「……」
「ならば、私もともに行こう。おまえのいない未来など、考えられぬ」
弥勒の腕に抱かれたまま、珊瑚は弱々しく頭を振った。
「それとも……まさか、他に心に決めた男でもいる、のか?」
無理やり考えの外に追いやろうとしていた可能性を、弥勒は喉の奥から絞り出すような声音で口の端に掛けた。
「……許婚がいる──とか?」
珊瑚はまたしても首を振る。
「そうじゃないよ」
「では何故だ。おまえが私とともにいたくない理由を、はっきりと聞かせてくれ」
「違う。法師さまのそばにいるのが嫌なんじゃなくて、それができないから──」
「もし、意にそわぬ婚儀でも強いられているのであれば、今すぐにでも、おまえを連れてこの村を発つ」
「法師さま」
ようやく顔を上げた珊瑚の瞳は、涙に濡れていた。
「あたしはどこへも行かない。ただ、消えてしまうだけ」
「消える?」
珊瑚はうなずく。
「あの花が枯れたとき、あたしは消える。だから、法師さまとも、もう逢えない」
弥勒は息を呑み、花と珊瑚を見比べた。
「それは……死ぬということか?」
「そうじゃないよ。でも、人間だったら、それを死ぬって言うのかもしれない」
茫然とする弥勒に潤んだ瞳で微笑みかけ、珊瑚は薄紅と白の濃淡色を持つ牡丹を眼で示した。
「あの花は、あたしだから」
「……」
ゆるゆると全身から力が抜けていくように感じ、弥勒はぐったりと倒れ込むように、珊瑚の肩に顔を埋めた。
「やはりそうか」
力なく珊瑚にもたれかかり、すがるようにその身を抱きしめる。珊瑚は法師の背に腕を廻して、彼の重みを受け止めた。
「法師さま、気づいてたの……?」
「おまえを捜し歩いているとき、ふと、その可能性が脳裏をよぎりました。そして、私があの花にしか告げなかった言葉を、おまえは知っていた」
切なげに吐息を洩らす。
「それに、同じ色だ」
牡丹の花弁と、珊瑚の小袖──
「……教えてくれ。おまえは本当にあの牡丹の精なのか?」
答える代わりに、珊瑚は法師の身体に廻した両腕に、そっと力を込めた。
「そうか……」
娘の肩に額を押し付け、ささやきにもならぬ、法師の声。
少しの間、迷うような色を見せていた珊瑚の瞳が凛とした光を帯び、細い指があやすように弥勒の髪を撫でた。
「ねえ、法師さま。そのままでいいから、聞いて?」
静かに、珊瑚はゆっくりと語り始めた。
「法師さまが見つけたあの苑。あそこにはさ、邪な者は入れないんだ」
珊瑚を抱きしめる弥勒の肩が、ぴくりと揺れた。
「法師さまが苑へ入ることができたのは、法師さまを、苑のみんなが受け入れたからなんだよ?」
「……みんな?」
華奢な肩に顔を埋めた法師が、くぐもったつぶやきを洩らす。
うん、と珊瑚は答えた。
「苑に咲く牡丹には、ひとりひとり、精霊が宿ってる。あたしもその一人」
「……」
「みんな、法師さまが好きだったよ。毎日、法師さまが来てくれるのを心待ちにしていた」
「……おまえも、か?」
弥勒を抱きしめたまま、顔を見ずに珊瑚はうなずいた。
「あそこの牡丹の精霊はさ、本体である花が枯れたとき、この世から消える定めなんだ。それでも、みんな、法師さまに手折られることを誇りとしていたんだよ」
「何故、そのような……」
「人間に愛されることが、花にとっての一番の幸せだから。手折られることが喜びなんだ。儚い生命だけど、好きな人に摘み取ってもらえて、法師さまに手折られた仲間たちはみんな幸福そうに笑ってた。誰も法師さまを恨んじゃいないよ」
悔いているのだろうか。
珊瑚を掻き抱く弥勒の腕に、わずかに力が込められた。
「だけど、法師さまは苑に来ると、いつも真っ先にあたしに語りかけてくれるのに、絶対にあたしを摘もうとはしなかっただろう?」
「おまえは、私に摘み取ってほしかったのか?」
「うん、最初はね。だから、どうしてあたしだけ手折ってくれないのか、人の姿になって、じかに法師さまから訊き出せないかと思ったんだ。……でも、さ」
珊瑚の指が、首の後ろで結わえられた弥勒の髪をゆっくりともてあそぶ。
「いつも遠くから見てるだけだったあたしに、法師さまは話しかけてくれて、やさしくしてくれて……法師さまと逢っているうちに、あたし、花として愛されるよりも、このままずっと、法師さまといられたらなって、そんな気持ちのほうが強くなって……」
「さん、ご……」
「ただ法師さまのそばにいたかったんだ」
愛しい娘の肩口に押し付けていた額をわずかに引き、弥勒ははっと眼を開けた。
「愛されてなくてもいい。このまま、ずっと法師さまとともに日々を過ごすことができるなら、それだけでいいって」
「……珊瑚……」
ゆるゆると苦しげに顔を上げ、弥勒は珊瑚の無垢すぎる瞳を覗き込んだ。
「私は……そんなおまえの生命を、この手で奪ってしまったのか──」
自分が恋したあの花だからこそ、最愛の珊瑚に贈り、生涯の伴侶となってほしかった。ただ、それだけだったのに。
「すまない、珊瑚……」
「そんな顔しないで、法師さま」
珊瑚はもう泣いてはいなかった。
「あたし、嬉しいんだよ。法師さまが、あたしを好きでいてくれたって判ったから」
そんなふうに珊瑚は微笑む。
だが、弥勒は恐怖した。
彼女は遠からず消えてしまう。彼女を失う。
皮肉にも、彼女が己と生きたいと願うようになったその矢先、知らぬこととはいえ、自らの手で彼女の生命を絶つ結果となってしまったのだ。
その事実に弥勒は茫然とした。
2007.6.8.