仔狐方士と黒の国

第三章 珊瑚の痛み

 連日の宴に、珊瑚はほとほと疲れ果てていました。
 王宮での行事には慣れているものの、弥勒の不在に加え、突然決まった彼の結婚に、心労は重なるばかりです。
 黒の国王が用意してくれた綺羅をまとい、面紗ベールをつけ、珊瑚も宴席に臨みますが、食欲などまるでなく、皆から離れて、一人、葡萄酒の盃を弄んでいました。
 旅の最中、弥勒が戯れに、己を「葡萄姫」と呼んだことが思い出されます。
 そんな日々は幻だったのでしょうか。
「珊瑚さん」
 大広間の片隅に目立たぬよう座っている珊瑚のそばへ、黒の国の姫・志麻がやってきました。
「宴を楽しんでおられますか?」
 一人ぼっちでいる珊瑚が気になるのか、志麻は遠慮気味に彼女の隣へ座りました。
「あんたこそ、中央にいなくていいの?」
「大臣や諸侯の相手は弥勒さまがやっていてくださいますから」
 意外なことに、方士に化けた妖魔の七宝は、なかなか饒舌に、巧みに方士の役を演じているのでした。
 ふと、志麻の視線が珊瑚の顔の両側に注がれました。
「あの……耳飾り、片方……」
 ああ、と珊瑚はつぶやきます。
「旅の途中、片方だけ失くしたんだ。でも、大切なものだから、外したくなくて」
 弥勒から贈られた美しい真珠の耳飾り。
 片方だけ残った耳飾りが、まるで置いてきぼりにされた自分のようで、珊瑚は黒の国王が用意した別の耳飾りに付け替える気になれませんでした。他の装身具も同じです。
「弥勒さまとあなたは……」
「すまない。旅の疲れが抜けなくて。宴ももう五日目だし、ひと足先に部屋に戻らせてもらっていいかな」
「え、ええ。こちらのほうこそ、ご無理をさせてしまって」
 何か言いたげな志麻を残し、珊瑚は部屋へ戻りました。
 弥勒の結婚の宴など、珊瑚にとっては苦痛以外のなにものでもなく、なんとか礼を失しないようにするのが精一杯でした。

 あてがわれた豪華な部屋へ戻り、侍女を下がらせ、一人になった珊瑚はほっと息をついて寝台に腰を下ろしました。
 ランプに灯を点すのも億劫で、面紗だけ取り、ぼんやり闇を見つめていると、扉が開いて、方士の姿をした七宝が入ってきました。
「大丈夫か、珊瑚? 気分がすぐれんと聞いたが」
「七宝」
 珊瑚は顔を上げて、彼に視線を向けました。
「平気。ちょっと疲れただけだよ」
 七宝はほっとしたように微笑みます。
「珊瑚が病気にでもなったら、どうしようかと思ったぞ」
 保護者のような気分なのでしょう。
 弥勒の姿のまま、七宝は珊瑚が腰かけている寝台に並んで腰を下ろして、屈託なく笑いました。
 その笑顔を見返し、珊瑚はここ数日、気になっていることを訊いてみようと思いました。
「あんたと志麻さんって……その、どうなってるの?」
 正体は七宝でも、志麻のほうは彼を本物の弥勒だと思い込んでいるのです。夜も毎晩、彼は志麻の部屋で休んでいました。
 二人の仲がどう進展しているのか、珊瑚にはどうしても気になります。
「別にどうもなっておらん。おらは弥勒ではないんじゃから」
「だけど、もう五日も、あんたは志麻さんとずっと一緒にいるじゃないか。夜だって、その……」
「夜? 夜は話をしておる」
「話?」
 七宝はこっくりとうなずきました。
「おらの住んでいる国の話や、妖魔の仲間の話。それに、人間の魔術師の話をな。おお、そうじゃ、眠っている王子と姫君の美しさ比べの話をしたら、たいそう面白がっておったぞ?」
 少し興味を引かれ、珊瑚は身を乗り出しました。
「それ、あたしも聞きたい」
「……え゛」
 美しさ比べの当事者を目の前にして、七宝は言葉につまり、誤魔化すように立ち上がって、窓辺へ歩いていきました。
「ま、まあ、いつか話してやろう」
 小さく咳払いをすれば、珊瑚も立ち上がり、七宝のそばへ寄りました。
 窓から射し込む月の光を浴びてたたずむ黒衣をまとった彼の姿を、珊瑚は憧れるように見つめました。そして、言いました。
「ねえ、七宝。お願いがあるんだけど」
「なんじゃ」
「もし、あんたが嫌でなければ、少しだけ、抱きしめさせてもらってもいい?」
 七宝が弥勒の瞳でじっと珊瑚を見つめます。
「構わんが。ホームシックか?」
「そんなとこ」
 そこに立つ青年に、珊瑚は一歩近づきます。
 おずおずと伸ばした指先が我知らず震えました。
 本物の弥勒ではないのに、相手は七宝だと解っているのに、まるで弥勒の幻影と対峙しているような錯覚に捕らわれて、珊瑚は募る恋しさを噛みしめます。
 両手をそっと方士の背に廻し、広い胸に頬を押し当てました。

 ――方士さま、いまどこにいるの……?

 勝気な珊瑚姫も、独り、異国の地に放り出されて、泣き出したいほど心細いのです。
(まさかあたし、捨てられたんじゃないよね……)
 涙をこらえてぎゅっと彼を抱きしめれば、仔狐のほうも、なぐさめるように姫の頭を撫でてくれました。
「珊瑚。そんなにつらいなら、自分の国に帰るか? 韋駄天の術を使える妖魔がいるから、そいつに頼めば、一瞬で国に帰れるぞ」
 弥勒の掌で、仔狐は珊瑚の後頭部を何度も撫でます。大きな手に、珊瑚はなぐさめられる思いでした。
「おらはこの国で弥勒を待って、ちゃんと、珊瑚が自分の国へ帰ったことを伝えるから……」
「ありがとう、七宝。大丈夫。あたしもここで方士さまを待つよ」
 関係のない七宝を巻き込んで、自分だけ逃げるわけにはいきません。
 珊瑚姫は愛しい人の面影を見上げて、無理に微笑んでみせました。


 翌日のことです。
 珊瑚は黒の国王に呼び出されました。
「何でしょうか」
 玉座の前にひざまずく珊瑚姫に、国王は立ち上がるよう、手ぶりで示しました。
「今日は、兄君ではなく、あなたにお話があるのだが」
「はい」
 王宮で何か失敗をしただろうかと、ちらと珊瑚は考えました。
 考えてみても、特に思い当たる節はありません。
「弥勒さまと志麻の結婚の宴に出ていただき、多くの者があなたを見かけましてな」
「はい」
「そのうちの何人かが、あなたを妻に欲しいと私に申し出てきました」
「は――え……?」
 珊瑚は唖然と眼を見張りました。
「いずれも身分の高い者たちばかりです。どうでしょう、その中の一人と結婚されては。そうして、兄君とともにこの宮殿でお暮らしになればいい」
「あのっ、ですが、あたしはすでに……」
「大臣の子息など、身分も年齢も釣り合いがとれて、似合いだと思うのですが」
 故国でも、白銀の月のような珊瑚姫の美しさは周辺諸国に知れ渡っていましたから、面紗越しとはいえ、姫を見た者が彼女を見初めたとしても、何の不思議もありません。
 しかし、珊瑚は困り果てました。
 弥勒の結婚だけでも手に余るというのに、何と言って断ればいいのでしょう。
 そして、この国を出たとして、どこで弥勒を待てばいいのでしょう。
 ゆっくり考えたいと思った珊瑚姫は、王の御前を退出し、そのままふらふらと王宮内の庭園に足を運びました。

 花や木立を美しくあしらった庭園は広々としていました。
 とぼとぼと木立の中を歩いてきた珊瑚は、大きな水盤に涼しげに水を湛えた噴水のほとりまで来て足を止めました。
 憂い顔でため息をつき、面紗を取って、肩にかかる艶やかな長い黒髪を後ろへ払います。
 そんな彼女の様子を、棕櫚の木に囲まれた四阿あずまやから一人の人物が見ていました。
 へえ、とつぶやいたその人物は、もたれていた柱から身を起こし、姫のほうへ向かって大股に歩を進めてきます。
 誰もいないと思っていた珊瑚は驚きました。
 慌てて面紗を深くかぶり直しますが、顔を見られてしまったでしょうか。
 颯爽とこちらへやってきたのは、端整な顔立ちに精悍な雰囲気を漂わせた青年です。長い髪を編んで背に垂らし、藍色のターバンを巻いていました。
 彼の身なりを見て、身分の高い人物らしいと珊瑚は見当をつけました。
「おまえ、珊瑚姫だろ?」
 いきなり馴れ馴れしく話しかけられ、戸惑いましたが、珊瑚は小さくうなずきました。
「国王から聞いてねえか? おれ、蛮骨。大臣の息子」
「えっ?」
 つまり、先ほど話があった彼女を妻にと望んでいる者たちの一人なのでしょう。
 言葉につまり、珊瑚が黙っていると、突然、面紗を奪われ、顔を露にされました。
「何を……!」
「宴の席でも思ったけど、すげー美人だな。気に入ったぜ。第一夫人にしてやるよ」
 無礼な態度に憤然とする珊瑚を別段気にすることもなく、蛮骨は彼女をじろじろ眺めました。
「おまえ、どこかの国の姫なんだって? おれは国王の軍を預かってるんだ」
「……」
 どうして、方士さま以外の男と二人きりでこんなところにいるのだろう?
 まるで逢い引きしているみたいではないか――
 珊瑚は無力な自分がたまらなく嫌になり、そっとうつむきます。
 そんな彼女をじっと見つめていた蛮骨は、姫の耳元に唇を寄せ、声をひそめて言いました。
「今宵、おまえの部屋へ忍んでいく。そのつもりで待ってろ」
「は?」
 驚いた珊瑚の瞳が大きく見張られました。
「なに言ってんの、あんた?」
「なにって、おれ、おまえの婿だし」
「その話、受けてないんだけど!」
 真っ赤になって怒る珊瑚の様子を照れていると勘違いしたのか、にっと笑んで、彼は珊瑚の肩を叩きました。
「だーい丈夫だって。やさしくしてやるよ。おれ、上手いから」
「って、何がっ!」
 かっと珊瑚の頬が熱くなります。
「じゃあ、そういうことで」
「ちょっと待って!」
 彼女の面紗を持ったまま、蛮骨は機嫌よく宮殿のほうへ去っていきました。
 取り残された珊瑚姫は茫然と立ちつくします。
(ちょっと待って。このまま王宮にいたら、あたし)
 否応なく誰かの妻になってしまうのか。
 方士さま以外の? そんなのって……!

 激しく混乱した珊瑚は、発作的にその場を駆け出しました。
 庭園を出て、宮殿を抜け出し、町を駆け抜けて。
 たった一人で、衝動のままに黒の都の城門を飛び出してしまいましたが、都の外へ出て、この先いったいどうすればよいのでしょう。
 けれど、考えることすら苦痛でした。
 姫は、ただひたすら、己を取り巻く全てから逃れたかったのです。

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2010.7.2.