仔狐方士と黒の国

第四章 方士と姫と盗賊と

 思いつめて、黒の国の都を飛び出した珊瑚姫でしたが、手許には一ディルハムのお金もなく、今から町へ引き返して宿屋に泊まるわけにもいきません。
 装身具を売ろうかとも考えましたが、彼の思い出を売ることはやはりできませんでした。
 ひと晩だけ、しのげばいいのです。
 今夜ひと晩、あのオアシスの廃墟で過ごして、明日、王宮へ戻り、自分には決まった相手がいると大臣の息子に説明しよう――
 蛮骨には口で勝てる気がしませんが、それしかありません。
 他の求婚者たちにも国王から結婚を断ってもらおう。
 そう考え、珊瑚はオアシスに向かって歩きました。
 七宝に何も言わずに出てきてしまったことが気がかりですが、彼は今日も志麻姫の部屋で過ごすのでしょう。
 この国において、唯一の味方である七宝は志麻のもとから離れられず、珊瑚の孤独は募ります。
 結局、彼女は世間知らずな深窓の姫君であり、国では父王の庇護を受け、旅においては常に弥勒に護られ、現に今も、小さな七宝に護られているのです。
 情けなくて、重いため息がこぼれました。

 オアシスの廃墟に辿り着いた頃、辺りはすっかり薄暗くなっていました。
 西の空の太白星を見上げ、珊瑚はその場にひざまずいて、アラーに祈りました。
(全能なるアラーよ、方士さまに逢わせてください。方士さまが戻ってきてくれるなら、あたしは何もいりません)
 想いをこめて祈りを捧げ、右手の人差指にはめた指輪に口づけます。
 今となっては、弥勒が残していったこの印章指輪だけが、彼が自分を裏切ったのではないというただひとつの証なのです。
 泣くまいと珊瑚は思いました。
 ずっと耐えてきたのに、ここで泣いたら、自分が駄目になるような気がしました。


 その夜、廃墟の建物の中でうとうとと微睡みながらひと晩を過ごした珊瑚は、明け方近くに、大きな物音ではっと眼を覚ましました。
(なに? 隊商……?)
 蹄の音です。
 このような場所を大勢で通るのは隊商くらいしか思いつきません。
 しかし、この辺の治安について七宝が言っていたことがふっと姫の脳裏をよぎりました。
(まさか、盗賊――!)
 慌てて身を起こし、彼女は警戒に身を固くしました。
 建物の中から覗くと、何十人もの男たちが馬で乗り付けています。どの男も、どう見ても商人の風体ではありません。
 間違いなく盗賊です。
 盗賊たちは、昔の隊商宿をそのまま利用しているようです。
 そっと廃墟を出て彼らをやり過ごそうとした珊瑚でしたが、たちまちその中の一人に見つかってしまいました。
「女がいるぞ!」
 そのひと言に仲間たちが集まってきます。
 彼女を捕らえようとやってきた男の手をよけ、珊瑚はわざと地面に倒れました。
「立て。こっちへ来るんだ」
 珊瑚はゆっくり膝をつき、のろのろと立ち上がろうとして、次の瞬間、手に掴んだ砂を男の顔に投げつけました。
「うわっ、何しやがる!」
 眼や口に入った砂を払おうとする男に隙ができたとき、珊瑚は素早く動き、相手の腰の剣を奪いました。
「あたしに近寄るな!」
 たおやかな美女が剣を構える様を見て、はじめは嗤っていた盗賊たちでしたが、彼女を軽くあしらおうとした仲間が、一人、また一人と倒されていく有様に次第に苛立ちを覚え始めました。
 無駄のない動きであざやかに剣を振るう姫の姿はまるで剣舞のようです。
 幾人もの男を相手に斬り結び、相手の足や利き腕を狙って戦闘不能に陥らせ、確実に敵の戦力を減らしていきます。しかもほとんど返り血を浴びていません。
 たちまち、血を流した盗賊たちが何人も地に伏しました。
「そこまでだ」
 はっと振り返ると、幾人かが弓を構えて珊瑚に狙いを定めています。
「剣を捨てろ。でなければ、おまえが死ぬぞ」
 そちらへ気を取られた一刹那、斜め後ろから飛び出してきた男の半月刀に、珊瑚は剣を叩き落とされてしまいました。
「……!」
 珊瑚は周囲を囲む盗賊たちを屹と睨みつけます。
 捕まったら辱めを受けるのでしょう。
 そのときは、舌を噛み切るまでだと覚悟しました。
「大した女だ」
 腕を斬られた男が傷に布を巻きつけながら、憎々しげに言いました。
「それに、滅多にお目にかかれねえほどの上玉だ。お頭、独り占めはいけませんぜ」
 下卑た笑い声が上がりました。
 ざっと見て、盗賊たちは、珊瑚が倒した者たちを含め、三十人はいるでしょう。
 珊瑚は表情を変えることなく、毅然と立っています。
 身を穢されるくらいなら躊躇いなく死を選ぶつもりです。
 けれど、それは王女としての誇りのためというより、
(方士さまの顔に泥を塗るわけにはいかない)
 そんなことになれば弥勒に申し訳が立たないと、弥勒の妻になる者としての矜持から、強く珊瑚はそう思ったのです。
 身体の両側から二人の男に両方の腕を押さえこまれた珊瑚の前に、盗賊の首領が近づきました。
 節くれだった指で珊瑚の顎を掴み、彼女の顔を上へ向けさせます。
 ぎょろりとした眼が値踏みするように珊瑚の顔、そして頭の天辺から爪先まで、無遠慮にじろじろと眺め回しました。
「なるほど。こりゃあ、美しい。まばゆいばかりだな」
 火を噴くような珊瑚の視線にもにやりと嘲るようにゆがんだ笑みを浮かべ、
「おまけに剣の腕から察するに、身分の高い娘のようだ。これほどの女なら、奴隷市で軽く一万ディナールは堅いぞ」
 彼女の身を売ることを、仲間たちに提案しました。
「金貨一万枚か」
 今ここで娘を手籠めにするより遥かに魅力的な金額です。
 物欲しそうに珊瑚を見つめる者も何人かいましたが、首領は売り物に手を出すことは許さず、彼女を縛り上げるように手下に命令しました。
 珊瑚にひどい目に遭わされた盗賊たちは、用心するように彼女の腕を後ろ手に縛りました。
 珊瑚は唇を噛み、冷静になるよう自分に言い聞かせます。

 ――市で売られるまでにはまだ時間があるはずだ。
 逃げ出す隙を見つければ、助かるチャンスは必ずある――

 ふと、眼の端に何かが動いた気がして、珊瑚はそちらを見遣りました。
 気のせいかと思いましたが、建物の陰に、確かに黒い人影が見えます。
(まさか……)
 はっとしました。
 漆黒の衣裳に漆黒のターバン。よく知る弥勒の姿に間違いありません。
(七宝……? あたしを捜しにきてくれたの……?)
 思わず声を上げそうになり、彼女は慌てて口をつぐみました。
 心臓が早鐘を打ちます。
 向こうも珊瑚の視線に気づいたようで、彼女に小さくうなずいてみせました。
 そして、足許に視線を落とした彼の口が微かに動いたように感じた次の瞬間。

 珊瑚は自分の眼が信じられませんでした。

 ごうっと炎の渦巻く音とともに出現したのは炎をまとった赤い眼の大きな妖獣です。
「雲母!」
 驚愕に眼を見張り、珊瑚は叫びました。
 人間が何十人いようと、所詮、妖魔の雲母の敵ではありません。
 恟然となる盗賊たちを蹴散らし、雲母は悠然と彼らを睥睨します。
「まっ、魔物……!」
 珊瑚を取り押さえている男たちが怯むと、建物の陰から、さっと黒い人影が躍り出てきました。
 雲母に場を撹乱させた方士は、賢者の持つ杖を手に、片端から盗賊たちを薙ぎ倒していきます。
「ほうし、さま――?」
 本物の? 七宝が化けた偽者ではなく?
「方士さま……方士さま――!」
「珊瑚、下がっていろ!」
 雲母の襲撃を免れた珊瑚の周囲にいた男たちが、こぞって剣を振り上げ、弥勒に襲いかかります。
 それを見事な杖さばきで受け、男たちの剣を弾き飛ばし、弥勒は次々に相手の急所へ一撃を喰らわせていきました。
 息をつめて彼の杖術を見守っていた珊瑚は、盗賊の一人が弓を引き絞り、弥勒に狙いを定めているのに気づいて、その男に向かって体当たりをしました。
 雲母が咆哮で威嚇します。
 憤怒の形相で首領が短刀を抜いて珊瑚を拘束しようと近づいてきましたが、その頃には盗賊たちをあらかた片付けた方士が、素早く杖で首領に挑みかかりました。
 二合、三合と打ち合った末、手首を打たれ、短刀を取り落とした盗賊の首領は、大地にどっと倒れました。その左胸に、弥勒が杖の尖端を突き付けます。
「珊瑚に何をした」
 激しい怒りを押し殺した声。いつもは穏やかな黒曜の瞳が苛烈な光を放っています。
「言ってみろ。縄をかけ、その汚い手で触れたのか。珊瑚に無礼を働いておきながら、この期に及んで、よもや命乞いなどすまいな」
「ひっ、ひいっ!」
 このまま力を加えられれば心臓を潰されます。
 首領は情けない声を上げ、卑屈そうに瞬く脅えた眼で黒衣の青年を見上げました。
 これほど感情を露にした弥勒を珊瑚は初めて見ます。
「方士さま!」
 少し離れた位置にいた珊瑚は彼に駆け寄ろうとして叫びました。
「来るな、珊瑚。おまえは見なくていい。首領はこの男だろう? おれがこいつの始末をつける」
 弥勒が本気であることに戦慄し、珊瑚は身をすくませました。
「やめて。あたしなんかのために手を汚さないで」
「おまえがよくても、おれの気がすまん。おまえは雲母と向こうへ行っていろ」
「行かない。こんな奴を手に掛けたら、方士さま、絶対に後悔する。それに、あたしは方士さまに人殺しをさせたくない!」
 弥勒が無益な殺生を嫌っていることは、誰よりも珊瑚がよく知っています。
 事実、今ここでの乱闘においても、彼が一人も殺すことなく地に這わせたことを、珊瑚は見極めていました。
 弥勒の志を自分のために無にするわけにはいきません。
「方士さまが……来て、くれただけで……あたし」
 我慢していた涙が一気にあふれ出るのが解りました。
 ぽろぽろとこぼれる珊瑚の涙にはっとなった弥勒は、盗賊の首領を鋭く見据え、杖で相手の頸部を打って気絶させるにとどめました。
 そして彼女のほうを振り返ります。
「珊瑚――
 そちらへ数歩、歩み寄ると、両手を後ろで縛られたままの珊瑚も方士に向かって駆け出しました。
「方士さま!」
 珊瑚は身体をぶつけるようにして、弥勒の腕の中に飛び込みました。
「逢いたかった、方士さま!」
「珊瑚……!」
 弥勒は華奢な肢体を受け止め、その身体が折れそうなほどに力を込めて抱きしめます。
 言いたいことはたくさんあったはずなのに、ひとつとして言葉にならず、代わりに愛しい姫の唇を唇で捕らえ、渇きを癒すようにその小さな唇を貪りました。

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2010.7.9.