おらは魔法使い?
第十五章 南の魔女とかごめの願い
金の鈴を三度振って呼び出された神楽は、面白くもなさそうな顔つきで、自分の前に立つ小さな七宝を無遠慮に眺めた。
「本当にこのガキが翠玉王なのかよ?」
ぞんざいに言う風使いをなだめるように、仔狐との間にかごめが割って入った。
「しょうがないのよ。七宝ちゃんには七宝ちゃんの事情があるんだから」
「で? てめえらを南の国へ運べって?」
「ごちゃごちゃぬかすな。おめえなら、おれたち全員を難なく南の国まで運べるだろうが」
「ちっ。どいつもこいつも人使い荒いぜ、ったく」
面倒そうに吐き捨てる神楽だったが、すぐに風を呼び、七宝を含む一行を、あっという間に風に乗せて大空へと吹き上げた。
驚いた七宝が、掴まっている弥勒の肩に顔を伏せ、ぎゅっと眼をつむる。その一瞬のあと、耳元で吹き荒れていた風の音が消え、不意に浮遊感が治まった。
「ほらよ、ここが南の国だ」
大地に降り立った五人は眼を見張った。
広々と静寂な土地、そして彼らの目の前には、霧の漂う大きな湖があった。
澄んだ湖面に巨大な鳥居が一基そびえ、その向こうに、霧にけぶって小さな島が朧に見える。
その島に、南の国を治める魔女は住んでいるのだと神楽は言った。
「五十年ほど前、奈落が西の国を治めるようになって、以来、南の魔女は一歩も宮を出ずに国の守りに徹していたと聞いている。あたしも何度か奈落の命令で偵察に来たけど、手も足も出なくてね」
そして、神楽はかごめたちを振り返った。
「魔女の宮殿は強固な結界に守られている。ここから先はあたしの力じゃ入れねえ。おまえら、どうする?」
「舟がいりますな」
考え考え言う弥勒の隣で、霧に包まれた島のほうを見つめていた珊瑚が眼を凝らした。
「法師さま、島のほうから何か来るよ」
大鳥居をくぐってやってくるそれは、大きな舟と、二人の童子だった。
童子は舟の両側について、空中を滑るように移動している。
明らかに人ではない。
「式神か。ということは、南の魔女の使いですかな」
二人の童子はこちら側の岸にたどり着くと、地に降り、一行を見てから、丁寧に頭を下げた。
「南の国を治める桔梗さまの命により、皆様をお迎えにあがりました」
そして、みなを舟へといざなった。
かごめたち一行、そして神楽は、式神に先導された舟で湖を渡った。
二十メートルを超す朱塗りの大鳥居の下をくぐり、鏡のような湖面を滑るように島へと向かう。
近づくにつれ、少しずつ霧が晴れ、魔女の住む典雅な建物がはっきりと見えてきた。
「これが南の魔女の宮殿。……まるで神宮ね」
かごめがつぶやく。
島に着くと、彼らは式神たちに宮殿の中へと案内された。
宮殿内の広間では、巫女装束をまとったうら若い女性が一行を待っていた。
広間には玉座がしつらえてあったが、南の国を統べる魔女はそれには座らず、立ったまま客人たちを出迎えた。
「よく来た、四魂の玉を持つ者たち。私はこの南の国を治める桔梗だ」
二人の式神が礼をしてその場を去ると、長い髪を丈長で結んだ巫女姿の佳人は、みなの顔を見廻した。
そして、犬夜叉の顔に視線をとめ、懐かしげにふっと笑んだ。
「久しいな、犬夜叉。この国に四魂の玉の気配を感じ、その持ち主を招き入れてみれば、おまえと再会することになろうとはな」
「き……桔梗! おまえ、五十年も経つのに、なんで昔の姿のままなんだ?」
「奈落の侵略を阻むため、この島には特殊な結界が張ってある。この島の中に限り、時間は流れず、私も老いることはない」
親しげな犬夜叉と桔梗のやり取りに、何故だか胸の痛みを覚え、かごめは隣に立つ弥勒の耳にささやいた。
「知り合いなのかしら?」
「ほら、あれじゃないですか? 五十年前、犬夜叉に謎かけをしたという巫女。あの桔梗さまというお方は、どこか、かごめさまに似ていますし」
桔梗は犬夜叉の瞳を見つめ、そこに揺らぎない光を見て取り、愛しむような表情を浮かべた。
「真の勇気を得たようだな、犬夜叉」
「どうだかな。まだ、本当の勇気を得たのかどうか、自分でも判らねえ」
「いや、今のおまえの眼には、恐れることなく真実を見つめ、それに立ち向かおうとする気迫が見える。強くなったな。ここにいる仲間のおかげか」
犬夜叉は桔梗に簡単に仲間たちを紹介した。
「法師の弥勒と、妖怪退治屋の珊瑚。珊瑚は東の国の人間だ」
「私も東の国出身です」
弥勒がにっこりと笑み、雲母を抱いた珊瑚は軽く頭を下げる。
「かごめは異世界の巫女だ。実は、こいつのことで頼みがあって来た」
不安そうな様子のかごめに眼を向け、桔梗はうなずいた。
「解った、あとで聞こう」
「で、狐妖怪の七宝。魔法なんか使えねえただのガキだが、緑柱石の都の翠玉王の正体ってのがこいつだ」
「なるほど。緑柱石の都には謎が多いと思っていたが、そんなからくりがあったのか」
ぴょこんと頭を下げる仔狐を見て、可笑しそうに桔梗は言う。
そして、残る神楽に眼を向けた。
「……な、なんだよ」
「おまえは、たびたびこの国を探りに来ていた奈落の手先だな」
「っ!」
淡々とした桔梗の言葉に、神楽は敵愾心も露に巫女を見据える。
「待って、桔梗。奈落はもういない。神楽は奈落を倒そうとしたあたしたちに協力してくれたの」
険悪な雰囲気が漂い始めた桔梗と神楽をとりなすように、かごめが間に入った。
「これ――これを見て」
かごめがポケットから取り出したのは、神楽の心臓が封じられたという例の鈴だ。
「神楽はこの鈴に心臓を封じられて、仕方なく奈落に従っていたのよ。でも、奈落が死んだ今も、封印が解けずにいるの。桔梗、あんたはこの世界で一番偉大な魔女なんでしょう? 鈴の封印、あなたなら解けるんじゃない? お願い、助けて」
かごめが差し出した金の鈴をじっと見つめていた桔梗は、すっと手を出し、鈴を受け取った。
「封印が解けないのは、奈落の身体の一部がまだ生きているからだ」
「えっ?」
驚く一同を尻目に、桔梗は自らの髪を一本切り、鈴についている紐の部分に巻きつけた。
「この紐に奈落の髪が編みこんであるようだ。この紐を切り離せば……」
そうして、桔梗が片手で印を結び、呪言を唱えると、じゅっと音がして、鈴の紐の部分が溶けるように消滅した。
「あっ」
神楽が驚きの声を上げる。
ちりん、と小さく鈴が鳴ったかと思うと、次の刹那、金の鈴は粉々に砕け散った。
「どうだ?」
驚きの表情を浮かべる神楽に桔梗が問う。
「……あたしの、心臓が……」
左の胸を押さえる指先に、神楽は確かな鼓動を感じた。
「心臓がある。あたしは、やっと自由に……」
「神楽!」
「神楽……よかった!」
みなの顔に笑みがこぼれ、神楽は大きく吐息をついた。
「かごめ、桔梗……それから、みんな。礼を言うぜ。この恩は忘れねえ」
己の心臓を押さえ、噛みしめるように言う神楽の表情に、今までにはなかった穏やかさが表れ、本当によかったとかごめは両手を握りしめた。
珊瑚が嬉しげに隣にいる法師の右腕に手をかけ、その仕草に応えるように弥勒は左手で珊瑚の手を握った。
犬夜叉が桔梗を顧みる。
「ありがとう、桔梗。もうひとつ、頼みがあるんだが」
「その、四魂の玉を持つ娘のことだな?」
桔梗の冷静な声に、何故か、かごめはびくりとした。
ここで桔梗が願いを叶えてくれなければ、自分は永久にこの世界で生きていかなくてはならなくなる。
そして、願いを叶えてもらったら、もう、犬夜叉とは――
(会えなくなるんだ……)
犬夜叉だけではない。
弥勒とも、珊瑚とも、七宝とも、雲母とも。
この不思議な世界での旅。
長いようで、短い冒険の旅だった。それももう終わる。
(寂しいな……)
これまでの経緯とかごめの事情を、犬夜叉と弥勒が桔梗に語るのを、かごめはぼんやりした頭で聞くともなしに聞いていた。
「かごめ。おまえは、異世界の人間なのか」
「え、ええ」
「だからか。四魂の玉を持っていても無事だったのは」
「どういうこと?」
襟元からチェーンに通した四魂の玉を取り出し、それを見遣り、かごめは尋ねる。
「四魂の玉とは、すなわち“世界”。所詮、この世界の人間が持てる代物ではないのだ」
「ですが、桔梗さま。東の椿も、西の奈落も、四魂の玉の力を利用しようとしていたのでは」
弥勒の言葉に、桔梗は静かに首を振った。
「愚かなことだ。四魂の玉は、かごめが異世界の人間だからこそ、持つことができた。現に玉を手に入れた椿はこの世の異分子であるかごめを引き寄せ、死に至った。奈落とて、玉を手にしたところで身を滅ぼしていただけだろう」
「でも、玉はあたしを守ってくれたわ」
「そう、玉の霊力はかごめにしか使えん。そして、もとの世界に帰りたいというかごめの願いも、四魂の玉によってのみ、叶えられる」
桔梗の言葉に、かごめは唖然と口を開けた。
「四魂の玉の力で、あたしはもとの世界へ帰れる……?」
「そのことを知っていれば、おまえはこの世界へ来たその日のうちに、自分の世界へ帰ることができたはずだ」
驚愕の表情のかごめにふっと笑いかけた桔梗は、どこかあどけなく見えた。
「あたし……あのとき、すぐに帰れたの……?」
もし、東の国にいたのが桔梗だったら。
もし、北の魔女の楓が四魂の玉のことに詳しかったら。
「それは駄目じゃ!」
じっと話を聞いていた七宝が叫んだ。
「かごめがいなかったら、おらは今も緑柱石の都の御殿に閉じこもって、奈落の影に怯えていたはずじゃ」
勢い込んで言う七宝にふわりと微笑し、弥勒も同意した。
「ですな。かごめさまがいなければ、私の風穴はまだ消えてはいないでしょう」
「あたしも。かごめちゃんがいなければ、琥珀が生きていることをずっと知らないままだったと思う」
珊瑚は肩の上の猫又と視線を合わせた。
雲母が甘えるように珊瑚の頬に頭をすり寄せる。
犬夜叉と神楽は照れ臭そうにかごめから視線をそらした。
「おれだって、勇気を持たないまま、あの森から出ることもなかったかもな」
「……あたしもな。奈落から解放されて自由になれたのは、悔しいが、おめえらのおかげだ」
退治屋の娘の手を握り、法師がそっと彼女にささやいた。
「そして、珊瑚と出逢えたのも」
「法師さま」
娘がぽっと頬を染める。
かごめは皆の顔を順々に見つめ、泣きそうに微笑んだ。
「みんな……」
「みんな、かごめさまのおかげなんですよ」
にっこりとやさしい笑みを見せる弥勒に、涙を浮かべたかごめはうなずいた。
大切な仲間たちのことを、きっと、あたしは忘れない。
短い間だったけど、ともに旅したあたしのことを、きっとみんなも忘れないでいてくれるだろうから。
かごめは顔を上げて桔梗を見た。
「教えて。あたしがもとの世界に帰る方法」
決意を浮かべたかごめの瞳を見つめ、ああ、と桔梗はゆっくりうなずいた。
2009.12.25.