おらは魔法使い?
第六章 芥子の花畑にて
わけもわからずこの世界に迷い込んでしまったかごめが緑柱石の都を目指して旅を始めてから、何日かが過ぎた。
ともに旅をする仲間もでき、それなりにこの道行きを楽しんでいる。
緑柱石の都に到着するまでにどれほどの日数がかかるか判らないため、かごめが一番心配していたのは持参した食料がもつのかということだったが、旅慣れた弥勒、職業柄サバイバルな知識に長けた珊瑚、そして森を住処としていた犬夜叉という頼もしい仲間を得て、食べ物に不自由することはなかった。
食料が減った分、黄色いリュックはだいぶ軽くなったが、それだけかごめに掛かる負担も減った。
今日も四人と一匹で灰色の石畳の道を歩いていると、見晴らしのいい野原に出た。
「ねえ、珊瑚ちゃん。この辺、お花が多いわね」
「そうだね。かごめちゃんは花が好き?」
「うん、好きよ。珊瑚ちゃんも好きでしょう?」
当然といったかごめの口調に、珊瑚は困ったように微笑らしきものを浮かべた。
「綺麗だと思うよ。心があった頃は、きっと花が好きだったろうね」
「おなごは花を好むものです。珊瑚もきっと花が好きだったはず」
春風のように微笑む法師の言葉に、珊瑚はやや恥ずかしげに顔をうつむかせた。
「うん……そうだったら嬉しいな」
「なんなら、花占いでもしてみます? 私と珊瑚との恋の行方とか」
しかし、素早く珊瑚の手を取った弥勒がその手を引き寄せようとすると、途端に仏頂面になった珊瑚がぱしっと法師の手を払う。
「なんであんたとの恋なんか占わなきゃならんっ!」
ふいっと歩く速度を上げる珊瑚のあとを、まあまあと笑顔でなだめながら追いかける弥勒の様子を見ていた犬夜叉が、怪訝そうに首を傾げた。
「なあ。弥勒って、わざと珊瑚を怒らせて喜んでねえか?」
「弥勒さま、珊瑚ちゃんがお気に入りなのよ」
かごめはふふっと笑った。
「あれでもね、珊瑚ちゃん、だいぶ表情豊かになったのよ。出会ったときは全くの無表情だったもの。なんだかんだ言って、弥勒さま、珊瑚ちゃんのこと、ちゃんと気遣ってるのよね」
灰色の石畳の道は、野の真ん中を延びている。
野は花畑になり、一行が色とりどりの花を眺めながら歩を進めていくうちに、花の色は次第に赤一色に変わっていった。
まるで赤い毛氈を敷きつめたような景色に、かごめの感嘆の声が上がる。
「綺麗ねえ。これ全部、芥子の花?」
同意を求めるように珊瑚のほうを見たが、退治屋の娘は難しい顔つきで真っ赤な芥子の花畑を見つめていた。
「珊瑚ちゃん?」
珊瑚は難しい顔のまま、法師を顧みた。
「どう思う? 法師さま」
「この花畑がどこまで続いているかが問題ですな」
弥勒の言葉にかごめは首を傾けた。
「どこまでって……お花畑が続くとまずいの?」
「かごめさまはご存知ありませんか。芥子の強い香りは毒にもなるんですよ」
「毒?」
かごめは大きく眼を見開く。
「ああ、芥子って阿片の原料よね。でも、香りを吸っただけでも危険なの?」
「ええ、いえ。少しくらいの香りなら平気ですが、これだけの多くの花が一ヶ所にかたまって咲いていると空気が香りの毒を含むので、その空気を吸った者は毒にやられてしまいます」
「毒の空気を吸ったら……どうなるの?」
恐る恐る問うかごめに、今度は珊瑚が答えた。
「眠ってしまうんだよ」
「眠る?」
それだけのこと? と、かごめは二、三度まばたきをする。
「そう、ただ眠るんです。しかし、かごめさま、考えてもごらんなさい。芥子の香りに中てられて眠るわけですから、芥子畑の中から抜け出さない限り、香りを吸い続け、二度と眼を覚ますことはありません。それは死の眠りです」
ことの重大さをようやく理解したかごめは、先ほどから犬夜叉が妙におとなしいことに気づいた。
「犬夜叉、どうしたの?」
「……何でもねえ。ちょっと花の匂いが強すぎるだけだ」
片手で口を覆い、小さく咳きこむ犬夜叉に、かごめは不安げな眼を向ける。
「犬夜叉や雲母は我々以上に嗅覚が発達していますから、この花畑の香りはきついでしょう」
とはいうものの、緑柱石の都へと続く石畳の道は、この芥子畑の中をまっすぐ貫いており、このまま進むより他に道はない。
前方には見渡す限り、どこまでも赤い色の芥子畑が広がっている。
「犬夜叉、これつけて」
珊瑚は自分の荷の中から取り出したものを犬夜叉に差し出した。
見たこともない形をした面のようなものを、犬夜叉は受け取る。
「何だ、これ?」
「防毒面。それで口と鼻を覆って。少しはこの香りを防げる」
「お、おう。すまねえな、珊瑚」
よほど芥子の香りがつらかったのだろう。
急いで防毒面を装着する犬夜叉をちらりと見遣った弥勒が、横目で珊瑚を見た。
「珊瑚は犬夜叉にはやさしいんですね」
拗ねたような法師の物言いに珊瑚は呆れてため息をついた。
「犬夜叉は匂いに弱いんだから、当然だろ?」
「もし私が匂いに弱かったら、私のほうを優先してくれました?」
「そ、そんなの知らないよっ」
ようやく息をつくことができた犬夜叉が二人の間に割って入った。
「あーもう、痴話喧嘩なんざやってる場合じゃねえぞ? あまり長く芥子畑の中にいると、人間のおまえらだって危険だ」
「痴話喧嘩じゃないっ!」
赫くなって声を荒げる珊瑚をよそに、法師は話を続けた。
「犬夜叉の言う通りです」
「だから、痴話喧嘩じゃ──!」
「いえ、そこではなくて、このままだと我々も危険だということです」
「あ、そっち……」
再び顔を赤らめる珊瑚が愛らしくて、弥勒がまたちょっかいをかけそうな気配を見せたので、話が進まず困ると思ったかごめが彼より先に口を開いた。
「だけど、この道を進むしかないんでしょう?」
「う、うん。緑柱石の都へ行くには灰色の石畳の道を辿っていくしかない」
「おれは別に、無理に緑柱石の都へ行かなければならないこともねえけどな」
「あたしは困るのよ。もとの世界へ帰るためには、翠玉王に会う必要があるんだから」
「まあ、ここでごちゃごちゃ言ってても仕方ないでしょう」
ため息混じりに言い、眉をひそめた弥勒は、手にした錫杖で己の肩をとんとんと叩いた。
「犬夜叉。おまえはかごめさまを負ぶって先へ進め。とにかく、できるだけ早く、この芥子畑から抜けるんです。芥子畑が切れたところで私たちを待っていてください」
「解った。で、おまえと珊瑚はどうする?」
「私たちは雲母に運んでもらいます。人間の足で行くよりずっと速いでしょう」
「雲母は大丈夫かな、珊瑚ちゃん」
犬夜叉がつらいなら、雲母だってこの香りがつらいはずだ。
そう思ったかごめは心配そうに珊瑚と雲母を見比べたが、珊瑚は力強くうなずいてみせた。
「大丈夫。雲母だってそんなやわじゃない。心配しないで」
「犬夜叉がしてるマスク──ええと、防毒面? 猫用もあればいいのにね」
真顔で言うかごめに、珊瑚はくす、と小さく笑った。
「いやだ、かごめちゃん。でも、ほんとそうだね。翠玉王に心をもらって家に帰ったら、作ってみるよ」
「……珊瑚はかごめさまには微笑むんですね」
またしても横から拗ねたように文句を言う法師を、珊瑚は軽く睨んだ。
「どうでもいいだろ、そんなこと。まずはこの芥子畑を抜けなきゃ」
「じゃあ、先に行くぜ。おまえらも早くしろよ」
かごめを負ぶった犬夜叉は、そう言うと、ざっと地を蹴り、芥子畑の中を続く道を駆けていった。
あっという間に小さくなる。
「では、私たちも急ぎましょう」
弥勒の言葉に珊瑚がうなずき、雲母が変化して巨大化する。
二人を背に乗せ、雲母もまた風のように赤い花畑の中を翔けた。
法師と退治屋の娘は、自分たちを乗せて空中を駆る妖猫の飛行速度が徐々に落ちてきたことに、同時に気づいた。
「そろそろ、雲母も限界のようですな」
「しょうがないよ。これだけ長く、芥子の香りの中にいるんだから。正直、ここまで大きな芥子畑だとは思わなかった」
「もっと上空を飛んでもらえばよかったな」
何気なく言った法師の言葉に、珊瑚ははっとなった。
「そういうことは早く言ってよ!」
そんなやり取りをしている間も雲母のスピードは見る間に落ち、やがて、ゆるゆると地に降りるとその場で丸くなり、眼を閉じて眠り込んでしまった。
「雲母!」
変化が解け、小猫の姿に戻った猫又を珊瑚が抱き上げる。
道の先へ眼を向けていた弥勒が、わずかに眼を細めて額を手で押さえ、珊瑚を振り向いた。
「雲母だけではあるまい。おまえは平気か?」
「ああ、だいぶ吸い込んだからね。すごく眠いよ。法師さまは?」
「私も少し眠い。しかし、ここで眠ると私たちは行き倒れになってしまう」
法師は右手の封印の数珠に手を掛けた。
「どれだけ効果があるかは判らんが……」
「何する気?」
「空気中の芥子の毒を風穴で吸ってみます。珊瑚、おまえは私の後ろから動かぬように」
驚いた珊瑚が止める間もなく、弥勒は風穴を開いた。
ごおうっ! と凄まじい風の音と風圧に巻き添えを食わぬよう、珊瑚は雲母を抱きしめて、弥勒の背にしがみつく。
大気はもとより、一面に咲く芥子の花々が風に煽られ、次々にその花びらを散らしていく。
視界に映る赤い花畑がその姿を緑の野に変えたとき、弥勒は己の風穴を封じた。
「う……」
辺りが静寂を取り戻し、珊瑚はそろそろと眼を開けた。
「法師さま……大丈夫……?」
そっと顔を上げて弥勒の様子を窺ってみれば、片手を額に当て、じっとうつむいている。
「法師さま? どうしたの、苦しい……?」
珊瑚は慌てて眠る雲母を地に降ろし、背に負う飛来骨を投げ出すと、法師の正面に廻って彼の両肩を掴んだ。
仮にも、芥子の香りは毒だ。
その毒を口から吸うだけでも眠りに支配されるというのに、芥子の花ごと大量に掌から体内に取り込んでしまっては、このまま眠りに落ちて死に至るのではないか。
そんな恐怖が脳裏をかすめ、珊瑚は法師の肩を乱暴に揺さぶった。
「法師さま! 眠っちゃ駄目だ。毒にやられて死んでしまう!」
「さん……ご」
法師の手から錫杖が放れて地に倒れた。
同時に弥勒の身体がぐらりと傾き、受け止める珊瑚は力の抜けた彼の重みで膝をついた。
「法師さま!」
必死に彼の身体を支えながら、珊瑚は叫ぶ。
「緑柱石の都へ行って知恵をもらったら、右手の呪いを解かなきゃならないんだろう? こんなところで眠り続けて死んでしまったらどうするのさ。そんなの、嫌だ!」
己を抱きかかえる珊瑚の胸に力なくもたれ、弥勒はかすれた声で応えた。
「……おまえが無事ならそれでいい。願わくば、おまえの心からの笑顔が見たかった。その笑顔を私に向けてほしかった。それだけが心残りだ」
「なに言ってるのさ! そんなもの、これからいくらでも見せてあげる。だから、眠らないで! 法師さま!」
涙声で呼んでも弥勒はぐったりと眼を閉じたままで、たまらなくなった珊瑚は彼を力いっぱい抱きしめた。
「法師さま、眼を開けてよ!」
が、ふと違和感を覚え、自分の胸に顔を埋める法師を見下ろした。
意識を失っているように見えるけれど、彼の両腕は珊瑚の背に巻きついている。
珊瑚が彼の頭と背を抱きしめているのと同様、珊瑚の背に廻された彼の両腕にはしっかりと力が込められていた。
「こんのッ……」
珊瑚はいきなり法師の頭を張り飛ばした。
「たっ──!」
「なにさっ! さんざん人を心配させて! この馬鹿法師! 馬鹿馬鹿馬鹿っ……」
殴り飛ばされて地面に伏した法師を、珊瑚はなおもぽかぽかと殴り続けた。
「痛いっ! 解った、解ったからもうやめなさい、珊瑚! 私が悪かった」
「本っ当に! あんたって性根が悪い」
「だからすみませんって」
本気でむくれる珊瑚とは対照的に、悪びれもせず身を起こし、弥勒は嬉しそうに謝った。
「でも、約束しましたよ。私に笑顔をくれるって」
「あれは言葉のあやっ!」
真っ赤に頬を染めて自分に背を向ける珊瑚を、弥勒はやさしい笑みを湛えて見つめた。心を失っているはずの彼女が、自分のためにあれだけ悲しみを露にしたことが嬉しかった。
2007.12.26.