Two Tails Story 3

プロポーズ

 いつもと違う部屋の中で、珊瑚は眼を覚ました。
 素肌に感じるさらさらとしたシーツ。
 クイーンサイズのベッドに身を横たえている。
(……)
 掛け布団の下は何も着ていない。
 夕べの出来事を思い、彼女は朝の光に羞恥を覚えた。
 ここは弥勒の寝室だ。
 彼女が横たわるベッドの中に彼はいなかった。
(服……あたしの服は)
 どうやって脱がされたのか、それとも自分で脱いだのか、まるで覚えていない。
 周囲を見廻したが、彼女の衣類はなく、枕元にたたまれた彼のバスローブが置かれていた。
 これを着ろということらしい。
 少しだけ開いている寝室の扉の向こうから、卵の焼けるいい匂いが漂ってくる。そして、彼の気配が訪れた。
「珊瑚、起きていますか? 入りますよ」
「ちょっ、ちょっと待って」
 弥勒の声に慌て、珊瑚は急いでバスローブに手を通し、襟を合わせた。
「……どうぞ」
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「お、おはよう」
 背中で扉を押して寝室に入ってきた弥勒は、すでに身支度を整えており、まだベッドの中にいる珊瑚の前に、両手で運んできたベッドトレイを据えた。
「ベッドで朝食。こういうの、憧れたりしませんでしたか?」
「ふふ、憧れた。小説か映画みたい」
 くすぐったそうに珊瑚は微笑んだ。
 どんな顔を彼に向ければいいのかと思っていたが、彼がやさしくて、自然に笑みがこぼれてしまう。
 トレイの上には、プレーンオムレツを真ん中に、クロワッサンにグリーンサラダ、南瓜のポタージュなどが並んでいる。
「これ、ルームサービスじゃないよね。弥勒さまが作ったの?」
「クロワッサンだけは焼きたてのをルームサービスで頼みました。いつもは珊瑚に作ってもらっているのですから、こんなときくらいはな」
 その意味を思い、珊瑚の頬が桜色に染まる。
 弥勒は広いベッドに腰掛けた。
「珊瑚は今日、バイトは午後からでしたよね」
「うん」
「私は夕方からなので、午前中は一緒にいられるな」
「……」
 珊瑚は恥ずかしげにうつむいて、ホットミルクのカップを手に持った。
 口をつけると、仄かに甘い、幸せな味がした。
「食べたら、ゆっくりシャワーを浴びるといい。こちらのバスルームを使っていいですよ」
「嫌。そんなこと言って、覗く気だろ? 自分の寝室のバスルームを使う」
 上目遣いに睨んでくる娘を見て、弥勒は愛しげに苦笑した。
「気にしなければいいじゃないですか。だって、もう私たちは……」
「気になるに決まってるだろ!」
 真っ赤になって彼の言葉をさえぎり、珊瑚は瞳を伏せた。
「……あの、あたしの服は?」
「ああ、珊瑚の衣類なら、まとめてリビングのソファの上に。必要以上に触ってませんので、安心してください」
「……」
 じっと彼女を見守る弥勒の視線を感じて、落ち着かなくて、けれど、愛おしいような仄甘い気分になる。
 瞳を伏せたまま、いただきます、とつぶやいて、珊瑚はスープスプーンを手に取った。
「珊瑚」
 思い出したように弥勒が声をかける。
 珊瑚は顔を上げた。
「今日、武田社長に会いましょうか?」
 珊瑚は首を横に振った。
「蔵乃介さまには、あたしの気持ち、ちゃんと伝えたから。それに忙しい人だから、一泊したら朝早くここを発つって」
「そうか」
「弥勒さまによろしくって。あの、あたしのこと……」
「ああ、解っている」
 腰掛けていた場所から立ち上がって、弥勒は珊瑚のそばへと近寄った。
「そのことで、昨夜、おまえに言いそびれたことがあるんです」
「なに?」
 弥勒は長身をかがめ、彼女の肩へ手をのせ、そっと彼女の耳に唇を寄せて、ささやいた。
「……愛している」
「!」
「珊瑚は行動でそれを示してくれたが、私はまだ、はっきり伝えていなかったからな」
 不意打ちの言葉に思わず涙がこぼれた。
 ぽろぽろとこぼれる涙を、バスローブの袖で珊瑚は拭う。
 言葉が出ない。
「せっかく珊瑚のために作ったのに、冷めてしまいますよ?」
 枕元に腰を下ろした弥勒が、珊瑚を抱きしめ、目尻に軽くキスをした。
 息ができないほど、幸せな朝だった。

* * *

 日々は瞬く間に過ぎた。
 珊瑚の引っ越し資金が貯まりつつある頃、彼女は新たな仕事と住む部屋を探し始めた。
 近頃は、リビングの大きなソファに座って熱心に住宅情報誌を見つめる珊瑚の傍らで、弥勒がコーヒーカップを片手に浮かない顔をしていることが多い。
 最初から決めていたことだが、彼女がこの部屋を出ていくことに、今ひとつ彼は気乗りがしなかった。
 彼女が検討している物件は、どれも弥勒の住むホテルからかなり離れた場所にあるからだ。
「珊瑚。どうしても、この区域では駄目なんですか?」
「だって、この辺りは一等地だもの。家賃が高すぎる。市の中心部から離れなきゃ、あたし、やっていけないよ」
「部屋を決めたら、仕事もその近くで探すわけでしょう? 私の休みと珊瑚の休みが合わなければ、滅多にデートもできなくなります」
 物思わしげに、弥勒は空になったコーヒーカップをテーブルの上のソーサーに置いた。
 バルコニーに面した大きな窓が開け放たれ、気持ちのいい午後の風がリビングに流れ込んでくる。だが、二人の間の空気は重苦しい。
 珊瑚が困惑気味にちらと弥勒を見遣った。
「あたしだって、好きで遠くに行きたいわけじゃないよ。弥勒さまの華やかな女性関係の話は聞いてるし、正直、心配」
「昔の話を持ち出さないでください。私が浮気すると言えば、珊瑚はこの部屋にいてくれるんですか?」
「浮気は駄目。……でも、いつまでも居候でいたくない」
 小さな声で、彼女は頑なに言った。
 弥勒はため息をついて、眉をひそめる。
「では、家賃を半分、私が負担しますから、トゥーテイルズの近くに部屋を借りて……」
「それじゃ、今までと同じだ。あたしは弥勒さまの部屋に居候させてもらうんじゃなくて、弥勒さまと対等な立場になりたいの」
「……」
 弥勒はうつむき、考え込むような顔になった。
 これは珊瑚のプライドの問題だ。
 一番大切な人が相手でも、譲れないものがある。
 それに、今の状態では、万が一、弥勒に何かあったときや二人が別れることになった場合、珊瑚は路頭に迷ってしまう。
 彼女には確かな生活の基盤が必要だった。
 黙りこくる弥勒の様子に不安を覚えた珊瑚が、住宅情報誌を置いて、遠慮がちに彼の顔を覗き込んだ。
「ねえ、ごめん。気を悪くした?」
「いや……実は、前々から考えていたのだが」
 真摯に響くその声音に、珊瑚は彼の次の言葉を待つ。
 弥勒は並んで座る珊瑚のほうへ向き直り、ソファの上の彼女の手に己の手を重ね、おもむろに言った。
「一緒に暮らさないか、珊瑚」
 刹那、珊瑚の長い睫毛が瞬く。
「もう、暮らしてる」
「……そうでした」
 思わず脱力してため息が洩れたが、気を取り直して彼女の手を握ると、彼はじっと彼女を見つめた。
「そうではなくて、つまり、このホテルで一緒に暮らすのではなく、普通の部屋で、普通に同居しませんか?」
「……」
「トゥーテイルズの近くに一緒に住んで、家賃や生活費は収入に応じて、二人で出せばいい」
「あたし一人の力でこの区域に住むのは無理だから? あたしが弥勒さまの援助を受け入れやすいように、そうしようと思ったの?」
 珊瑚が弥勒を見つめ返す。
 どこか咎めるような眼差しだった。
 珊瑚がそんなことを望まないことは、弥勒が一番よく知っている。彼は彼女の手を握る手に力を込めた。
「おまえが私との同居を納得できる方法がひとつあります」
「なに?」
「結婚すればいい」
「え……」
 ゆっくりと、珊瑚の眼が大きく見開かれた。
「おまえの弟の手前、今すぐ入籍というわけにはいかんだろうが、結婚が前提の同居であれば、二人で助け合いながら生活するのは、ごく自然なことだと思いませんか?」
 その言葉が理解できないように、珊瑚は唖然と瞳を瞬かせた。
「どうして……」
「珊瑚と離れたくない」
「こんなにすごいホテル暮らしをやめてまで?」
「今さら、こんな部屋に一人で住むのは味気ない。それに、プロポーズするからには、浮ついたホテル暮らしではなく、人並みの生活をしていないとな」
「前に蔵乃介さまに言われたこと、気にしてるの?」
 真顔で指摘され、弥勒は珊瑚の手を放し、自嘲するように顔をうつむかせた。
「足が地についていず、現実を見ていないと言われたような気がしました。そして、その通りだと思った」
「そんなこと……」
「一人なら、それでもよかったんです。おもしろおかしく、にぎやかに毎日を過ごしていれば。だが、珊瑚と出逢い、一緒に住むようになって、いつの間にか、私は家族が欲しいと思うようになっていた」
 深い色の瞳がじっと珊瑚を見た。
「私には家族がいないので」
「え?」
 初めて聞く話だ。
「父は宣教師でした。物心つく前から、私は父と外国を旅していた。母の記憶はありません。病に倒れた父は、この街の教会に幼い私を預け、この地で天に召されました」
 穏やかに語る声に魅せられたように、珊瑚はじっと彼を見つめた。
「私はその下町の教会で育ち、まあ、あまり褒められた子供ではなかった。珊瑚のようなお嬢さんにはあまり聞かせたくない話ばかりです」
「ううん、聞かせて。弥勒さまのことなら、何でも知りたい」
 ひたむきな視線を受けて、弥勒はふと微笑んだ。
「少年時代はいわゆる不良というやつでした。その頃から賭け事が得意で、賭博だけで食べていけるほどでしたよ」
「へえ……」
「要領がよく、怖いもの知らずなところがあり、危険な目にも遭いました。危ない相手とポーカーをやって、撃たれてしまったこともあります」
「うそ」
 珊瑚は息を呑んだ。
「本当ですよ。掌を撃ち抜かれました」
 弥勒が差し出した右手の掌に、珊瑚は恐る恐る触れて、弾の傷痕がないことを確認した。
「あのときは本当に死ぬかと思った。表通りへ逃げる途中、私は意識を失い、偶然、車で通りかかった紳士に助けられました。出血がひどかったが、すぐ病院に担ぎ込まれ、奇跡的に後遺症もなく生命を取りとめた。その恩人が、このホテルの現会長です」
 悪戯っぽく話す弥勒の腕が珊瑚の肩を抱き寄せ、珊瑚は囚われたように弥勒に身を寄せた。
「弥勒さまの話、もっと聞かせて」
「その前に、珊瑚の返事を聞かせてください。結婚を前提に一緒に暮らすことを、おまえはどう思いますか?」
 見つめられ、珊瑚の頬にほんのりと朱がさした。
 だが、眼を逸らさずに、彼の視線を受けとめる。
「……嬉しい」
 小さくつぶやくと、弥勒の指が珊瑚の頬にかかる髪をやさしく払った。
「珊瑚の弟が長期休暇で帰ってきたときには、婚約者として、私を紹介してくれますね」
「……うん」
 髪をなぶる指が、くすぐるように頬を撫で、やがて、彼の顔が彼女の顔に覆いかぶさる。
 すぐに、唇同士が重なった。
 互いの気持ちを確かめ合うような、長い口づけを交わし、強い力で抱きしめられて、珊瑚は安堵したようにため息を洩らした。
「本当は、少し、心細かったんだ。弥勒さまのそばから離れて、知らない街で一人で生活を始めること」
「私も不安でしたよ。珊瑚があまりてきぱきしているので、私一人が置き去りにされるようで」
「離れて暮らし始めたら、すれ違って、そのうち捨てられて、あたし、一人ぼっちになったらどうしようって思った」
「あまり、強がるな」
 弥勒の腕の中で、すがるように、珊瑚は彼の肩に額を押しつける。
「それでも、弥勒さまに頼りきりなのは嫌だったんだ」
「解っています。そういう珊瑚が愛しい」
 弥勒の指が珊瑚の顔を持ち上げ、再び二人は、気が遠くなるまで、甘い口づけを交わした。
「明日からは、二人で住むための部屋を探して、結婚の準備を進めていこう」
「うん」
 恥ずかしげに、幸せそうに、珊瑚はしっかりとうなずいた。そして、己を抱く彼の身体にそっと手を廻し、愛しさを込めて抱きしめ返す。
「珊瑚、覚えていますか? 初めて出逢った日の夜、いつか特別な関係になりたいと私が言ったことを」
「覚えてるよ、もちろん」
 魔法にかけられた特別な夜だ。
「ようやく、“特別”になれたような気がする」
 弥勒の胸に顔をうずめる珊瑚は小さく微笑んだ。
「あたしには、出逢った日から、弥勒さまは“特別”だったよ」
 抱き合ったまま、二人は動かない。
 開かれた大きな窓から流れ込んでくる風は、いつしか夕方の風になっていた。

Fin.

≪ 2nd tail   4th tail ≫ 

2014.5.16.