Two Tails Story 4

Many Tails

 弥勒と珊瑚が暮らすホテルの部屋の、リビングにもダイニングにも、キッチンからいい匂いが漂っていた。
 この日、二人は弥勒の友人からティーパーティーに招かれている。
 招かれた側もそれぞれ一品ずつ持ち寄ることになっているので、朝から珊瑚がバナナケーキを焼き、その匂いが室内に充満しているのだ。
 出かける支度をする彼女を待ちながら、弥勒はスマートフォンの画面を見つめていた。
 珊瑚の弟・琥珀からのメールだ。

“姉を頼みます”

 夕べ、受け取ったメールを、弥勒は飽きずに眺めている。
 つき合っている人がいると、弟にメールで報告をした珊瑚は、弥勒と二人で写した写真を一緒に送っていた。
 それを見た琥珀が、弥勒のアドレスを姉に聞き、彼にメールしてきたのだ。
 学校の寮にいる琥珀は、離れて暮らす姉のことをずっと心配していた。
 しかし、写真を見て姉が幸せであることがひと目で解ったと、未来の義兄へのメールに、彼は姉をお願いするという素直な心情を綴っていた。
 珊瑚の弟に認めてもらったことで、弥勒は彼女と家族になる実感に浸り、幸せを噛みしめた。
「弥勒さま、そろそろ出かける?」
 支度を終えた珊瑚がバナナケーキを箱に入れ、リビングに顔を出した。
「ああ。そうだな」
 二人は一緒にホテルの部屋を出た。

 ホテルのスイートから二人が移り住む新しい部屋は、もう決まっている。
 静かな通りに面するヴィクトリア様式の屋敷を改装したフラットで、来週にもそちらへ移る予定だ。
 今日のパーティーのホストは猫を数匹飼っており、パーティーはその中の一匹が産んだ仔猫のお披露目の会だという。
 猫が好きな珊瑚のために、生まれた仔猫を一匹もらおうと弥勒は考えていた。

 友人宅に到着すると、二人を除き、すでに招かれた全員がそろっていた。
 友人たちは、それぞれが深紅の薔薇を一輪ずつ手に持っている。
 皆の集まる部屋に弥勒と珊瑚が入っていくと、彼らは一人ずつ順番に、薔薇を珊瑚に手渡していった。
 婚約おめでとう、という言葉とともに。
 驚く二人をよそに、珊瑚が受け取る薔薇はたちまち花束になった。
 シュワルツ・マドンナというその薔薇の、ビロードのような深紅の花びらは黒味を帯びている。赤と黒はルーレットの色、また、二人が初めて出逢ったときに着ていた衣裳の色でもあった。
 これは珊瑚への贈り物。
 そして、弥勒には、彼が勤めるカジノと同じ、"Two Tails"という名のワインが贈られた。
 仔猫のお披露目パーティーは、実は弥勒と珊瑚の婚約を祝うため、仲間たちが計画したサプライズパーティーであったのだ。

 ひとしきりパーティーを楽しみ、ふと賑やかな輪から離れた珊瑚は、部屋の隅の猫の寝床に近づき、頼りない鳴き声をあげる四匹の仔猫たちの姿を眺めた。
 母猫が珊瑚の動きを見つめている。
 猫の数だけ、たくさんの尻尾がある。
(Many Tails)
 珊瑚は小さく微笑んだ。
「珊瑚、何してるんですか」
 後ろからやってきた弥勒が、彼女が見つめているものを覗き込み、二人は一緒に猫たちの寝床の前にしゃがんだ。
「どの仔猫をもらうか、決まりましたか?」
「この子、どうかな。額に模様がある薄い色の。あたしに興味を持ってるみたい」
 珊瑚が手を差し伸べると、その子は顔をすり寄せてくる。
 弥勒は微笑ましげにうなずいた。
「では、その子にしましょう。それはそうと、珊瑚。仕事の話は聞きましたか?」
「うん、聞いた。場所も近いし、明日にでも詳しいことを聞きに行こうと思う」
 弥勒の友人が通っている会員制のスポーツクラブで、受け付けを募集しているとのことだ。しばらくはアルバイトだが、今後、正社員登用も可能だという。
 珊瑚にちょうどいい仕事ではないかと、その友人は話を持ってきてくれたのだ。
 フラットに移れば、ホテル暮らしのようなわけにはいかない。シフト制ではなく、定時の仕事を見つけたいと珊瑚は思っていた。
「仕事をせずに、家事に専念してくれてもいいんですよ?」
「だって、まだ結婚してないし。それに、琥珀のために、少し、貯金もしたいし」
 彼女は小さくつぶやいた。
「では、くれぐれもナンパされないように気をつけてください」
「そんなこと気にしてるの? 弥勒さまこそ、カジノで仕事中にナンパしてるって聞くけど」
 とんだ藪蛇だ。
「ナンパじゃありませんよ。ちょっと声をかけるくらい、いいじゃないですか。……って、誰から聞いたんです」
「やっぱり本当なんだ」
 睨む珊瑚に弥勒はひるむ。
「……弥勒さまのスケベ。婚約してるくせに浮気するなんて、信じられない」
「浮気などとんでもない。その場の会話を楽しんでいるだけです」
「どーだか」
 そのとき、二人を仲裁するように、甘えるような声をあげた仔猫が珊瑚の手にじゃれついた。
 弥勒と珊瑚は顔を見合わせ、苦笑する。
「可愛いね。結婚する前に、家族が増えたね」
「珊瑚」
 ん? と彼女は振り向く。
「結婚して私の子を産んでほしいと思う女性は、珊瑚だけですよ」
「子供が欲しい?」
「ああ。おまえとの子なら何人でも」
 聞き慣れた甘い科白。
 弥勒に寄り添い、珊瑚は恥ずかしそうに口許を笑ませた。

* * *

 結婚式は、弥勒が育った下町の教会で行う。
 日取りは琥珀の学校の休暇に合わせ、内輪だけの式にして、式のあとのパーティーは、カジノ・トゥーテイルズのトピアリーガーデンを借り切る予定だ。
 琥珀の休暇にはまだ間があるが、準備のひとつひとつが楽しかった。

 ホテルからフラットへ引っ越したあと、珊瑚はときどき、一人でカジノに顔を出すようになった。
 本人曰く、弥勒の浮気防止のためだという。
 たいていは仕事をする弥勒の姿を遠くから眺めているだけだが、たまに、少額を賭けてゲームを楽しむことも覚えた。
 一人でカジノを訪れる際、彼女はいつもワインレッドのカクテルドレスを身にまとっていた。
 初めてカジノにやってきたときの彼女の姿が印象的だったからと、特に似たデザインで弥勒がオーダーしたものだ。
 左手の薬指には弥勒から贈られた婚約指輪。
 あのときの赤いハイヒールも、もう危なげなく歩ける。
 まるで大輪の赤い花のようだ。
 今夜の弥勒はルーレットの担当だった。
 ディーラーの制服である黒のカマーベストと蝶ネクタイがよく似合う。こうして、少し遠くから仕事をする彼の姿を静かに見ているのが、珊瑚は好きだった。
 そのうち、珍しく客が途切れた。
 優雅にフロアを歩き、近づいてくる珊瑚の姿に目をとめて、弥勒は魅惑的に微笑んでみせた。
「お嬢さん、如何ですか?」
「チップがない。今日はもう負けちゃった」
 弥勒は声をひそめた。
「いくらすったんです? 増やしてあげましょうか」
「真面目に仕事して、弥勒さま。家計には影響ないし、大丈夫だよ。でも、今夜はこの辺にしておく」
 軽口をたたく弥勒に対し、珊瑚はあくまでも生真面目に言った。
 スポーツクラブの受け付けの仕事は無事に決まった。
 もらう予定の仔猫が二人の新居にやってくるのは、一ヶ月ほど先になる。
「賭ける数字は決まっているでしょう? おまえ自身を賭けてみては?」
 気軽に言う弥勒を見つめ、珊瑚はおもむろに、チップを置くテーブルの黒の35の位置に指を置いた。
 弥勒がホイールを回す。
「いいですね?」
「うん」
 彼がなめらかにボールを入れると、我知らず、珊瑚は手にしたクラッチバッグを強く握りしめていた。
 ボールがポケットに落ちた。
 黒の35。
 息を呑み、昂揚する気持ちで彼女は彼に満面の笑顔を向けかけたが、悪戯っぽい顔でこちらを見ている弥勒と目が合うと、はっと我に返り、軽く彼を睨んだ。
「……いかさま」
 弥勒はちょっと微笑んだだけで、否定も肯定もしなかった。
「1目賭けの配当は36倍です。おまえ自身を賭けたのだから、珊瑚の幸せを、36倍にして私が守りますよ」
「……」
「後悔はさせません」
 この街へ来たこと。彼を選んだこと。
 約束の代わりに、ほんのわずかに弥勒はふっと微笑してみせた。
 ルーレットの周りに再び人が集まってきた。
 珊瑚は人々の背後に退き、ゲームを見物する。
 客と言葉を交わす弥勒の軽快な口調が耳に心地好い。
 ふと、近づいてきた若い男に話しかけられ、バーに誘われた珊瑚は、少しわざとらしく薬指の指輪を示し、婚約者がすぐそこにいると小声で告げて、断った。
 目線をあげると、客にベットを促しながら、弥勒が珊瑚を気にしているのが雰囲気で感じ取れた。
 そろそろ帰ろう。
 ひと足先に帰って、夜食の用意をしておきたい。
 こちらを見遣った弥勒に、軽くうなずいて帰る意を伝え、彼女はそっと身を翻した。
 ロマンティックチュチュのようなスカートがふんわりと揺れる。
 彼と作るたくさんの物語は、きっと、これからも無限に増えていくだろう。

Fin.

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2014.6.5.