Two Tails Story 5

共同作業

 大通りから一筋入ると、そこは閑静な住宅街である。
 近くに大きな公園がある静かな通りに面するフラットを、弥勒は珊瑚との新生活の場に決めた。
 一口にフラットといっても、そこはヴィクトリア様式の大きな屋敷を改装した建物で、外観も内装もかなり瀟洒な代物だ。
 庭の離れに住む大家の老夫婦はガーデニングが趣味で、屋敷の裏に広がる庭園は、奥にガゼボを配置した美しいイングリッシュガーデンになっている。
 イングリッシュガーデンは、フラットの住人たちにも開放されていた。

 弥勒と珊瑚は、そんなフラットの二階の一角に住んでいる。
 二人で住むには充分過ぎるほどの広さで、重厚な木の家具が居心地よく配置された室内のファブリックは、ウィリアム・モリスで統一されていた。
 広いダイニングのテーブルの上にノートパソコンと紅茶のセットが並べられ、弥勒はそのパソコンに向かい、一人、メモを取りながら紅茶を飲んでいる。
 珊瑚は別室で電話中だ。
 珊瑚が心待ちにしている仔猫は、来週、ここにやってくる。
 穏やかな日差しが降り注ぐ午後、この日は二人ともオフだった。
 二人は朝から一緒に、結婚式のあとのパーティーの招待客のリストを作る作業をしていたのだ。

 電話を終えた珊瑚が、慌ただしくダイニングに駆け込んできた。
 顔を上げた弥勒が小さく吐息を洩らす。
「ずいぶん長電話だったな。まあ、相手が琥珀では仕方ないが」
「聞いて、弥勒さま」
 弥勒の小さな焼きもちなどどこ吹く風で、珊瑚は嬉しそうに手にしたスマートフォンをテーブルの上に置いて言った。
「琥珀がね、式の前に入籍してもいいんじゃないかって」
「えっ……」
 椅子に座る弥勒は身体ごと珊瑚を振り向いた。
「ずっと弥勒さまと暮らしてたことは琥珀には内緒だったからさ、気が引けてたんだけど。これで、堂々と一緒に住める」
「入籍したいって珊瑚が言ったんですか?」
「素敵なフラットを見つけたって言ったら、じゃあ、先に入籍すればって言ってくれたんだ」
 珊瑚は愛らしく微笑んだ。
 この無邪気さは弟を相手にしたときだけに見られる顔だ。
「ふふ、嬉しい」
「珊瑚」
 彼女のほうへ手を伸ばし、弥勒が催促すると、珊瑚は身をかがめて彼の頬に軽くキスをした。
「さあ、今日中に作業を終わらせよ?」
「もう、あらかた終わりましたよ」
 珊瑚は弥勒の隣の椅子を引き寄せて腰を下ろし、彼のパソコンを覗き込んだ。
「そうだ、珊瑚。気になっていたんだが、武田社長は、招待……しないですよね?」
 珊瑚は驚いたように弥勒を見た。
「できるわけないだろ? なんか最後はあたしが蔵乃介さまを振っちゃったみたいになったんだから」
 彼女はぎこちなく紅茶のカップに口をつけたが、もう冷めていることに気づき、カップをソーサーに戻した。
 重厚なマントルピースの上には、大家夫妻が育てた薔薇の花が飾られ、甘い芳香を放っている。
「いろいろお世話になった人だから、蔵乃介さまには、ちゃんと報告の手紙を書く」
「そもそも、彼とはつき合ってたんですか?」
「食事とか観劇とか、よくエスコートしてもらってたけど、つき合ってはいないよ? でも、周りの人たちには恋人だと思われてたみたい」
「ひどい奴だな、珊瑚は。彼のほうはつき合ってるつもりだったんじゃないですか?」
 同じ男としてやや蔵乃介に同情を覚えて弥勒が言うと、珊瑚はむっとしたように言い返した。
「弥勒さまこそ、昔の女を招待したりしないでよ? 何人いるのか知らないけど!」
「しませんよ。珊瑚が心配するようなことは何もない」
 甘く言って珊瑚の手に手を重ねる弥勒だったが、珊瑚は自分の手を引いてつんとした。
「でも、あたし、知ってるんだから。弥勒さまには、結婚寸前までいった人が二人いるんだよね」
「はい?」
 珊瑚はソーサーに戻した冷めた紅茶のカップを手に取り、一気に飲み干した。
「一人目は弥勒さまが住んでたところのホテルメイドで、その子が酔った客に絡まれていたところを助けて口説いたんだって?」
「……それか」
 やれやれと弥勒はうつむく。
「怯えていたので和ませようと、口説き文句みたいなことは言ったかもしれませんが、相手は未成年だったんですよ? 本気じゃありません」
「でも、数年後に結婚の話が出たって」
「彼女が成人してから私を訪ねてきたんです。いきなり、向こうからプロポーズされて驚きました」
「で?」
「何もない。丁重に断りました」
 憮然と彼は言い放つ。
 珊瑚は不機嫌そうに眉をひそめ、じっと弥勒の顔を窺った。
「まだあるよね。カジノで具合が悪くなったどこかの令嬢を介抱したら、一目惚れされて、その足で教会まで行ったって聞いた」
「……珊瑚、いろいろ勘違いしてます。誰からどんなふうに聞かされたんですか」
 弥勒はため息をついて、前髪をくしゃりとかき上げた。
「令嬢を介抱したのは事実ですが、教会へは連れていかれそうになっただけです」
「何でそんなことになったの?」
「令嬢の父親が悪徳金融業者に騙されて、娘を嫁によこせと脅されていたらしいんです。一目惚れされたのは本当で、金融業者と結婚させられる前に私と結婚したいと、父娘で泣き付かれまして」
「それで、どうなったの?」
「腕のいい弁護士を紹介して、結婚はなしにしてもらいました」
「……令嬢、美人だったんだってね」
 疑るように、珊瑚は彼をじーっと見つめている。
 はああ、と大きなため息をつき、今度は弥勒が珊瑚を不機嫌に眺めた。
「そんな私の過去の話より、おまえも私に隠していることがあるでしょう。職場にストーカーがいたんだって?」
「ああ、それはもう終わったの」
 あっさりと珊瑚が答え、却って弥勒は釈然としない気にさせられた。
「終わったからいいという問題ではない。なんで私に言わなかったんです」
「ストーカーってほどじゃなかったから。弥勒さまこそ、どんなふうに話を聞いたの?」
 弥勒は探るように珊瑚の顔を覗き込む。
「……どんな奴だ?」
「スポーツクラブの会員だった人。毎日来てたけど、あたしに会いに来てたなんて気づかなかった。その人が来たら、女性スタッフがみんな騒いでたな」
「どうして?」
「いい男だって」
「……」
 正直、弥勒は面白くない。
「そいつに何か言われたのか?」
「告白されたの。その人、薬科大で血液の研究をしてて、先月、ヴラド製薬に引き抜かれたんだって。そしたら、遠方の研究所に行かなくてはならないから、その前にあたしに告白したかったって」
「ヴラド製薬といえば、一流企業だな」
「結婚を前提におつき合いしてほしいって言われた」
 少し照れた様子の珊瑚に、弥勒が露骨にむっとした表情になる。
「それで、なんて答えたんだ?」
「えっ? 普通に、あたしは婚約してて、近々結婚するからって断ったよ」
「ストーカーはそれで身を引いたのか?」
「だから、ストーカーじゃないって。お幸せにって、手の甲にキスされちゃった」
「!」
 何だか無性にもやもやする。
 目の前にいる娘は、出逢った頃より、ますます綺麗になっている。
 しばらく険しい表情で珊瑚を見つめていた弥勒は、突然、ノートパソコンを閉じ、がたんと椅子を引いて立ち上がった。
「珊瑚、今すぐ出掛けられるか?」
「えっ? あたし、ノーメイク」
「珊瑚はノーメイクでも綺麗ですから、そのままでも構いませんよ」
 彼女は小首を傾げて、可憐に弥勒を見上げた。
「どこ行くの?」
「役所へ行って、婚姻届けを出そう。早く珊瑚の薬指に結婚指輪をはめなければ、安心できません」
「……!」
「そうだ。そのあと、トゥーテイルズのフレンチレストランでディナーにしよう。いいですか?」
 大きく眼を見張って弥勒の顔を見つめていた珊瑚は、はっと我に返って立ち上がり、ふわりと恥ずかしそうに微笑んだ。
「待ってて。すぐ仕度してくる!」
 薔薇の香りがやさしく漂う。
 あたふたと寝室のほうへ向かう珊瑚の後ろ姿を見送り、弥勒もまた、嬉しげな表情になる。

 過去があって今がある。
 でも、これからは二人で未来を作る。
 弥勒と珊瑚の結婚生活は、今日から始まる。

Fin.

≪ 4th tail   6th tail ≫ 

2021.3.5.