草庵の恋 −前編−
「えっ? では、法師さまはここにはいないんですか」
雲母に乗って夢心の寺まで弥勒を迎えに来た珊瑚は、彼の不在を告げられ、呆気にとられて夢心和尚を見つめた。
「それがのう……」
と、夢心は酒焼けした鼻の頭を呑気にかく。
「実は弥勒は借金のかたに取られてしもうてな」
「ええ? 和尚様、借金があったんですか?」
「そんな大層なものではないが、少しばかり、酒の代金が足りなくての」
あまり困った様子もなく、のほほんと和尚は言う。
「支払いの期日を延ばしてもらおうと思っておったら、ちょうどそこに弥勒がおってのう。何やらうってつけだとかで、お代はいいからと弥勒が連れていかれたんじゃ」
「労働でもさせる気でしょうか」
只働きさせて元を取る気なのかと珊瑚は心配げに表情を曇らせたが、
「なんでも、婿にちょうどいいとか」
「はあっ?」
珊瑚は絶句した。
その屋敷の離れに、弥勒は案内された。
「どうぞ、ここをお使いください」
茅葺き屋根の、風情のある草庵である。
夢心の酒代を取り立てに来た男からこの屋敷の主人に引き渡され、ここまで連れてこられた弥勒は、小さくため息を洩らした。
「一体いつまで、私を引きとめておくおつもりですか?」
「それは先ほどお話しした通りで」
「ひどく曖昧なお話でしたな」
弥勒には珍しく、あまり愛想がいいとはいえない口ぶりだった。
「こちらも先ほど申しました通り、夢心和尚の寺に私の迎えが来ているはずです。その者がこちらに参りましたら、私は帰らせていただきます。酒の代金なら、一両日中に私が何とかしますから」
「それは困ります。酒代はいりませんので、しばらくの間、ここに逗留していただきたい」
これ以上押し問答を繰り返しても無駄とばかり、屋敷の主人はそこに弥勒を残して、そそくさと母屋へと引き返していった。
(やれやれ)
今ごろ、珊瑚が困惑しているだろう。
現代へ戻っているかごめはテスト中ということだから、日数的には少しくらい楓の村へ戻るのが遅れても大丈夫だろうが、この状況を珊瑚が知ったら、さぞ不快だろうと、それが気がかりだった。
屋敷には美しい姉妹がいた。
好奇心旺盛な妹娘は十三歳、弥勒のいる草庵をちょくちょく覗きに来ている。
弥勒は自分から姉妹に係わろうとはせず、二日ばかり、静かな草庵で書物を読んで過ごした。
彼はただ珊瑚を待っていた。
主人は忙しい身、使用人も足りないと聞いているので、最低限のことは自分でやった。
「弥勒法師さま」
その日、草庵を訪れた屋敷の使用人頭を見て、弥勒はほっとしたように吐息をついた。
「私の迎えが参りましたか?」
「いえ、生憎まだ。ただ、当家に滞在中、何かとご不自由でしょうから、弥勒さま付きの小間使いを連れてまいりました」
「いりませんよ、小間使いなんて。自分のことは自分でします」
こんなことを承知しては本当に長逗留を余儀なくされると思い、弥勒は即座に断ろうとしたのだが、
「これ、弥勒法師さまにご挨拶を」
男の背後から出てきた娘を見て、唖然とした。
「珊瑚と申します。よろしくお願いします」
「あ……?」
「小間使いが不要でしたら、この者は別の仕事に廻しますが……」
「いえっ! いろいろ不自由していたところですので、ありがたく──」
弥勒は慌てて合掌して謝意を示し、すまして立っている珊瑚を呆れたように盗み見る。
「では、これで」
男が辞すると法師は珊瑚を連れて部屋の中に入り、ぴしゃりと障子を閉めた。
「何やってるんです、珊瑚」
驚きつつも嬉しそうな弥勒に対し、珊瑚のほうはにこりともせず、かしこまった様子でそこにいる。
「人手が足りないとかで、臨時でもいいから使用人を探していると耳にしたから」
「堂々と迎えに来ればいいものを。この屋敷に潜入したところで、私のところに来られるとは限らんだろう」
「そうだね。でも、噂は耳に入るはずだよ」
「噂?」
「この屋敷へ婿に入った法師さまの噂」
冷淡な珊瑚の声に、わずかに弥勒はたじろいだ。
「おまえ、夢心さまからそれを聞いたのか?」
「寺へ法師さまを迎えに行って話を聞いたから、ここにいるんだ」
はあ、と弥勒はため息を洩らした。
「雲母は?」
「飛来骨を持って先に帰ってもらった」
つんとして答える珊瑚を見て、仕方ねえなと胸のうちで再びため息をこぼす。
「機嫌を直しなさい。せっかくの二人きりなのだし……そうだ」
ちらりと珊瑚が法師を見遣ると、何かを思いついたように、弥勒は彼女を見て含みのある笑顔を作った。
「旦那様、とか呼んでみてくれませんか?」
「なに考えてんのさ」
「雇い主という意味ではなくて、ほら、別の意味があるでしょう?」
──夫。
珊瑚の拗ねた態度など物ともせず、弥勒は楽しそうだ。
「馬鹿っ。あたしはあんたの監視に来たんだよ」
頬を染めた珊瑚はきまり悪げに弥勒を睨み、眼を伏せた。
そもそも何故、弥勒がこの家に婿として呼ばれたのか、翌朝、離れに朝餉の膳を運んできた珊瑚は、弥勒が食事を終えるのを待ちながら事情を聞いた。
「祟られている?」
「ええ、そういう話です。屋敷の姉妹の姉君のほうですが。……珊瑚、口を開けて」
「馬鹿、あたしは使用人」
箸で漬物を珊瑚の口に入れようとした法師から、赫くなって珊瑚は顔を逸らした。
卯月という十八歳の娘がいる。
その卯月に縁談がまとまると、相手の男が次々に不慮の死を遂げるというのだ。
病死であったり、事故死であったり、死因はまちまちだが、いずれも婚約してひと月以内に、もう四人も彼女の許婚が死亡している。
そして、最近、五度目の縁談が持ち上がったのだが、この事実を知った相手方が縁談を渋り始めた。
「え? 婿に選ばれたのは法師さまじゃないの?」
「穢れなどを人形に移して祓う方法があるでしょう? それと同じで、つまり、災いの矛先を私に向けて、卯月どのを無事に嫁がせようという腹です」
「じゃ、祟りが本当なら、法師さまが危ないじゃないか」
「私が選ばれたのはその点で、法師だから、反対に災いを祓ってくれるだろうと」
正式に嫁ぐ前に形だけ法師を婿に取り、災いを落としてから嫁ごうというのだ。
だが、話の内容は別にして、あまり気が乗らない様子の法師を珊瑚は少し意外に思って首を傾けた。
「法師さまらしくないね。いつもはこういうこと、人助けだからって鷹揚に構えてるのに」
「こんなことで、おまえとの仲を引き裂かれてはたまらんからな。形だけとはいえ、私は珊瑚以外のおなごの婿になる気などありません」
「……」
仄かに頬を染め、珊瑚は食べ終わった法師の膳を持ち上げて立ち上がった。
「あたし、仕事があるから」
行こうとする珊瑚を弥勒の声が慌てたように追った。
「珊瑚っ、ほら、仕事ですよ」
何事かと振り返れば、法師の指が指し示す袈裟の結び目が緩んでいる。いま、自分で緩めたのだろう。
「何やってんの、もう」
膳を床に置いて、恥ずかしげに珊瑚は弥勒の袈裟を固く結び直す。
そんな珊瑚の背にそっと腕を廻した弥勒が彼女を抱き寄せようとしたとき、
「弥勒さまー」
ひょいと縁側から顔を出したあどけない少女が、「きゃああ!」と悲鳴をあげた。
「弥勒さまが姉様以外の人に手を出してる!」
「えっ?」
振り向くと、眼をまんまるにした少女が珊瑚を見ていた。
「弥勒さま、誰? この人」
「睦月どのでしたか。私専属で新しく雇われた小間使いですよ」
珊瑚は法師から慌てて離れた。
「あたし、仕事がありますので」
両手で膳を持って離れから出ると、背後で少女が無邪気に法師にねだる声が聞こえた。
「弥勒さま、今日も手習いを見てください」
あれが姉妹の妹のほうか、と珊瑚は弥勒から聞いた話を思い出しながら考えた。
(可愛い子……)
なんとなく面白くなくて、仏頂面になってしまう。
膳を下げて、台所で片付けていると、女中や下男たちの噂話が嫌でも耳に入ってくる。
「今度の卯月さまのお相手は法師さまらしいのう」
「清げなお方で、おやさしそうだし、卯月さまともお似合いだね」
「何事もなくうまくいくじゃろうか」
使用人たちは法師が祟りを祓うための形だけの婿とは知らないようで、珊瑚は漠然とした実体のない不安に捕らわれた。
弥勒が憤慨していたのはこういうことなのだろうか。
自分と弥勒との仲は淡い幻想に過ぎず、卯月という娘と弥勒の仲こそが、公然の事実のように思えて仕方がなかった。
人懐っこい次女の睦月は、その後も手習いを口実に、たびたび法師のいる草庵へ顔を出していた。
「……可愛い子だね」
「ええ、素直ですし。あと数年したら美しい娘になりそうですが、睦月はまだ子供です。心配せずとも、私の恋愛対象にはなりませんよ」
「姉君のほうは? 十八だっけ?」
「美しい方だと聞きますが、まだ会っていません」
「え、ここへ来てもう何日にもなるのに?」
草庵の掃除を終えた珊瑚は母屋の仕事へ移ろうとしたが、弥勒は無理やり仕事を作って珊瑚を引きとめる。
「夜具を片付けてほしいのですが」
「とっくに片付けた」
「活けてある花の水を」
「さっきかえたよ。もうすぐ睦月さんが来る頃じゃない? 用もないのに、あたしがいたら変に思われるよ」
「では、糸と針とこれを持ってそこに座っていてください」
弥勒は袈裟の裾を差し出す。
珊瑚からすれば、弥勒が相手にしていないと解っていても、彼が可愛い娘と一緒に過ごしているところなど見たくはないのに。
小さく吐息を洩らして、針箱を取り出し、珊瑚は弥勒の袈裟の裾を繕っているふうを装った。
そうして、弥勒と珊瑚が他愛ない言葉を交わしていると、不意に一人の娘が草庵を訪れた。
睦月ではない。
よく似ているが、しっとりと落ち着いた雰囲気の、卯の花のような娘であった。
「弥勒……法師、さま?」
「はい。卯月どのですか?」
室内に入ってきた卯月は法師の前に座り、しとやかに手をついた。
袈裟から手を離した珊瑚は、胸がざわつくのを覚え、そっと視線をわきへと逸らす。
「ご挨拶が遅れました。祟りのことを知ってなお、この役を引き受けてくださったことにお礼を……」
目の前の美しい青年法師が静かに笑むのを見て、卯月は微かに頬を染めた。
形だけではあるが、この青年が自分の許婚なのだと意識すると、鼓動まで速くなるのが解る。夢見がちな若い娘を惹きつける雰囲気と容姿を弥勒は持っていた。
珊瑚は美しい女人の弥勒を見る眼差しを敏感に感じ取り、雲が立ち込めるような不安に駆られた。
と、弥勒がはっとした。
「失礼」
対座した卯月のほうへ、無遠慮に身を乗り出す。
「法師さま!」
驚いた珊瑚が制しようと動きかけたが、卯月はそれ以上に驚いた様子で、大きく眼を見張り、どぎまぎと弥勒を見つめていた。
「あ、あの」
「じっとして」
距離をつめ、卯月の顎に手をかけて、弥勒は娘の顔を凝視した。
怖いほど真剣に見つめられ、卯月の頬がたちまち紅に染まる。
「弥、勒さま……」
戸惑ったように硬い声を出す卯月を、しばらくじっと見つめていた弥勒は、出し抜けにふっと破顔した。
「よい相をお持ちです。今度の縁談はきっとうまくいきますよ」
穏やかに言い、彼女から身を引いて、彼は懐から取り出した数珠を娘の手に持たせた。
「お守りです。肌身離さずお持ちください。それから、お父上に話があると伝えてください。至急です」
「は、はい」
手渡された数珠を手首に通し、恥じらうように卯月はうつむいた。
そんな二人を、わずかに眉を寄せた珊瑚が、もどかしげに心配げに見つめている。
2011.7.7.