草庵の恋 −後編−

 屋敷の母屋で弥勒と相対した主人は、彼の言葉を聞いて蒼白になった。
「卯月が妖に魅入られている?」
「はい。見る者が見れば判ります」
 出された茶をひとくち含み、法師は茶碗を下に置いた。
「卯月どのはお身体の調子もあまりよくないのではありませんか?」
「はい。それもあって、ふさぎ込んでいたのですが、お守りに数珠をいただいたそうで、いくらか元気を取り戻した様子です」
 弥勒は軽くうなずいた。
「妖の正体までは判りませんが、生き霊に似た執着を感じます。許婚となった方々を取り殺していることから見て、おそらく、妖は卯月どのに懸想しているのでしょう」
「そ、それではどうすれば……」
 主人の顔が苦しげにゆがんだ。
「私にお任せください。そのために来たのですから」
「なにとぞ、なにとぞよろしく……」
 主人はひれ伏さんばかりに頭を下げた。
「お礼はいかようにも。夢心和尚様へお届けする酒は、これから先、お代はいりません」
「夢心さまは笊ですからな。早まられないほうがいいと思いますよ」
 弥勒は苦笑し、何気ないふうに話題を変えた。
「ところで、私の世話をしてくれているあの娘ですが……」
「何か失礼がありましたか」
「いえ。とてもよく気の利く娘で、助かっています。臨時に雇われたと聞きましたが」
「はい、確か旅の途中で路銀が足りなくなったとかで、十日の約束で来てもらっています。よく働くので暇を出すのが惜しいほどですよ」
 祟りの噂のため、屋敷では怖がって辞めていく使用人が多いのだ。
 弥勒は心の中で日数を数えた。
「始めのお話では、何が起こるか判らないが、とりあえずひと月は滞在してほしいということでしたな」
「はい、ですが……」
 珊瑚がここを去るのは三日後だ。
「あと三日。それまでに、祟りを祓うため最善を尽くしましょう」
「あ、ありがとうございます!」
 と、そこに、庭から珊瑚がやってきた。
「失礼します。法師さまのお探しのものを買い求めてきました」
「ああ、ありがとう。いま行きます、珊瑚」
 怪訝そうに法師を見遣る屋敷の主人へ、弥勒は鷹揚に視線を戻した。
「珊瑚には、私の使いで買い物に行ってもらったのですよ」
「買い物?」
 弥勒はにっこりと笑みを浮かべてうなずいた。

 母屋から離れの草庵に戻った弥勒は、珊瑚が買い求めてきたそれを受け取った。
「これでいいかな、法師さま」
 数珠である。
 卯月に与えたのは片手数珠だったが、いま弥勒が持っているのは本連数珠で、これに念を込めて妖を封じる道具にしようというのだ。
「これでいい。しかし、今回はおまえの素性を明らかにしないほうがいいな。妖怪退治は私一人でやろう」
「でも」
 もどかしげな珊瑚の眼を見て、弥勒は安心させるように表情を和らげた。
「何もしなくとも、おまえが背後にいるだけで、私の心のありようはだいぶ違ってくるんですよ」
 彼女が一緒に闘いたいと望んでいることは、弥勒が一番よく知っている。
 だが、それよりも、弥勒には珊瑚の立場を守ることのほうが大事だった。
「珊瑚、これだけは言っておく」
 数珠を文机に置いた弥勒は、傍らに座る珊瑚のほうへ向き直った。
「仕事上のよき相棒となりうる者は他にもいる。よき妻になるだろうおなごも他にもいる。けれど、その二つを兼ね備えた、私にとっての理想の伴侶はおまえだけです」
 こんなに欲した女はいない。
 そんな想いをこめて、彼は彼女をじっと見つめた。
「私はおまえを信じている。だから、おまえも私を信じてほしい」
「……どうして、そんなこと言うの?」
「珊瑚はときどき、このことを忘れてしまうからな」
 硬い表情で問う珊瑚に悪戯っぽく微笑み、左手を伸ばして彼女の頬を愛しむようにゆっくり撫でると、珊瑚が両手で弥勒のその手をそっと掴んだ。
「飛来骨はないけど、仕込み刀は付けてる。法師さまに何かあったら、すぐに加勢する」
 眼を閉じて、珊瑚は愛しい人の手に、自らの頬を切なげにすり寄せた。

 一日を数珠に念を込める作業に当て、二日後に、弥勒は妖怪退治に取りかかった。
 妖は屋敷の中にいる可能性が高い。
 敷地内の妖気を探り、母屋の──卯月の部屋の床下が怪しいと見当をつけた。
 屋敷の主人や卯月と睦月の姉妹、使用人たちが見守る中、法師は錫杖を珊瑚に渡した。
「これを持って、控えていてくれ」
 あえて屋敷の者たちの前で、大切な錫杖を預けられたことに、珊瑚は胸が熱くなる。
 卯月の部屋の床に破魔札を貼って待ち受けること四半刻。
 床下から妖気が外へと移動してくるのが珊瑚にも解った。
 法師は破魔の札を数枚、構えている。
「あっ」
 卯月が手首にはめていた数珠が、妖気の動きに反応して飛び散った。と同時に、床下から飛び出したものに鋭く弥勒が破魔札を投げた。
 しゃあっ──
 法力にからめとられた妖が苦しげな鳴き声を上げる。
 妖は、小犬ほどもある大きな化け鼠であった。
「きゃあ!」
 卯月が悲鳴を上げて、父親にすがりついた。
 弥勒は威嚇する巨大な鼠の攻撃を素早く破魔札で封じ、さらに、もう片方の手に持っていた念を込めた数珠を投じて標的の身に巻き付かせ、その動きを封じた。
 化け鼠を捕縛した数珠は、法師が片手で印を結んでなおも念を送ると、火花を散らすようにして妖の躯をぎりぎりと締めつけた。
「珊瑚、錫杖を!」
「はい」
 躯に数珠を巻きつけられた化け鼠が苦悶する。
 珊瑚から受け取った錫杖を振り下ろしてとどめを刺すと、断末魔の叫びを上げた鼠は、やがてぴくりともしなくなった。
 周囲からどよめきが上がった。
「弥勒さまー!」
 瞳をきらきらさせて、駆け寄った睦月が法師に抱きつく。
「すごい! これでもう、姉様の祟りは消えたの?」
「ええ。大丈夫だと思いますよ」
「わたしも弥勒さまに来てほしいです」
「もし、睦月どのが妖に魅入られたら、そのときも私がお助けしますよ」
 睦月は首を横に振った。
「婿に来てほしいの。弥勒さまに」
 大真面目に言う睦月に、周囲からくすくすと微笑ましげな笑い声が起こる。
 屋敷の主人と卯月も弥勒に近寄って礼を述べた。
「ありがとうございます。これで、もう卯月の縁談の相手に不幸が起こることはないのですな」
「はい。卯月どのの顔相からも妖の気配が消えました」
 己の顔を見つめる法師の視線をさけるように、卯月は恥ずかしそうに眼を伏せた。
 妖怪退治が終わったため、使用人たちは感嘆の声を上げながら、各々の持ち場に戻ろうとしている。自分も立ち去るべきか、事の成り行きを見守ったほうがよいか、珊瑚は決めかねて、まだそこにいた。
「今宵は宴の用意をしております。弥勒さま、ご存分に楽しんでくださいませ」
「ありがたい仰せですが」
 と、弥勒は主人の申し出を丁寧に断った。
「明日の朝、ここを発ちます。特別なもてなしの必要はありません。祝いは祝言まで取っておかれるとよいでしょう」
 そして、珊瑚にだけ解るように、弥勒は彼女に目配せをして微かに笑った。

* * *

 翌朝、離れの草庵でゆっくりと朝餉をとる弥勒の傍らには、もう珊瑚はいなかった。
 彼は自分で膳を母屋の台所まで運び、十日余り、寝泊まりをした草庵をきれいに掃き清める。
 そこへ、屋敷の主人と卯月・睦月姉妹が訪れた。
「とうとう、お帰りの日ですな」
「ええ。居心地のいい離れをありがとうございました。これで、暇を告げます」
「これをお持ちください。私どもの気持ちです」
 主人は恭しく銭袋を差し出した。
「では、遠慮なく……」
 合掌して、受け取った銭袋を懐に入れて、弥勒は優雅に微笑む。が、腹の中では、これで何日分の路銀が助かった、などと計算している。
「実はもうひとつ、弥勒さまにお願いがあるのです」
「何でしょう」
「これも何かのご縁。ぜひ、うちへ婿に来ていただきたいと……」
 昨日も少女から同じことを言われたな、と弥勒は困ったように苦笑した。
「睦月どのが言われたあれは冗談でしょう?」
「……冗談ではありません、弥勒さま」
 すかさず末席の睦月が小声で弥勒の言葉を訂正した。子供扱いが気に入らないらしい。
「いえ、睦月ではなく卯月の婿にどうかと。ぜひ」
「は?」
 同席している卯月のほうへ視線を向けると、娘は頬に朱を昇らせて、高揚したように笑みを浮かべている。
「ちょっと待ってください。卯月どのには他に縁談が持ち上がっているのでは?」
「そうなのですが、卯月がどうしてもと」
 父親の視線を受け、勇気を振り絞って卯月は口を開いた。
「どうせ、壊れかけていた縁談です。許婚といっても、まだ会ったこともない相手、それより、わたしは弥勒さまをお慕い申しています」
「はあ……」
 気のない返事をしてしまい、弥勒は慌てて威儀を正して咳払いをした。
「私は旅を続けている身、こちらの家業を継ぐことは到底無理です。ご縁というならば、今回の縁談を大切になさったほうがよろしいでしょう」
「旅から帰ってこられるまで、待ち続けます」
 卯月は頑なに言った。
「家業は睦月の婿に継がせてもいい。これでお別れなんて嫌です」
 弥勒はため息をついて、必死の面持ちの娘を見た。
 卯の花のような、可憐な娘。しかし、己には何にも代えがたい大切な娘がいる。
「卯月どの」
 弥勒は率直に言った。
「こちらでは申しておりませんでしたが、実は、私には許婚がいるのです」
 一同は驚いて眼を見張った。
「許婚?」
 弥勒は彼らの眼を順に見て、ゆっくりとうなずく。
「とても美しく、強く、けれど、ときには私がついていないと折れてしまいそうになる。その娘を心から愛しく思っています。ですから、卯月どののお気持ちはありがたいのですが、その話はお受けできません」
「……」
 卯月は淋しげにきゅっと唇を噛み、涙を耐えるような表情を見せた。片や、大きく眼を見張る睦月は興味深げだ。
 法師は姉妹にやさしく微笑みかける。
「お二人にはお二人の、きっとよいご縁がありますよ」


 父娘の見送りを受けて屋敷を辞去した弥勒は、町の外れで彼を待っていた珊瑚と落ち合った。
「お待たせしました」
 大きな樹に寄りかかっていた珊瑚は、彼の声を耳にして、ほっとしたように振り向いた。
「旦那様は何かおっしゃってた?」
 その言葉に弥勒はわずかに眼を細めて軽く彼女を睨む。
「私のことは旦那様と呼んでくれなかったくせに」
「意味が違うだろう?」
 二人は楓の村に向かって歩き出した。
「使用人たちの間で変な噂があったんだ。法師さまは本物の婿じゃないらしい、でも、お嬢様が法師さまを気に入って、旦那様は法師さまを本気で婿にする気だって」
「それが本当なら、おまえはどうするつもりだったんです?」
 珊瑚は瞳を伏せてうつむいた。
「どうすることもできないよ。あたしなんかとは違って、卯月さんは綺麗でしとやかで、睦月さんは天真爛漫で……二人とも、とても……」
 どちらも自分にはない美点と感じて落ち込んでいる様子の珊瑚には、嫉妬よりも劣等感のほうがまさっているらしい。
 それに、人助けのためと解ってはいても、美しい人のために一生懸命になる弥勒を横で見ているのは、正直つらかった。
「珊瑚」
「……なに?」
「私はおまえの何ですか?」
 珊瑚は瞳を上げて、法師を見た。
「私は何も完璧なおなごを求めているわけではありません。完璧な人間なんているわけがない。珊瑚という人間がいて、そのままのおまえに惹かれたのですから」
「……」
 珊瑚は頬を染めてうつむく。
「私はおまえの何だ?」
「……許婚」
「よろしい」
 揺れた錫杖の六輪が鳴る。
「婿入りの話はきっぱりと断りました。私にはおまえがいるのに、そんな話を受けるはずがないでしょう?」
 ちらと法師を見遣った珊瑚は、少し恥ずかしげに、安心したように微笑んだ。
 弥勒はそんな彼女の様子をたまらなく愛しく思う。
(おなごに対して、こんな気持ちになったのは初めてだ)
 これほど彼女のことを想っていると、どうしたら伝えられるだろう。
 どこか苦しいような、けれど、その苦しさは甘さを孕んでいて心地好い。
 飛来骨を背負っていない珊瑚との道程は、すれ違う人たちからはただの夫婦者に見えないだろうか。そんなことを考えて、弥勒は密かな期待を胸に、隣を歩く娘を盗み見た。
 不意に振り返った珊瑚が、彼の気持ちを読んだように、花のようににっこりと笑った。

≪ 前編 〔了〕

2011.7.14.

アンケートで答えていただいた内容をもとにしております。
「不安になったり落ち込んだりする珊瑚ちゃんを法師さまが言葉や行動で安心させてあげる、という感じの話」
「弥勒様が珊瑚ちゃんに安心と自信を持たせてあげる話」
というご要望をいただきました。ありがとうございました。