花を見つけた。もう、萎れて色あせてしまった花。
 それは、彼の緇衣の袂の中にあった。

夕月

「……」
 萎れた花を手に取り、珊瑚は昏い瞳でそれを見遣る。
 捨ててしまうべきか。
 そのままにしておくべきか。
 彼女の夫は先程、夜も更けてから帰宅し、奥の部屋で眠っている。
 彼が脱いだ緇衣の汚れを落とし、埃を払っていて、珊瑚はそれに気づいたのだ。
(花……女からの贈り物?)
 しかも色あせるまで袂に入れられていた。
(近頃ずっと法師さまが家にいないのと何か関係があるの?)
 ここのところずっと、弥勒は仕事だと言って、帰りの遅い日が続いている。
 無断で外泊してきたこともあった。
 帰ってきても、疲れたと言ってすぐ寝床に入ってしまうし、問いただそうにも何か思い悩んでいるような弥勒の様子を見ると、心が痛み、珊瑚は何も言えなくなる。
 朧げな燈台の灯のもと、珊瑚はじっとその花を見つめた。

「今日も、仕事忙しいの?」
 翌朝、朝餉を食べる弥勒の傍らで、まだ生まれて一年に満たない双子の娘たちのむつきを取りかえていた珊瑚が、何気なさを装って彼に尋ねた。
「法師さま、毎日、朝早くから出掛けて、帰ってくるのは夜中だね。どんな仕事をしているの?」
「仕事というか、人助けですな」
「どんな?」
「終わったら、詳しく話しましょう。今は時間がない。そろそろ行かなくてはなりません。ご馳走さま、珊瑚。美味しかった」
「法師さま」
 もう何日も、ゆっくり話もしていない。
 哀しげな珊瑚の顔を見て、一瞬、弥勒は眉を曇らせたが、すぐに気を取り直したように笑顔を作り、「行ってまいります」と立ち上がった。
 珊瑚は草鞋を履く弥勒の傍らで、錫杖を手にして控える。
 見送ること以外、彼女に何ができるだろう。

 家事をして、赤子の世話をして、一人で食事をする。
 そんな日々が何日続いているだろうかと、珊瑚は指を折って数えた。
 ──淋しい。
 その日も、夕餉の時刻になっても、弥勒は帰ってこなかった。

 赤子の世話をしながら、うとうとと微睡んで夜を過ごした珊瑚は、いつしか夜が明けて、朝を迎えても、弥勒の寝床が空のままであることに気づいて悄然とした。
(……また、外泊)
 絶望的な気持ちで両手で顔を覆う。
 今度こそ、彼が帰ってきたらはっきりと問いつめようと思うのだが、その結果、何かが壊れるのではという不安が大きく、珊瑚はそれが怖かった。


 夕方の空に、白い月が貼りついたように浮かんでいる。
 手が届きそうで届かない、あの人のように。

 月を眺め、ぼんやりと玄関の周りを珊瑚が掃いていると、野菜を持った犬夜叉がひょっこりやってきた。
「よう」
「どうしたの、犬夜叉?」
「ご挨拶だな。おめえら、二人とも最近顔を見せねえから、こっちから様子を見に来てやったんじゃねえか。これ、楓ばばあから」
 そう言って、彼は野菜の束を差し出した。
「ありがとう。でも、法師さまはあんたと一緒に仕事をしてるんじゃ……」
「弥勒、いねえのか?」
「うん」
「じゃあ、双子の顔でも見て帰るか」
 犬夜叉は困ったように頭を掻いた。
 いくら気が置けない友人の家でも、夫の留守に妻が一人でいるところに長居しては、口さがない人々の噂になるだろうくらいは心得ている。
 家の中に入った犬夜叉は、小さな褥に並んで眠っている双子の赤子の頬を指先でつついてみたりした。未だあやし方がよく判らない。
「ねえ、犬夜叉。法師さまのこと、何か知らない?」
「弥勒がどうかしたのか?」
 珊瑚は眼を伏せ、少し躊躇っていたが、思い切ったように口火を切った。
「帰ってこないの」
「ああ?」
「夕べ、家に帰ってこなかったの。それでなくとも毎日仕事だか人助けだかで、帰ってきても夜遅くて、まともに話もできなくて」
「……」
 思いつめた珊瑚の表情に犬夜叉も表情を改める。
「仕事なら仕方ねえんじゃねえか? おれは何も聞いてねえから、たぶん、妖怪退治じゃなくて法師の仕事だろう」
「本当に仕事ならいいんだけど」
「なんだよ」
 怪訝そうな犬夜叉を前に、珊瑚はしばらく考え込んでいたが、やがて立ち上がり、布を手にして戻ってきた。
「これを見て」
 犬夜叉が受け取った布を開けると、そこには萎れた花がはさまれていた。
「これが?」
「法師さまの袂の中に入ってたんだ」
「それが何だよ。法事かなんかの礼にもらったんじゃねえのか?」
「法師さまの性格からして、袂に入れっぱなしで忘れるなんて考えにくいよ。むしろ大切だから、肌身離さず持っていて、それで萎れちゃったんじゃないかと思うんだ」
「つまり?」
「女から……もらったんじゃないかって」
「まさか」
 犬夜叉がふっと笑った。
「だって。仕事仕事って何日も遅くまで帰ってこなくて、外泊したり、花をもらったり。法師さまが花をもらうとしたら、それは女からだろう?」
「おまえに摘んできたんじゃねえのか?」
「それなら、その日のうちにあたしに手渡すはずだ。そういうところ、まめな人だから」
「……」
 犬夜叉は考えるように視線を落とし、花を布で包んで、わきに置いた。そして、珊瑚を見た。
「大丈夫だ、珊瑚」
 力強く肯定する。
「全く帰ってこないわけじゃねえんだろ? まず弥勒をつかまえて、話をしてみねえと」
「家にいるときはずっと考え事をしてる。外で何をしてるのか、あたしにひと言の説明もないんだ」
 珊瑚がこうも落ち込んでいる姿を見るのはつらかった。
 けれど、だからこそ迂闊なことは言えない。
「おれもそれとなしに弥勒の様子に気をつけてみる。──安心しろ。祝言をあげてからのあいつは、誰が見ても驚くくらい、珊瑚以外の女には目もくれなくなったじゃねえか」
「……」
「あんまり悪いほうへ考えるな」
 そう言って立ち上がろうとした犬夜叉を、頼りなげな珊瑚の声が引き止めた。
「もう少しだけ、ここにいて」
 心細くてたまらないのだろう。
 犬夜叉が珊瑚を見返すと、不安げな瞳がすがるように彼を見上げていた。
「……法師さまが帰ってこないから、夕餉が余ってるんだ。食べていって」
 珊瑚はうつむく。
「子供たちと置き去りにされるのは嫌」
 そのまま消えてしまいそうな儚げな気配を漂わせる珊瑚を見ていられなくなって、犬夜叉はわざと明るい大きな声を出した。
「わーったよ。弥勒が帰るまでいてやるよ」
「ありがとう、犬夜叉」
 ほっと息をつき、霞むような表情で、珊瑚は小さく口許を綻ばせた。
 笑ったのは何日ぶりだろう。

* * *

 辺りが暗くなっても弥勒は帰宅せず、犬夜叉は赤子の世話をする珊瑚を物珍しそうに眺めながら、夕餉を振る舞われていた。
「美味しい?」
「まあ、たまには珊瑚の飯ってのも悪くねえよな」
「素直に美味しいって言いなよ」
 犬夜叉に背を向けて、順番に双子の娘たちに乳を飲ませている珊瑚には笑顔が戻り、母親を見上げる娘たちも嬉しそうだ。
 しかし、本当に法師が帰ってこない現実が珊瑚の不安を如実に語っているようで、犬夜叉は眉をひそめた。
 障子の外は次第に闇に覆われていくのに、家の中に主はいない。妻はひっそりと息をつめて、夫の帰りを待ちわびている。あどけない双子の声がいじらしい。
 珊瑚は幾日も、こんな不安な夜を過ごしているのだ。
 犬夜叉の膳を片付けたあと、彼女は燈台の灯りを手燭に移した。
「そろそろ子供たちを奥の部屋に移す時間なんだ。その用意をしてくるね」
「ああ」
 もう少しここにいて、弥勒の帰りを待ったほうがいいか。
 それとも、夜遅い時間帯でもあるし、今日はとりあえず帰ったほうがいいだろうか。
 犬夜叉は迷ったが、こんな心細げな珊瑚を放って、自分だけこの家をあとにすることはできなかった。
 奥の部屋に夜具を延べ終えた珊瑚が、双子の娘を一人ずつ抱いて部屋を移動させる。
 そんな彼女をぼんやり眺めていた犬夜叉は、二人目を運んでいった珊瑚がなかなか戻ってこないので、なんとなく気になって、自分も奥の部屋へ足を向けた。
 薄暗い室内を照らすのは珊瑚のそばにある手燭のみ。
 彼女は寝かせた娘たちの枕元に、虚ろに座り込んでいる。
 赤子たちのもの以外に、夜具が二組延べてあった。
「弥勒の分も用意したのか?」
「……待って、いたいから」
 低い声が震えていて、泣いているのだと解った。
 どうにかしてやりたいと思うが、一体どうすればいいのだろう。
「ねえ、犬夜叉。このまま、法師さまが帰ってこなかったらどうしよう」
 珊瑚は必死に涙をこらえ、指で濡れた頬を拭っている。
「悪いほうへ考えるな」
「法師さまに、本当に女の人がいたら、あたし、どうしよう」
「珊瑚」
 何日もずっと思いつめていた不安な気持ちが、犬夜叉という聞き手を得て、堰を切ったようにあふれ出た。
「あたし……あたし、法師さまに捨てられたら……ううん、あたしの気持ちなんかより、あたしは、まず子供たちを育てていかなくちゃならない。でも、赤子を二人もかかえて、一人で退治屋の仕事をやっていける? もし、できなかったら?」
 こらえてもこらえてもあふれ出る涙がぽろぽろとこぼれた。
 犬夜叉は珊瑚の傍らに腰を下ろし、泣きじゃくる彼女の背中を力づけるように撫でた。
「元気出せ」
 こんなとき、どうやって慰めたらいいのか判らない。
 惑乱しきって泣く珊瑚を、犬夜叉はただ見つめているしかなかった。

後編 ≫ 

2011.9.1.