一人では泣くこともできなかったのだろう。
ぽろぽろと涙をこぼす珊瑚の隣で、犬夜叉は黙って彼女の背中をさすっていた。
こんなとき、弥勒ならどうするだろうか。
髪を撫で、抱き寄せて、額に口づけるくらいはするだろう。
(できるか、そんなこと! 珊瑚は弥勒の嫁なんだぞ)
こういう雰囲気は苦手で、かといって、これほど取り乱した珊瑚を放っておくほど無慈悲でもいられない。
「おまえは一人じゃねえだろ。琥珀だっているし、おれや七宝も、いくらでも珊瑚の力になる」
「でも」
惑う珊瑚の顎を掴んでこちらを向かせ、彼女の瞳を真正面から捕らえ、犬夜叉は心からの言葉を伝えた。
「心配するな。おまえと赤ん坊二人くらい、おれがどうとでも養ってやるよ」
「犬夜叉」
珊瑚は驚く。
「そんなこと、簡単に言っちゃ駄目だ」
「駄目もくそもねえ。おれは本気だ」
犬夜叉の指が不器用に珊瑚の頬の涙を拭った。
「だから、おまえは子供たちを育てることだけ考えていろ」
彼のまっすぐな瞳をじっと見つめていた珊瑚は、やがて、ふっと微笑み、頬に触れている彼の指を捉えて下ろし、自分の手の甲で涙を拭った。
「ありがとう、犬夜叉。あんたがいてくれて心強い」
「落ち着いたか?」
「うん。法師さまと話をするときも、そばにいてくれる? 誰かいてくれたほうが、冷静になれる気がするんだ」
「ああ、いいぜ」
珊瑚は少し元気を取り戻したようだ。
薄暗い室内で至近距離で見つめ合っていることが、今さらながら照れくさくなって、二人は顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。
そのとき、突然、部屋の戸が大きな音を立てた。
「ここで何をしている!」
怒声が響く。
「ほ……法師さま──」
いつの間に帰ってきたのか、弥勒その人が、部屋の入り口に激昂した様子で立ち、怒りに震えて二人を見据えていた。
眠っていた双子がその音と声に驚き、猫のような泣き声を上げる。
珊瑚は慌てて赤子たちをなだめにかかった。
「犬夜叉、おまえが何故ここにいる。誰の許しを得てこの部屋に入っている!」
「許しって……」
「法師さま、犬夜叉はあたしが招いた。それに、犬夜叉は身内みたいなものじゃないか。許しを得るなんて言い方……」
赤子を交互に抱いて揺らす珊瑚は、理不尽に非難されたようで悲しくなる。
「ああ、いつ家へ来てもらっても構わん。勝手に上がっていい。だが、主の留守に、寝間に入ることだけは許さん」
犬夜叉と珊瑚ははっとした。
弥勒の言葉で初めて、二人はここが夫婦の寝間であることに気づいたのだ。
「あ、あたし……」
「無防備に我が子が眠る傍らで、愛する妻が他の男と、褥のそばで見つめ合っている光景を目にしたおれの気持ちが解るか?」
だが、一方的すぎる弥勒の言い分に、犬夜叉はかっとなった。
「てめえこそ、珊瑚がどんな気持ちでいたか、考えもせず……!」
「やめて、犬夜叉」
立ち上がりかけた犬夜叉を珊瑚が押しとどめ、そんな二人を弥勒は冷たく見つめた。
「犬夜叉は悪くない。法師さま、座って」
本気で怒っている弥勒を相手に、珊瑚は怖くて、困惑して、どうしたらよいのか判らなかった。だが、ここに犬夜叉がいることで、いくらか勇気づけられた。
「珊瑚。おまえはおれより犬夜叉をかばうのか?」
「犬夜叉は様子を見に来てくれただけだもの。法師さまを怒らせてしまったのは、あたしが至らなかったせいだ」
珊瑚はどうにか泣きやんだ双子を褥に寝かせ、小さな衾を掛けてやる。そちらに眼をやった弥勒は、愛娘たちに詫びるような眼差しを向けた。
瞳を伏せた弥勒が珊瑚に向き合う形で座ると、珊瑚は低い声で言葉を発した。
「法師さま。犬夜叉がここにいる理由を訊く前に、法師さまが何日も夜遅くまで家を空けていた理由をあたしに説明して。二度も外泊したわけを説明して。それが、あたしが犬夜叉を部屋に入れた理由だ」
毅然として言う妻をしばらくじっと見つめていた弥勒は、疲れたように小さく吐息を洩らした。
「仕事……いや、人助けだと言っただろう。おれの言葉が信じられなかったというわけか?」
「弥勒、おまえ、それだけの言葉で、珊瑚がどれだけ独りで不安だったか……」
「説明する時間がなかった。問題を抱えて、どうすればいいかずっと考えていたから、本当に珊瑚に説明してやるだけの余裕がなかった」
弥勒はもどかしげに額を押さえ、ゆっくりと首を振った。
「その問題から、今日、やっと解放された。珊瑚が納得するまで説明しよう」
珊瑚はふと眼を上げた。
「あの花は……」
「花?」
弥勒は問うように妻を見遣る。
「法師さまの袂の中にあった、萎れた花」
「あれは、ある娘からもらったものだ」
「!」
激しい眩暈に襲われた珊瑚が両手で顔を覆った。
彼女を支えようと、隣にいた犬夜叉が反射的に手を伸ばそうとしたが、法師が素早くそれを遮った。
「無用だ、犬夜叉。おれの妻だ」
だが、震える珊瑚を抱きとめようとした弥勒の腕を、珊瑚は振り払った。
「女がいる。そういうこと?」
「珊瑚」
弥勒は厳しい声音で妻の名を呼ぶ。
「何故、そういうことを考える」
「だって、じゃあ……」
「黙って最後まで聞いてくれ」
ひと息おいて、弥勒は静かに話し出した。
「戦を逃れ、この辺りまで流れてきた者たちがいた。彼らの中に死者が出て、私が弔いを依頼された。それが最初だ」
疲労や怪我がもとで半数ほどが生命を落としたその集団に、その娘はいた。
歳は十五。戦で村を焼かれ、二親を亡くしたという。
「その子を好きになったの?」
「ああ」
短く答えた法師に、珊瑚と犬夜叉は愕然とした。
言葉が出ない珊瑚に代わり、犬夜叉が詰問する。
「まさか、本当に浮気しようなんて思ったのかよ?」
「早合点するな。女として好きになったのではない。力になってやれたらと、ただそれだけだ。その娘は珊瑚に──」
法師は苦しげに二人から眼を逸らした。
「珊瑚に似てたんだ」
はっとして、珊瑚はわずかに眼を見張った。
「容姿や性格が似ていたわけではない。雰囲気も声もまるで違う。ただ、その娘には五歳下の弟がいて、その弟が熱病にかかって生命が危なかった」
依頼された葬儀が終わっても、弥勒はその娘と弟を放っておくことができなかった。
村を焼かれ、両親を目の前で殺されたのだと言っていた少女が、ただ一人の肉親である弟を必死に看病する姿が珊瑚に重なって見えた。
薬師を頼む金銭的余裕はない。
一緒に逃げてきた彼女の連れは自然と離散していった。
無力な少女が病気の弟と二人きりで戦乱の世に放り出されることを見かねた法師は、弟の看病を手伝い、二人を引き取ってくれる家を必死に探した。
「私には帰る家がある。けれど、あの者たちにはそれがなかった」
「……」
珊瑚はうつむいた。
あちこちの知己を訪ね、少女を弟とともに住み込みで働かせてくれる家を見つけた弥勒は、いくぶん快復した弟と娘をその家に送り届け、ようやく、先ほど自宅に帰りついたのだ。
「あの娘のほうは、私に恋心を抱いていたのだろう。そんな意味のことを言われた。花は、親切にしてくれる礼にと。だが、誤解するな、珊瑚。私には妻も子もあると、あの子にはちゃんと告げていた」
「法師さま……」
「私が外泊したのは、弟の熱がひどくなって、目が離せなかったからだ。帰宅しても、いろいろと考えることが多くて」
弥勒が視線を上げると、ひたむきな瞳がじっと彼を見つめていた。
「奈落と闘っていた頃、私はおまえに何もしてやれなかった。だから、珊瑚によく似たあの子を、今度は私が助けてやりたかったんだ」
何もしてやれなかった──?
そんなこと、決してない。
あのときも今も、法師さまの大きな愛に包まれ、支えられているのに。
ぽろぽろと珊瑚の両目から涙がこぼれた。
「法師さま……ごめんなさい……」
「私のほうこそ疑ってしまった。一瞬だけ、犬夜叉とおまえのことを」
弥勒は膝の上の拳に力を込めた。
「昔の自分を振り返れば、珊瑚を不安にさせることは、当然、予想できることだったのに」
「法師さま」
火影が揺らめいた。
犬夜叉が影のように立ち上がると、眼を伏せたまま弥勒は言った。
「犬夜叉、迷惑をかけた。気にかけてもらって感謝している。だが、礼を言うのは明日の朝まで待ってくれ。今はとても冷静になれそうにない」
「気にすんな。明日になったら、きっと笑い話になってるさ」
「もう遅いから泊まっていってくれ。ただ、居間を使ってくれるか」
「ああ。寝間に入って、こっちこそ悪かった」
「犬夜叉」
珊瑚が彼を呼びとめた。
「ありがとう」
「構わねえよ。今度また、美味いもんでも食わしてくれ」
気さくに言って、犬夜叉は静かに部屋を出た。
板戸が閉まると、弥勒は、そ、と珊瑚のほうへ手を伸ばしかけて、躊躇った。
「珊瑚」
見つめ合う視線が探るように絡んだ。
「まだ、おれを愛しているか?」
珊瑚は眼を合わせたまま、弥勒のほうへにじり寄る。
「愛しているから」
と、かすれた声でささやいた。
「愛しているから、あの花を見て嫉妬したんだ」
「珊瑚──」
朧げな手燭の灯に照らされる妻の顔をじっと見ていた弥勒は、誘われるように顔を寄せて、珊瑚の唇に唇を重ねた。
珊瑚が拒まずに身を寄せたので、彼女を抱きしめ、その腕に一層の力を込める。
「おまえや子供たちを失ったら、おれは生きてはいけない」
「それはあたしだって」
「愛している。言葉にしなくとも、いつも愛している」
再び唇が合わさり、口づけは徐々に激しくなっていった。
均衡を失って珊瑚の身体が褥の上に押し倒されたとき、傍らで眠っていた双子が小さな声でむずかり出した。
二人ははっとして、身を起こし、いとけない娘を一人ずつ抱き上げる。
この小さな愛し子たちを、二人で守っていかなくてはならないのだ。思い惑ってはいられない。
「明日は久しぶりにゆっくりできる。一日中、珊瑚のそばにいますよ」
「本当?」
「ああ。一緒に食事をして、子供たちの面倒を見て、家事も手伝おう」
腕に力が入ったのか、弥勒の抱いている赤子が泣き出しそうな声を上げた。
「あっ、と」
慌てて弥勒は腕の中の娘を揺らす。
珊瑚の理想の彼がそこにいて、ほっとしたら、涙がひとしずく、頬をこぼれた。
「法師さま」
眠った娘を褥に寝かせ、そっと弥勒のそばへ移動した珊瑚は、彼の肩に手をかけ、彼の唇に羽のように軽い接吻をした。
「夕月」
「なんだ?」
「夕月が綺麗なの。法師さまと一緒に見たい」
弥勒はやさしく微笑んだ。
「ああ。明日」
胸がいっぱいで、珊瑚はまた涙がこぼれそうになる。
愛する人と一緒に確かめたいと思った。
あの月は別世界にあるのではなく、いつも、我が家の斜め上の空に、やさしくたたずんでいるのだということを──
≪ 前編 〔了〕
2011.9.7.
「夫婦の危機(喧嘩など)を乗り越える二人」というご要望をいただきました。ありがとうございました。