忘却の棘 −前編−
空は墨をぶちまけたように淀んだ漆黒の闇に覆われていた。
すでに日没の時刻も過ぎている。
「雲母、急いで。嵐になる」
退治屋の装束を身にまとい、変化した雲母に乗って空を翔ける珊瑚は、天候を気にしながら、法師との合流場所へと急いでいた。
時間には充分間に合うはずだったのだが、出先で予定外の妖怪退治を頼まれ、断り切れず、時間を取られてしまった。
無事妖怪を退治し、珊瑚が雲母に乗って帰途につこうとしたとき、すでに天候は怪しかったが、弥勒を心配させてはいけないと、珊瑚は雲母での飛行を強行した。
空にはどんどん黒雲が広がる。
指針となる星の見えない夜間飛行は、珊瑚を不安にさせた。
それでもなお、彼女は前進をやめなかった。
(法師さま)
降り出した雨を全身に受けて、猫又の背にしっかりと掴まり、珊瑚は法師のことを想う。
先日、弥勒に告白された。
想いが通じたばかりの彼のもとへ、一刻も早く戻りたいというのが本心だった。
雨風は次第に激しくなる。
珊瑚は上体を低く倒し、飛来骨もできるだけ低い位置で持った。
「雲母、もう少し低く飛べる?」
雲母は夜目が利く。
風の匂いで地理や方角も解る。
嵐の気配が濃い空へ飛び出してしまった今、この状況では利巧な猫又だけが頼りだった。
ふと、地上を見ると、黒い川のような流れがあった。
(川じゃない。何かの植物の群生地だ)
蔓のようなものが、広範囲に渡って黒い影のように雨風に打たれ、不気味に揺れている。
そのとき、ひときわ激しい風が二人を煽った。
上空へと吹き上げられた雲母は強風に耐えたが、珊瑚が持つ飛来骨がまともに風を受けてしまった。それを支えて体勢を整えようとした珊瑚は大きくバランスを崩す。
「あっ──」
小さな叫びは風の音にかき消された。
「……っ!」
次の瞬間、平衡を失った珊瑚は雲母の背から真っ逆さまに転落した。
雲母はすぐに身を翻し、珊瑚を追うために地上へ向かおうとしたが、凄まじい風に躯を押し戻され、横殴りの雨に視界を阻まれる。
顔を背けた一瞬の間に、彼女の姿を見失ってしまった。
弥勒は、荒れたお堂の中で雨を避けながら、夕刻までには戻るはずだった珊瑚と雲母を待っていた。
この場所で珊瑚たちと合流し、さらにこの先の村で犬夜叉たちと落ち合う予定だったが、この嵐では雲母に乗っての移動は難しいだろうと、弥勒は本日中の珊瑚の到着を諦めていた。
おそらく、彼女もどこかで嵐を避けているだろう。
そんなところへ、雨の吹きすさぶ闇の中から、ひょっこりと雲母が姿を現したので、弥勒は驚いた。
「雲母」
びしょ濡れの猫又を、彼はお堂の中へと招き入れる。
「この嵐では今夜は戻らないかもしれないと思っていました。それより、珊瑚は? 珊瑚は一緒ではないのか?」
変化したままの雲母は、今入ってきたばかりの扉のほうへ向かい、法師に背に乗るようにと目顔で伝えた。
「まさか……珊瑚に、何かあったのか?」
弥勒の声が硬くなる。
外は相変わらずの激しい嵐だ。視界はほとんど利かない。
しかし、それだけに珊瑚の身が心配で、錫杖を手に持ち、雲母に乗って、弥勒は夜の闇の中へと飛び出した。
その場所は、上空からは黒い川のように見えた。
実際、地上に近づいてみると、棘のある蔓性の植物が群生していると解る。
「なるほど。これではおまえは手出しできんな」
うっかりとその茨の群れの中に足を踏み入れれば、雲母は被毛が棘に引っ掛かり、身動きが取れなくなるだろう。そのため、一旦、法師を呼びに行ったのだ。
どちらにしても、嵐のため、濃さを増した夜の闇からは、容易に珊瑚の形跡を捜し出せるとは思えなかった。
下手をすると弥勒も雲母も体力を消耗するだけで徒労に終わってしまう。
真っ暗な水底を覗くような気持ちだ。
歯痒くはあったが、弥勒は珊瑚の捜索を夜が明けるまで待つことにした。
嵐は黎明とともに治まった。
弥勒は雲母と、再び、茨の群生地に降り立った。
朝日が昇り始めた上空から、茨の茂みの中に飛来骨が落ちているのを発見したのだ。
落ちているのは飛来骨だけで、珊瑚の姿はない。
弥勒は飛来骨を持ち上げ、辺りに足跡など、手掛かりになるものはないかと調べた。
「雲母。茨をかき分けたような跡がある。この方向へ進もう。珊瑚の匂いがつかめたら、教えてくれ」
夕べの雨風で荒れたせいで、人が通ったらしい痕跡はわずかなものだったが、飛来骨を持った弥勒は、雲母に乗ってその方向へ移動し、茨の群れを抜けた。
少し行くと小さな村があった。
弥勒が雲母から降りると、変化を解いた猫又が一直線に村外れの家へと向かったので、珊瑚の匂いを感じ取ったのかと、逸る鼓動を抑え、弥勒はその家の扉を叩いた。
「朝早くにすみません。旅の者ですが……」
扉を開けたのは年老いた女性だった。
「はい?」
「人を捜しております。身体にぴったりとした黒い衣を着た、年若い娘を見かけませんでしたか。髪は高くひとつに結い上げ、背はこれくらい。夕べの嵐で、はぐれてしまったのです」
「ああ、その娘さんなら、うちにいますよ。お連れの方ですか。それはよかった」
老女はほっとしたように、猫又を肩にのせた法師を家の中へ通した。
小さな家の中へ入ると、老女の夫らしい老人と、そして、捜していた娘が、囲炉裏を囲んで座っていた。
「珊瑚──!」
珊瑚は退治屋の装束ではなく、髪を下ろし、借り物であろう撫子色の小袖を着ていた。
疑わしそうな表情で、自分に近づく法師を見ている。
「無事だったか、珊瑚! 私も雲母も、どれほど心配したか……!」
珊瑚の傍らに膝をつき、彼女の手を握りしめて安堵する弥勒の顔を、娘は戸惑ったように見返した。
「どうした、珊瑚。どこか怪我をしているのか?」
硬い表情の娘に不安を覚え、弥勒は片手で彼女の頬を撫でた。
「珊瑚、って……あたしの名前?」
「え?」
「あんたはあたしを知ってるの?」
「……」
弥勒は絶句した。
呆然と娘を見つめ、この家の老夫婦を見遣る。
老人とその妻は困惑したように顔を見合わせた。
「今朝早く、家の前に倒れているこの人を見つけたんだが、この通り、自分の名前さえ覚えていない有様でね」
娘は、夜間、嵐の中を彷徨っていたのだろうと老夫婦は考えた。そして、家に連れ帰って介抱したのだが、目覚めた娘は何も覚えていなかった。
自分の名前も、どうして嵐の中を彷徨っていたのかも。
とにかく、濡れた衣を着替えさせなければと、老女は同じ年頃の娘がいる名主の家で小袖を借り、黒い衣から着替えさせた。その装束の意味も、娘は覚えていなかった。
「では、珊瑚は、記憶を全て……?」
「そのようだ。とりあえず、朝餉をすませて、名主さまに相談しようと思っていたのだが」
「それは……何から何までお世話になりまして」
強張った声と表情で、弥勒は言葉少なに頭を下げた。
「麦粥だが、法師さまも召し上がってください。猫の口には合うだろうかね。お知り合いが見つかっただけでも、まず、よかった」
早朝から何も食べていない弥勒と雲母は、ありがたく、朝餉をいただくことにした。
けれど、弥勒の心は激しく混乱したままだ。
(落下時に頭を強く打ったのだろうか)
不安が膨れ上がる。
落下の衝撃で記憶を失ったのだとしたら、治療してすぐ治るというものではないだろう。
否、珊瑚の身が無事であるだけでも感謝すべきかもしれない。
だが、やはり、彼女が何も覚えていないというのはつらい。寂しいし、哀しい。一気に二人の距離が遠くなった気がする。
朝餉のあと、弥勒は珊瑚と気分転換に家の外に出た。
夕べの嵐が嘘のように、晴れ渡った青空が広がっている。
老夫婦にこれ以上迷惑をかけることはできないので、弥勒は今日中に珊瑚を連れて戻ることを決めた。
雲母を交えて三人だけになると、珊瑚は、自分が何者なのか、どういう暮らしをしていたのかを、しきりに知りたがった。
数人の仲間たちと共通の目的を果たすために旅をしていると、弥勒は簡単に説明する。
「おまえは私を見て、本当に何も思い出しませんか?」
「ごめん。法師さまは、一緒に旅をしている人なんだよね?」
「私の名は弥勒です。弥勒と……できれば、そう呼んでもらえますか?」
「弥勒?」
珊瑚は彼の名前を舌に馴染ませようと口の中で繰り返した。
「弥勒……弥勒さま。あたしはそう呼んでいたの?」
弥勒は困ったように苦笑する。
「いえ。弥勒でも法師さまでも、今の珊瑚が呼びやすい呼び方でいいです」
自分の気持ちを誤魔化すように、弥勒は己の肩の雲母を抱き取り、珊瑚に差し出した。
愛らしい小猫を受け取り、珊瑚は法師にちょっと微笑んでから、雲母に頬を寄せた。
「法師さまの猫? 尾が二股ってことは、猫又だね」
「雲母は珊瑚の相棒ですよ。珊瑚と一番仲がよかった」
みい、と雲母が珊瑚に甘える。
「ふふ、可愛い」
声も仕草も確かに珊瑚なのに、そこにいる娘は、彼がともに生きようと言った珊瑚ではない。彼と過ごした時間を含め、全てを忘れているのだ。
やりきれない想いに駆られ、法師は唇を噛んだ。
「あたしには家族はいないの?」
「離れて暮らす弟が一人。両親はすでに亡くなっています」
「そう」
つらい現実は、まだ伏せておいたほうがいいだろう。
「珊瑚。その、将来を誓った相手がいることは、覚えていませんか」
「将来って……あたしにそんな人がいるの?」
法師を見上げた珊瑚の瞳が驚きに見張られる。
白い頬が、ほんのり桃の花びらのように染まった。
「仲間の誰か? 法師さまはその人をよく知っているの?」
「ええ、まあ」
ここで、それが自分だと名乗ることは、弥勒には躊躇われた。
記憶のない珊瑚の弱みにつけ込むような気がしたし、自分に対する先入観のようなものは与えたくなかった。
「どんな人?」
「今に判りますよ」
先日、ようやく想いが通じ合ったというのに、また振り出しに戻ってしまった。
弥勒は切なげに眼を伏せ、やるせない気持ちで吐息を洩らす。
「珊瑚。一度、おまえが雲母から落ちたという場所へ行ってみましょう。何も思い出さなくても、行くだけでいい」
そう言って、法師が珊瑚の手首を掴むと、彼女は小さく呻き声を上げた。
「すまん。力を入れすぎた」
「あ、違うの。手首に痣があって」
「痣?」
「新しい痣なんだ。たぶん、夕べ、嵐の中を彷徨っているときについたんだと思う」
珊瑚が左手の袖をまくって手首を見せると、赤い腕輪のように、手首に縄を巻きつけた痕のような痣があった。
さらに手首の内側には、棘で刺したような小さな傷がある。
弥勒ははっとした。
退治屋の装束は手首まで保護しているはずだ。
手甲をしていたはずの手首にこれだけの痕が残るのは尋常ではない。
(妖の仕業、か?)
雲母から落下した珊瑚が何かの妖に襲われたのだとしたら。
(もしかして、記憶もそのとき……)
幽かな道標を見つけた気がして、弥勒の胸が騒ぎ出す。
彼女の手を取り、その手首の傷を真剣な眼差しで凝視する弥勒を、珊瑚はじっと見つめていた。
2013.2.9.