忘却の棘 −後編−

 珊瑚が落ちた現場を調べたいので、しばらく荷を預かってほしいと弥勒は老夫婦に頼んだ。
「構わんよ。しかし、若い娘さんらしくない荷ばかりだね。着替えさせるときも、身体にいろいろな道具をつけていたと、ばあさんが驚いておった」
「衣を脱がせるのも一苦労でしたよ」
 老夫婦は珍しそうに、弥勒が整理する珊瑚の持ち物を眺めている。
「珊瑚のあの出で立ちは武装です。妖怪退治を生業としている娘でして」
「そうなんだ。あたしも、あたしは何者なんだろうって思ってた」
 弥勒は珊瑚に、彼女の刀を渡した。
「用心のため、これだけ持っていきましょう」
「でも、あたし、使えるかどうか……」
「刀の扱いは身体が覚えているでしょう。いきなり飛来骨を使いこなせとは言いませんから」
「飛来骨って、表に置いてある、あの大きな?」
 刀を受け取りながら問う珊瑚に、弥勒はうなずく。
「本当は、安全のために退治屋の装束に着替えてほしいところですが」
「それも着方が……」
「知っていたら着せてあげるのですが、あいにく私も……」
 苦笑する弥勒をぼんやりと見つめていた珊瑚は、はっとして頬を赤らめ、彼から眼を逸らした。
「ほ、法師さまが知っていたとしても、着せてもらうわけにはいかないよ」
 弥勒は鷹揚に珊瑚へ微笑み、老夫婦へと視線を移した。
「ご主人、ここからあちらへまっすぐ進んだ方向にある茨の群生地をご存知ですか」
「茨? もしかして、娘さんはあそこに迷い込んでいたのかね?」
 老人は驚いたように眼を見張った。
「あそこには近づかんほうがいい。いつも動物の屍が転がっておるし、不気味でいかん。村の者たちは、用があってもあの場所をさけて遠回りをするほどだ。あの辺りには妖が棲んでいるという噂もある」
「妖? ……どのような?」
「誰も見たことがないから噂にすぎんが……おお、そうだ。数年前にも、記憶を失った行き倒れの男がいたな」
 弥勒と珊瑚が眉をひそめて視線を交わすと、老妻のほうも、ああ、と手を打った。
「思い出しましたよ。確かその男は、村で保護されたけれど、数日後に異様な死に方をしたんですよ」
「異様な死に方?」
「男の足首には輪になった赤い痣があったのですが、毎夜、その痣に血を吸われると怯えて。ある朝、世話をしていた家の者が、男がひからびて死んでいるのを発見したんです」
「死因は?」
 法師が問うと、今度は老人が答えた。
「血を吸われると自分で言っていたんだから失血死だろう。村には薬師がおらんから、身元不明の仏さんとして、男はそのまま葬られたが」
「そんな様だから、村人たちは、男は茨の地で妖に襲われたのだろうと言っていましたよ」
「あの、もしかして」
 珊瑚が口を挟み、自分の左手首を示した。
「痣って、これと同じものでしょうか」
「娘さん、あんた……!」
 驚く老夫婦に、弥勒は眉を曇らせた。
「これで、珊瑚が何らかの異変に遭遇した可能性が高まりましたな」
「でも、その男の痣は足首なんだろう? あたしは手首だ」
「珊瑚の装束では足に傷を負わせることができなかったのでしょう」
 弥勒は珊瑚を促して立ち上がる。
「ありがとうございます、参考になりました。さあ、珊瑚」
「うん」
 珊瑚も膝の上にいた雲母を抱き上げ、二人して老夫婦に丁寧に頭を下げると、すぐに問題の場所へ向かうことにした。

 家の外で、変化した雲母の背に、刀を持った珊瑚は横向きに乗った。
 褶を着けていないので、裾が割れないように気をつける。
 すると、彼女の後ろに跨った弥勒が、錫杖を彼女の胴に廻して固定したので、珊瑚は慌てた。
「これ、距離、近すぎない?」
「え? いつもこうですが」
「だって、あたしにとっては初めてだし。もっと、こう、法師さまはあたしじゃなくて雲母に掴まるとか」
「また落ちたらどうするんですか」
 珊瑚は反論しようと身体ごと振り向いたが、そうすると、横向きに座っているため、法師の胸に抱きつくような体勢になってしまう。
 珊瑚は慌てて前を向いた。
 胸がざわめくのは気のせいではない。
 彼女の動揺を知ってか知らずか、雲母は静かに飛翔し始めた。

 記憶のない珊瑚にとっては、空を飛ぶのは初めての経験だったが、思いのほか飛行はなめらかで、気持ちのよいものだった。
 すぐに慣れ、興味深げに辺りの景色に見入っていると、後ろの法師が躊躇いがちに声をかけた。
「珊瑚は、意外に落ち着いていますね」
「え?」
 一瞬、何のことか判らずに、珊瑚は弥勒を振り返った。
「記憶を失くしたというのに、随分冷静に見える。怖いとか不安とか悲しいとか、そういう感情はあまりないですか?」
 弥勒には、珊瑚が彼自身ほど混乱も喪失感も感じていないように思え、彼女に当たるのは筋違いだと解っているが、自分のもどかしさに比べ、あまりに落ち着いたその態度が悔しくもあった。
 珊瑚は弥勒を見つめ、少し考えるように前を向いてうつむいた。
「記憶を失って、平気なわけじゃないよ」
 彼女は手に持つ刀をきゅっと握る。
「あの家で助けられて、眼が覚めたとき、あたしはあたしのことを覚えてなくて、あの家の人もあたしのこと知らなくて。心細くて、どうすればいいのか判らなくて、自分がとても不安定な存在のように感じた」
「……」
「すごく混乱したよ。今、法師さまが言ったように、不安で悲しくて……でも、そんなところに法師さまが雲母と迎えに来てくれたんだ」
 弥勒の眼差しが、前を向いたままの珊瑚の髪を見つめる。
「あたしのことを知っている人が、あんなに必死な顔して捜しに来てくれた。法師さまの真剣な顔を見たら、あたし、信じられないくらい嬉しくて。この人と一緒にいればいいんだって、そう直感したんだ」
 娘はちらと法師を振り返り、恥ずかしそうに小さく笑った。
「法師さまがあたしを安心させてくれたんだ。それに、法師さまはやるべきことを心得ているようだし」
「私は……できることは全てやっておきたいだけです」
「うん、法師さまを信じてる」
 うつむいて、珊瑚はそっと微笑んだ。
「ただ、こんなふうに思うのは、あたしの許婚という人に申しわけないんだけど」
 弥勒は珊瑚の腰に廻した錫杖を強く握りしめた。
 抱きしめたい。
 たとえ記憶を失っていても、この娘は愛しい珊瑚に違いない。
 彼女が恋心を失くしても、もう一度、彼女と恋ができるなら──
 目の前にある身体を腕の中に納めたい衝動を抑え、弥勒は眼を伏せた。

 茨の群生地に入った雲母は、弥勒が飛来骨を拾った辺りまで飛行し、地上近くまで降下した。
 棘のある太い蔓がはびこり、巨大化した姿では着地しづらいため、まず、錫杖を持った弥勒が浮遊したままの雲母から地面に飛び降り、そのあと、珊瑚が降りるのを手伝った。
 二人が大地に立ってから、雲母は変化を解き、珊瑚の肩に降り立った。
「茨に呑まれてしまいそうな場所だね」
 歩けないことはないが、背丈以上もある茨に支配された広い区域を全て調べるのは骨が折れそうだ。
「珊瑚、手首の痣を見せてください」
 彼女が左の袖をまくると、差し出された手首に、弥勒は引き寄せた太い蔓を当てた。
「太さは同じくらいだな。ここの蔓が巻き付いた痕かとも思ったが」
「でも、それだと棘の位置が違う」
 蔓には等間隔で棘がある。
 珊瑚の痣が茨によるものだとしたら、傷は一ヶ所だけではなく、複数ついているべきだろう。
「茨とは別の何かにつけられた痣ということだな」
 錫杖で周囲の茨を薙ぎ倒す弥勒を見て、珊瑚も手にした刀を抜いて、周りの茨を払っていった。
「へえ、結構使える。刀の重さとか動かし方とか、感覚的に覚えてるみたい」
「珊瑚はかなりの使い手でしたからな」
 記憶を失う前の珊瑚の部分が残っていることが嬉しく、弥勒は微笑し、珊瑚を振り返ったが、しげしげと刀身を眺めていた彼女はそれに触れ、小さな声を上げた。
「つっ……」
「何をやってるんですか。刀というのは当然刃物で、刃を撫でれば切れますよ」
「そうだよね。すごい切れ味。あたし、何やってんだろ」
「傷を見せてください」
 錫杖を置き、懐から手拭いを出した弥勒はそれを裂いて手当てをしようとしたが、ふと、思いついて、珊瑚を見た。
「妖は血を吸うということだったな。珊瑚の血を餌に、おびき寄せることはできないだろうか」
「おびき寄せる? あたしに痣をつけたのは妖だと法師さまは思うの?」
「そうです。珊瑚も上空から見たでしょう。あちこちに動物の死骸が落ちていた。この場所へ迷い込んできた動物を糧にしていると考えられます。人間も例外ではない。噂の通り、この辺りが塒なら、血の臭いを嗅ぎつけてくるはずだ」
 二人が空から見た動物たちの死骸は、まさにひからびたといった様相を呈しており、数年前に行き倒れて死んだという男と同様、妖に血を吸われて命を落としたとも考えられる。
「少し我慢してください」
 弥勒は手拭いを五つに裂き、四つにそれぞれ珊瑚の指から流れる血を含ませた。そして、最後の布で止血した。
「こんな方法しか思いつかんが、おまえの身は私が必ず守りますから」
 指の傷を布で縛った娘の手を握り、真摯に言う弥勒を見て、珊瑚は大きく首を横に振った。
「そんな。あたしは妖怪退治屋なんだろう? 本当なら、あたしが対策を講じなければならないはずだ。気にしないで」
 何か言いたげな彼の眼差しを受けると、途方もなく大切な忘れ物をしたような、あと少しで何を忘れたのか思い出せそうな、そんな気持ちになる。
 高鳴る鼓動を抑え、珊瑚は、彼女の血を含ませた布を四方に置く弥勒の姿をじっと見つめていた。
「少し様子を見ましょう。雲母も、珊瑚の護衛を頼みます」
「みう」
 珊瑚の肩から降りた猫又が愛くるしく答えた。
 二人で茨を払ったので、ある程度の空間の余裕ができた。
 何かが近づいてきたら、すぐ気づけるように、二人は背中合わせに立ち、周囲の気配に気を配っていた。
「法師さま。あたしは、記憶が戻ったら、法師さまを含めた仲間たちと旅をすることになるんだよね」
「そうです」
「でも、あたしはもう法師さまと一緒には行けない」
 彼女は何を言い出すのかと、法師は驚いて珊瑚を振り返った。
「珊瑚……?」
「だって、あたしの許婚という人も一緒なんだろう? ……無理だよ」
 弥勒は唖然と眼を見張り、こちらに背を向けたままの珊瑚を見つめた。
「何故、そんなことを言う?」
「仲間が何人かいるって言ってたけど、今のあたしは法師さましか知らない。記憶が戻っても、きっと法師さまは特別な人になる。だから……」
「……」
 珊瑚は背を向けてうつむいたままだったが、彼女の戸惑いは充分に伝わった。
 “特別な人”、それは彼女が己に惹かれ始めていると受け取っていいのだろうか。
「……ごめん、忘れて」
 うなだれる珊瑚を、次の瞬間、弥勒は背後から抱きしめていた。
 強い力で抱きしめられ、珊瑚は息が止まりそうなほど驚いたが、すぐに身をよじり、法師の腕から逃れようとした。
「いや! やめて、法師さま。気に障ったのなら謝る。でも、こんなの駄目だ。放して……!」
「嫌なら振りほどけばいい。記憶を失う前の珊瑚なら、いつも、このくらい簡単に振りほどいていた。私が戯れても、嫌ならつねったり、平手打ちをしたり……」
 刹那、ふっと珊瑚の抵抗がやんだ。
 我に返った弥勒が腕の力を緩めると、珊瑚は彼のほうを向いて、彼の瞳をじっと見上げた。
「もしかして……あたしが将来を誓った相手って──法師さま……なの?」
 澄んだ瞳でまっすぐに問われ、とっさに弥勒は口ごもる。
「どうして」
「だって、以前にもこういうことしてたって……ただの仲間で、おまけに許婚がいる相手に、普通こんなことしない」
 隠すことではないのだ。
 珊瑚が気づいたなら、事実を告げればいい。
 けれど、金縛りにあったように、弥勒はしばらく動けず、二人は微動だにせずに見つめ合った。
 沈黙を破ったのは雲母だった。
 雲母は小猫の姿のままでいたが、突然、鋭く鳴き、二人の足許を駆けた。
 しゃーっと何かの威嚇する声。
「妖か?」
 それは仄白い小さな蛇だった。
「珊瑚、下がっていなさい!」
 蛇に妖気を感じた弥勒は破魔札を取り出し、構える。
 雲母が巧みにその白い蛇の注意を引きつけ、隙を狙って弥勒が札を投げた。
 法力にからめとられた妖蛇は苦しみ、のたうつ。すると、法師の後ろにいた珊瑚が手首を押さえ、地面に膝をついて苦しみ出した。
「珊瑚!?」
「手首が……痣が痛む」
 駆け寄った弥勒が彼女の痣を見ると、手首の内側の棘に刺されたような傷の部分から、じわじわと血が滲み出していた。
「妖の仕業か?」
 珊瑚の痣に影響を与えていることから、この妖蛇が彼女を襲った個体であることは間違いない。
 直接血を吸っているわけではないが、この蛇の大きさ、牙の形が、珊瑚の手首の痣と傷に一致する。彼女の手首から流れた血は、今、妖蛇に摂取されているらしい。
 弥勒は珊瑚が取り落とした刀を手に取ると、鞘から抜き、刃を一閃させた。
 妖蛇の首が落とされ、と同時に、珊瑚が意識を失い、その場にくずおれた。
「くそっ」
 弥勒は妖への攻撃がいちいち珊瑚に影響を与えることに舌打ちをする。
 反射的に、吸われた血の中に記憶を構成する要素があるかもしれないと感じた弥勒は、首を落とした蛇の胴からこぼれる血を指先ですくった。
 それを口に含み、気を失って倒れている珊瑚の傍らに膝をついて、唇を合わせた。
 口移しで蛇の妖の血を飲ませてから、触れている唇の甘さとやわらかさに眩暈を覚えて、はっと唇を離す。
(今の、私と珊瑚の初めての……)
 珊瑚にとっては、口づけそのものが初めてではないだろうか。
 それをこんな無造作に交わしてしまったことに、弥勒はひどく罪悪感を感じ、狼狽した。
「ん……」
 珊瑚はすぐに意識を取り戻し、身を起こそうとしたが、激しく咳き込んでむせた。
「珊瑚、よかった。大丈夫ですか」
「ま……まずっ! な、何これ。腐った血みたい」
 目覚めた彼女の第一声に法師は憮然となる。──罪悪感は半減した。
「……私の口づけは腐った血の味ですか」
 ぼそっとつぶやいた言葉は、幸い、珊瑚には聞こえなかったようだ。
「法師さま。あたし、一体……」
 弥勒が彼女の左手首を確認すると、痣は消え、牙の傷痕だけが残っている。
「記憶は?」
 珊瑚はいつの間にか膝の上に乗っていた猫又を抱き上げ、抱きしめて頬ずりした。雲母が喉を鳴らす。
「いろいろ迷惑かけたみたいだね。……ありがとう、法師さま。記憶はある。全部思い出した」
「痛みは?」
「さっきの、痣の部分を絞られるような痛みはもうないよ」
「私が誰かも解りますね?」
 珊瑚は恥ずかしそうに頬を染めて、うなずいた。
 安堵した弥勒は一気に全身の力が抜けそうになって、雲母ごと珊瑚の身体を抱きしめた。
「……ねえ。なんで、許婚は法師さまじゃないなんて言ったの?」
「おまえの記憶が白紙なら、そこに私という枷をかけたくなかったんです」
「どさくさに紛れてあたしに名前を呼ばせようとしてなかった?」
「名前を呼んでほしかったのも、珊瑚に許婚と言っていい存在がいると伝えたのも、せめてもの自己主張ですよ」
「……あたしは本気で悩んだのに」
 弥勒は思い出したように珊瑚から身を引き、彼女の瞳を覗き込んだ。
「そういえばあれは、やはり私への告白だったのですか?」
「知らない!」
 とぼけた弥勒の物言いに、珊瑚は彼の腕から逃れて立ち上がったが、自分自身を誤魔化すことはできなかった。
 彼女は法師に、二度目の恋をしてしまったのだ。

 妖蛇の屍の後始末をした二人は、雲母に乗って、再びあの老夫婦の家へ引き返すことにした。
 借りた小袖を返し、退治屋の装束に着替え、妖についての説明もしておかなければならない。
 あの妖蛇が最初に獲物の記憶を奪うのは、捕縛の意味があるのだろうと弥勒は考えた。逃げようという思考を奪ってから、何度かに分けて血を吸っていたのではないかと。
 変化した雲母の背に、来たときと同じように珊瑚が横向きに乗ると、彼女の後ろに乗った弥勒は、彼女の腰を思いきり抱きしめた。
「ちょっと、法師さま」
「振りほどいてもいいんですよ?」
「飛行中に雲母の上で暴れるわけにはいかないだろ? また落ちたらどうするのさ」
「では、このままで。文句はあとでいくらでも聞きます。雲母、行ってください」
 雲母は赤い瞳を瞬かせて二人のやり取りを聞いていたが、すぐに空中へと滑り出した。
 珊瑚はちらちらと己の腰を抱く法師の様子を気にしている。
「……法師さま。いろいろと、本当にありがとうね」
 前を向いた珊瑚がつぶやいた、はにかんだような響きに、弥勒は微笑し、彼女の腰を一層強く抱きしめた。
「もう、礼はもらいましたよ」
「え? 何て言ったの?」
「何でもありません」
 耳元に風が強い。
 地の果てのような茨の川を越え、弥勒と珊瑚を乗せた雲母は滑らかに空を飛翔した。

≪ 前編 〔了〕

2013.2.16.

匿名さんから、「妖怪によって記憶喪失になってしまった珊瑚ちゃんを弥勒様が必死で助けるお話(告白前から告白後あたりの設定)」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。