硝子の迷路

第一章 はじまりの場所

 サロン・ド・テ「白い猫」。
 ティールームを併設している紅茶専門店、そこが珊瑚のアルバイト先だ。
 中世ヨーロッパの面影を色濃く残す、とある国のとある小さな街で、市内の大学に通う珊瑚は、週に三日、「白い猫」でアルバイトをしている。
 石畳の道に面したクラシカルな店。
 白いシャツに黒のベストとタイトスカート、クロスタイというサロン・ド・テの制服は、長い黒髪をポニーテールに結い上げた彼女によく似合っており、常連客の中には珊瑚目当ての男性客も多い。
 そんな珊瑚は、最近、頭痛の種をかかえていた。
「さーんごちゃん」
「……」
 ため息がこぼれた。
 平静を装い、小さく深呼吸をしてから振り返る。
「何でしょう、お客様」
 別の席へ運ぶティーセットを載せた銀のトレイを両手に持ち、珊瑚は顔に接客用の笑顔を貼り付ける。
 相手は見るからに軽薄そうな、にやけた男だ。
「何時に終わるの? 待ってるよ」
「……たぶん、終わりません」
「あ、じゃあ、紅茶おかわり」
「すぐにお持ちします」
 この間からしつこく彼女に付きまとうストーカーだ。
 一方的に気に入られ、最近は珊瑚の通う大学にまで姿を見せるようになった。腹立たしいことこの上ない。
 けれど、店内で騒ぎを起こすのは避けたかった。
 仕事の内容も店の雰囲気も気に入っているアルバイトを、こんなことで辞めたくはない。
 苛々と身を翻したとき、彼女の視界の隅に、誰かの顔が一瞬、映った。
 刹那、心臓がどきりと音を立てた。
 もう一度、ゆっくりとそちらを見遣ると、奥の席に座る若い男の姿が目に入った。
(……誰だっけ?)
 彼女より少し年上だろう。学生ではない。
 首筋にかかるくらいの長さの黒髪を首の後ろで結んだ、端整な容姿の青年だった。
 カジュアルな格好だったが、テーブルの上には書類が広げられ、仕事の打ち合わせ中だと思われる。
 一緒にいる女性は後ろ姿しか見えないが、なんとなく、センスのいい若い美人に思われて、わけもなく珊瑚はむかむかした。
 その女性に向けられている青年の穏やかな表情に、どこか胸苦しいような懐かしさすら覚える。
(誰……?)
 誰かに似ているような気がして、でも、誰でもないと思った。
 どうしてこんなに心惹かれるのだろう。
 その人物を気にしながら、珊瑚は仕事に戻った。

 ストーカー男が注文した紅茶のおかわりのポットを持って、さっさとテーブルに置いて、さっさと引き返そうとする。
「珊瑚ちゃん。ねえって」
 男は珊瑚の腕を掴んだ。
「本当は彼氏なんかいないんだろ? ここ一週間、君のアパルトマンを見張っていたけど、男の出入りなんてないじゃないか」
「なっ……!」
 先週、つき合いたいと言われ、彼氏がいるからと断った。
 だから付きまとうなという意味の嘘だったが、一人暮らしの部屋を監視されていたと知り、珊瑚は顔色を変えた。
「だったら、いいじゃないか。今日、バイトが引けたら部屋へ入れてよ。焦らす必要もないんだしさ」
 あつかましい物言いに、近くの席に座る常連客たちが、気遣わしげな視線をちらちらと向けてくる。
 珊瑚の中で、我慢していたものが、ぶちぶちと音を立てて切れた。
「……あ、あんたね。人の行く先々に現れて……! いい加減、あたしが迷惑してるってことを……」
 ここは仕事場であるとか、大勢の客の目があるとか、そんなことはどうでもよくなった。
 珊瑚はストーカーに渾身の一撃を喰らわせようと、掴まれていた腕を振りほどき、怒りに任せて手を振り上げる。
 と、その手首を別の誰かに掴まれた。
「!」
 驚いて振り返った珊瑚の鼓動が大きく跳ねた。
 彼だ。
 奥の席に座っていた青年が、まっすぐに珊瑚を見つめ、にっこりと魅惑的に微笑した。
「ただいま、珊瑚。早くおまえの顔が見たくて、店まで来てしまいました」
「え……?」
「しばらく、私の出張で会えませんでしたね。今日、土産を渡しにおまえのアパルトマンに寄ります」
 呆気にとられて青年を見つめる珊瑚を、青年は穏やかな眼差しで見つめ返す。珊瑚の手首を掴んだ青年の手がそっと離れた。
 ストーカー男が椅子から立ち上がり、苛立たしげに二人の間に割り込んだ。
「何だよ、おまえ。珊瑚ちゃんに馴れ馴れしく」
 青年はちらと男へ険しい視線を向ける。
「珊瑚には彼氏がいると聞きませんでしたか?」
 ここに至って、ようやく、珊瑚はストーカーとの会話を聞かれていたのだと気がついた。
 恋人の振りをして、彼は自分を助けようとしてくれているのだ。
「あ、あたしも会いたかった。来てくれて、嬉しい……」
 応じた声が、思わず小さくなり、頬を赤らめてしまった珊瑚の様子は、本当に想い人に対してはにかんでいるようだ。
「待てよ。珊瑚ちゃんは今日、僕と」
 なおも食い下がろうとするストーカーのテーブルに手をついた青年の指先が、ふと、紅茶のカップを引っかけた。
「あっ、すみません。手が滑って」
 紅茶がこぼれ、倒れたカップをもとに戻そうと身をかがめた際、青年は男の耳元に口を寄せ、低い声でささやいた。
「さっさと失せやがれ。二度とおれの女に近づくんじゃねえぞ」
 ストーカー以外には、すぐそばにいた珊瑚にしか聞き取れないほどの小さな声だったが、穏やかな外見からは想像もできない慣れた口調の脅し文句に、ストーカー男は震え上がった。
 そそくさとテーブルに勘定を置いて、男が足早に店を出ていくと、店内にはようやくほっとした空気が流れた。
 珊瑚は青年に頭を下げた。
「ありがとうございました。助かりました」
 青年は微笑ましげに珊瑚を見た。
「いくら腹が立っても、客に手を上げては、あなたの立場が悪くなるでしょう」
「あの、どうしてあたしの名前……」
「あの男がそう呼んでいましたから」
「ああ……」
 彼を知っているような気がしたのは、やはり気のせいか。
 だが、彼はふと珊瑚の顔を見つめ、もどかしげに眉をひそめた。
「失礼、前にどこかでお会いしましたか?」
 同じ既視感に珊瑚は眼を見張る。
「細身の黒い衣装、髪はポニーテール。確かにあなただと思うのですが……」
「弥勒ー!」
 奥の席で、ずっとこちらを見ていた青年の連れの女性が彼を呼んだ。
 弥勒と呼ばれた青年は、いま行きますというふうに女性へ軽くうなずいてみせ、珊瑚のベストのポケットに差してあるペンを取った。
 名刺を取り出し、そのペンを走らせる。
「これが私の連絡先です。今、書いたほうがプライベートなアドレスです。もし、さっきの男がアパルトマンへ現れたら連絡してください。私でよければ力になります」
「でも……」
「可愛い女の子が困っていると、放ってはおけない質なんですよ。では、私も仕事中ですので、これで」
 ペンと一緒に名刺を彼女のポケットに入れ、青年は奥の席へと戻っていった。
 珊瑚は急いでテーブルの上を片付けて、食器をトレイに載せて下げると、誰もいない店の奥で、彼からもらった名刺を眺めた。
(弥勒……)
 彼の名は弥勒、職業はチェリストとある。

 その日の帰り、珊瑚はCDショップに立ち寄った。
 クラシックのコーナーを探し、弥勒というチェロ奏者のCDを見つけて、手に取った。
 ジャケットに写っているのは、アンティークの椅子に立てかけられたチェロと、傍らに置かれたサイドテーブル。
 そのテーブルの上に無造作に置かれたものを見て、珊瑚ははっとした。
 珊瑚──桃色の珊瑚のブレスレットだ。
 もちろん、偶然だろう。
 でも、“珊瑚”だった。
 長い時間、そこに立って、その写真を見つめていた珊瑚は、CDを持ってレジへ向かった。

* * *

 一週間ほどが経過した。
 あれから、例のストーカーは姿を見せず、珊瑚は平和な毎日を送っていたが、弥勒からもらった名刺をずっと持ち歩いていた。
(連絡……してもいいかな)
 きちんとお礼をするために。
 だが、そんなことは建て前で、もう一度彼に逢いたいというのが本音である。
 今日はバイトのない日なのに、「白い猫」の前を通ってしまうのは、もしかしたら、彼がまた店に来ているかもしれないと思うからだ。
 そんなことを考え、珊瑚が石畳の道を歩いていると、
「珊瑚ー!」
 と親しげに呼ぶ声がする。
 周囲を見廻すと、車道を挟んだ向こう側の歩道に、他ならぬ彼がいた。
 にわかに珊瑚の心臓が騒ぎ出す。
「今日は、バイトは休みなんですか?」
 チェロケースを抱え、車道を横切り、背の高い彼は身軽にこちらへやってきた。
「『白い猫』に行ったら、珊瑚がいなかったので、ちょっとがっかりしてたんです」
 弥勒は珊瑚の目の前まで来たが、にこりともせず、じっと彼を見つめる珊瑚を見て、やや慌てたように言い直した。
「あ、いきなり馴れ馴れしかったですよね。珊瑚……ちゃん?」
 それでも彼女は無反応だ。
「さ、珊瑚さん……?」
 もしかして、ファーストネームで呼ばれたくないのだろうか。
 弥勒が冷や冷やしていると、突然、珊瑚は口を開いた。
「珊瑚でいいよ。何でだろう? むしろ“珊瑚さん”のほうが違和感を感じる」
「では、私も“弥勒”と名で呼んでもらえますか?」
「弥勒……」
 何故か、呼び捨てにしてはいけない気がした。
「弥勒さまって呼ぶ。名刺にチェリストだって書いてあったから、あんたのこと、少しネットで調べてみたんだ。ファンの女の子は“弥勒さま”って呼ぶんだよね」
 ほっとしたように弥勒は笑った。
 そして、鞄からCDを一枚取り出し、珊瑚に差し出した。
「改めて名刺代わりにどうぞ。運よくスポンサーがついたので、先月、出すことができたCDです」
 それは、彼と出逢った日に彼女が買ったCDだった。
 同じものを自分で買ったことは口には出さず、彼女はありがとうとつぶやき、恥ずかしそうに受け取った。
 ネットで調べたところ、彼は新進気鋭の音楽家だという。
「弥勒さま、ファンクラブまであるんだね。……書き込み、女の子ばかり」
 焼きもちめいた珊瑚の口調に弥勒は可笑しそうに苦笑した。
「差し入れを持ってきたんですが、時間があるなら、少し話しませんか? カフェか公園か、珊瑚はどちらがいいです?」
「差し入れって?」
 弥勒は片手に持っていたケーキの箱を掲げてみせた。
「オペラです。もしかして、嫌いですか?」
「……好き」
「でしょうな。女の子は皆、こういうものが好きですから」
 その言葉に、珊瑚は少しかちんと来た。
 大勢のファンの女の子と一緒にしないでほしい。
 そして、そんなことを思う自分自身に驚いていた。

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2013.8.4.