硝子の迷路

第二章 引っ越し

 近くのコンビニでペットボトルのコーヒーを二本買い、弥勒と珊瑚は公園へと足を向けた。
 初秋。
 気候のいい季節でもあるし、いつもサロン・ド・テでアルバイトをしている珊瑚には、カフェより屋外のほうが気持ちよかった。
 移動のため、抱えていたチェロケースを背負う弥勒を珊瑚はしげしげと眺める。
「大きな楽器が珍しいですか?」
「あ、うん。それもあるんだけど、ずっと昔、あたしもこんなふうに大きなものを背負っていたような気がして」
「大きな楽器を?」
「ううん。もっと平たい感じ」
「……サーフボードとか?」
 何気なく弥勒が言うと、意外にイメージが近く、珊瑚は驚いた顔をしたが、首を横に振った。
「でも、あたし、サーフィンしたことないんだ」
 公園は広く、敷地内には、散歩道やテニスコートや小さな森もある。
 珊瑚は弥勒を薔薇園へといざなった。
「ここ。ここが好きなんだ」
 薔薇園の中には、細長いパーゴラが東屋のようにしつらえてあり、パーゴラの下には背もたれのない細長いベンチが置かれていた。
 珊瑚はパーゴラを覆う葉を見上げた。
 この季節、花は咲いていない。
「これも薔薇ですか?」
「モッコウバラだよ。花の季節は本当に綺麗なんだ。スクランブルエッグがたくさん咲いてるみたいでさ」
「スクランブルエッグ?」
 弥勒は面白そうに笑った。
「では、花の頃、また一緒に来ましょうか。スクランブルエッグとサンドイッチを持って」
 チェロケースを下ろし、当たり前のように言う弥勒を、珊瑚は驚いて見上げた。
 花の季節は何ヶ月も先だ。
 その頃も彼と一緒にいると、期待してもいいのだろうか。

 季節外れの薔薇園は静かだった。
 ケーキの箱を真ん中に、ベンチに腰かけた二人は、箱を開け、行儀悪く手でオペラを食べながら、取りとめのない言葉を交わした。
 コーヒーと一緒に買った携帯用のウェットティッシュが大活躍だ。
「このオペラ、チョコレートがすごく美味しい」
 思わず声が洩れ、弥勒の視線を感じて、珊瑚は恥ずかしそうにチョコがついた指先を舐めた。
「……ちゃんとお礼が言いたかったんだ」
 彼女はウェットティッシュで手を拭い、ペットボトルのコーヒーを両手で持った。
「この間は本当にありがとう」
「そんな大層なことしてませんよ。その後、ストーカーは?」
「大丈夫。あれ以来、あいつの姿は見かけない」
 弥勒はコーヒーをひとくち飲む。
「珊瑚は学生ですよね? 大学は……」
「キャンパヌール大学。六角星広場の近くの」
「ああ、あそこですか。学生時代、私はよく仲間たちと六角星広場で演奏してました」
「へえ、ストリートミュージシャンみたい。あたしも聴きたかったな」
 興味深げに身を乗り出した珊瑚を見て、嬉しそうに弥勒は笑んだ。
「そのときの演奏を音楽関係者に気に入られ、CDの話に繋がったんです」
 薔薇の葉の茂みの向こうを通りかかった二人連れの女の子が、弥勒の姿を認め、「弥勒さまー」と呼び、手を振った。
 弥勒もにっこりと手を振り返す。
「……友達?」
「いいえ。応援してくれている女の子たちです。広場で演奏していた頃、顔馴染みになって、そういう子たちが、今でも声をかけてくれるんですよ。珊瑚が見つけたファンクラブも、たぶん、そういう地元の女の子たちがネット上で宣伝してくれてるんだと思います」
「そうなんだ」
「新人の演奏家なんて、認められなければ、音楽だけで食べていくことはできませんからな」
「でも、弥勒さまはCD出せたし、それは認められたってことじゃないの?」
 弥勒はふと微笑んだ。
「反響がなければ、すぐに切られてしまうでしょう。実は今、初めてのリサイタルの準備をしているところですが、成功すれば、それが演奏家としての第一歩になります」
「そう。今、とても大切な時期なんだね」
 珊瑚は手を伸ばし、二つ目のオペラを取った。
「不安定な職業ですから、副業もしているんですよ」
「副業?」
「大伯父がアパルトマンをいくつか所有していまして、その管理を。と言っても、実質的な管理は管理会社がしているわけですが」
 ふと、珊瑚のオペラを持つ手がとまる。
「弥勒さま、不動産関係、詳しいの?」
「どうして?」
「あたし、今のアパルトマンから引っ越そうかと思ってるんだ。ストーカーに突き止められてしまったし、少し手狭だし……」
 困ったように視線を落とす珊瑚の横顔をじっと見つめていた弥勒は、鞄の中から紙とペンを取り出した。
「キャンパヌール大でしたよね。『白い猫』から見て、六角星広場の向こうはどうですか? 大学へは近いですよ」
「どの辺り?」
「レラーブル街です。番地は1−84。解りますか?」
「うん、だいたい解る。でも、あの辺りは家賃が高いんじゃない?」
「そのアパルトマンは大伯父の持ち物ですから、うんと割り引いてあげますよ。一度、見に来てください」
 弥勒は取り出した紙に簡単な見取り図を書いてみせた。
「間取りはだいたいこんな感じです」
「弥勒さま、その紙、楽譜じゃないか」
「これは練習曲なので、いくらでもコピーが取れます」
 楽譜の裏に描かれた略図を見て、珊瑚は感嘆の声を上げた。
「今の部屋より、ひと部屋多い。気兼ねなく人を呼べるね」
「彼氏を?」
「……彼氏なんていないって、知ってるくせに」
 珊瑚は受け取った紙を嬉しそうに眺め、丁寧に折りたたんだ。
「こんないい場所なのに、空き部屋だったの?」
「今は私が使っています」
「……へ?」
「便利な場所ですし、大伯父は私から家賃を取りませんから。あ、でも、珊瑚が借りると決まったら、すぐに出ますよ。郊外に小さな家がありますので」
「はあ……」
「コンシェルジュは世話好きなご婦人ですから、ストーカーにも目を光らせてくれるでしょう」
 残ったオペラを箱に入れて、二人はマロニエの並木道を通り、帰路についた。
 弥勒は珊瑚を彼女のアパルトマンまで送る。
 だが、煉瓦造りのアパルトマンがすぐそこに見えてきたとき、弥勒を案内していた珊瑚は、不意に表情を強張らせ、足をとめた。
「どうしたんです?」
「あそこ。建物の陰にあいつがいる」
 ストーカーだ。
 まだ、珊瑚を諦めていなかったらしい。
「珊瑚、恋人の振りをして」
 並んで歩く距離を縮め、顔を寄せ、声をひそめて弥勒は言った。
「私が本当に珊瑚の彼氏かどうか、確かめようと見張っていたのかもしれません。引っ越しの件、早く決めたほうがいいですな」
「弥勒さま」
「さっき教えてもらったアドレスへ、詳細を連絡します。都合のいいとき、部屋を見に来てください」
「……弥勒さま、まだいる。こっちを見てる」
 不安げな珊瑚をかばうように、アパルトマンの玄関の前まで、弥勒はそっと彼女に寄り添った。
「キスの振りを」
「……っ!」
 珊瑚の顔にかぶさるように顔を寄せ、ストーカーからは死角になる角度で、弥勒は珊瑚の頬に自分の頬を合わせた。
 もちろん、唇が触れたわけではないが、珊瑚の頬は熱を帯び、心臓が早鐘を打っている。
「今日中にメールします。珊瑚も、何かあったら連絡してください」
 混乱の中、弥勒のささやきが、ひどく遠くに聞こえていた。

* * *

 転居は滞りなく済んだ。
 引っ越し当日、弥勒は仕事で手伝えないことを残念がっていたが、珊瑚の大学の友人たちが手伝ってくれた。
 家具は備え付けであるし、荷物は洋服や雑貨、書籍などの身の回りの品が中心で、車を持っている男友達が、二つのアパルトマンを何度も往復してくれた。
 到着した荷物は皆で引っ越し先の三階の部屋まで運ぶ。
 レラーブル街の古いアパルトマンはエレベーターがなかったが、雰囲気のある階段や古い様式の中庭は、どれも珊瑚の気に入った。
 コンシェルジュの初老の女性は、珊瑚が弥勒とアパルトマンの見学に訪れたときから、二人を特別な仲だと考えているらしく、にこやかに珊瑚を迎え、いろいろと詮索したそうな様子でもあった。
(そんな関係じゃないのに)
 荷物を全て部屋に運び込んでしまえば、あとは珊瑚一人で片付けられる。
 とりあえず、食器や鍋類の荷を解いて、手伝ってくれた友人たちに簡単な手料理をふるまった。
 夕刻だが、まだ日は高い。
 皆が引き上げたあと、黙々と片付けを行いながら、珊瑚は弥勒の面影を思い浮かべていた。
(弥勒さまが住んでいた部屋……)
 今日、彼を夕食に招いている。
 その人のことが好きなんでしょ、と、友人たちはしきりに珊瑚をからかう。やはり、そうなのだろうか。
(でも、弥勒さまから見れば、あたしはファンの一人でしかないんだろうな)
 チャイムが鳴った。
 心は正直で、途端にそわそわしてしまう。
 インターホンで応答し、オートロックを解除した。
 少しして、部屋へ迎え入れた弥勒は、手土産にワインとチーズの包みを抱えていた。
「一人暮らしの部屋にお邪魔しちゃって、本当にいいんですか?」
「だって、もともとは弥勒さまの部屋だもの」
「私が次のストーカーになったらどうします?」
「そんなことになったら、困るのはあたしより弥勒さまのほうだよ。演奏家としてのキャリアに傷がつく」
「まあ、そうですが」
 珊瑚はキッチンに立ち、カルボナーラを作った。
 その隣で、弥勒は持参したワインを開け、カマンベールを切る。
 狭いキッチンで、まるで本当の恋人同士のように並んで作業していることに緊張し、珊瑚は少し上擦った声で言った。
「それで、今、どこに住んでるの?」
「エリダノス区に。郊外ですから思いきり楽器を弾けます。街中のアパルトマンで大きな音を出すのは、やはり気が引けますしね」
「仕事するのに不便じゃない?」
「ええ、車が必要です。市街地にも部屋があると便利ですが、でも、今のところは、友人の家やビジネスホテルで事足りてます」
「……彼女の家とか?」
「彼女はいませんよ」
 カルボナーラを盛った皿やチーズを載せたトレイ、ワイングラスを、二人でダイニングテーブルに運ぶ。
 弥勒に彼女はいないと知り、珊瑚は心底ほっとした。
 グラスに弥勒がワインをついだ。
「珊瑚、私の家にも遊びに来ませんか? 今日の食事のお礼を兼ねて」
「あたしがお礼する立場なのに、悪いよ」
「では、そういうの関係なく、一度遊びに来てください」
 向かい合わせに椅子に座り、二人はワイングラスを軽く掲げた。
「綺麗なところです。きっと気に入りますよ」
 ワインを飲み、カルボナーラを口に運ぶ弥勒を、珊瑚は伏し目がちにそっと見つめた。
 彼は彼女の視線を捉え、とても美味しいと褒めてくれたが、珊瑚は目の前にいる彼の存在や彼との新しい約束に胸がざわつき、味などまるで解らなかった。

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2013.8.14.