硝子の迷路
第五章 弥勒の百合と黄色い薔薇
天井が高く、吹き抜けになったサル・セット・ビジューのロビーは、白が基調の洗練された空間だった。
円柱が並び、アール・ヌーヴォー様式を取り入れた階段の黒い手すりが優美で美しい。
大学に通うためにこの街へ来た珊瑚は、サル・セット・ビジューの中に入るのは初めてで、少し圧倒され、珍しげに周囲を見廻した。
開演を待つ人々が、プログラムを片手に談笑している。
こんなすごい場所で初リサイタルを行えるなんて、彼は自分が思っている以上に優れた演奏家なのではないかと、珊瑚は緊張を新たに胸を躍らせた。
ふと、階段の脇に花束を受け付ける場所が設置されていることに気がついた。
「……」
手に持った黄色い薔薇に視線を移す。
美しくラッピングしてもらった花束は自分で彼に手渡したい。
片手で持てるほどの大きさだし、座席に持ち込んでも邪魔にはならないだろうと、珊瑚は踵を返しかけたが、目の前で何人かがスタッフに花束を渡しているのを見て、やや不安になった。
担当スタッフの後ろには、決して少なくはない数の花束が集まっている。花を持参しているのは、やはり若い女性が多いようだ。
(弥勒さまの大学時代からのファンの子……?)
手首のブレスレットを見て、珊瑚は大丈夫だと自分に言い聞かせた。
指定された座席は、二階席の最前列の正面だった。
舞台の上にグランドピアノと奏者用の椅子が置かれているのが見える。
少し遠いが、何にも遮られることなく、真正面から弥勒の姿を見つめることができる場所だ。
席についた珊瑚は、黄色い薔薇を見つめ、お守りのブレスレットを指先でまさぐりながら、開演の時間を待った。
次々と座席が埋まっていく。
開演のベルが鳴った。
客席が暗くなり、ふっと舞台だけが明るく浮かび上がる。
満場の拍手に迎えられ、黒いタキシードをまとった弥勒が、舞台の下手からチェロを持って現れた。
(……)
珊瑚は息をつめて彼の姿を見守る。
ゆったりと中央まで歩いてきた弥勒は、優雅にお辞儀をして、そして、椅子に座った。
会場が静まるのを待ち、弓を構える。
演奏は、バッハの無伴奏チェロ組曲第一番のプレリュードから始まった。プログラムは第一部がバッハの無伴奏チェロ組曲、第二部はピアノを伴奏に親しみやすい小品を集めた構成となっている。
彼のCDで幾度となく聴いてきた曲がホールの中に響き渡り、その甘くなめらかな音色に珊瑚は心を委ねるようにして聴き入った。
彼の音は彼そのものだと思った。
穏やかで、それでいて悪戯っぽくふざけてみたり、甘く誘惑的だったり、静かな眼差しの下に激しい感情を隠していたり。
──愛しい音色。
リサイタルは順調に進み、最後の曲が終わると、割れんばかりの拍手がホールを包んだ。
魅惑的な微笑を浮かべ、何度も舞台と袖とを往復する弥勒は、拍手とブラボーの声に応え、優雅な仕草で丁寧に礼をくり返した。
長い拍手がやっと途切れ、アンコールのために、再び彼はピアニストとともに舞台に出てきた。
チェロの他に、一輪の白い百合の花を持っている。
椅子に座り、彼はその百合を足許の床にそっと置いた。
森閑としたホールの中にピアノの前奏が流れ出す。
それは彼の家で二人で弾いた、アヴェ・マリアだった。
不意に涙がこぼれ、珊瑚は慌ててバッグの中から白いリネンのハンカチを取り出した。
こんな気取った薄いハンカチではなく、もっと実用的なものを持ってくればよかった。
この人を見ていると胸が苦しくなる。
愛しさで切なくなる。
彼のCDを手にしたとき、ジャケットに写っていたお守りのブレスレットを見たとき、すでに解っていたはずだ。
出逢う前に、もう恋に落ちていた。
なぜ? だって、あの人を、ずっと前から知っている。
聖母マリアを祝福する緩やかで美しいメロディが、何かのイメージと重なる。
何かを告げられた記憶だ。
度重なるデジャヴに、 またしても珊瑚はもどかしい思いに駆られた。
大天使ガブリエルが、聖母マリアのもとを受胎告知に訪れる場面。
違う、そうではない。
(告げるのは受胎じゃなくて……そうじゃなくて、もっと……ただ、子供を……)
突然、はっとした。
頬を涙が伝う。
(子を……あの人は、子を産んでくれと言ったんだ)
すでに告白を受けていた記憶がある。
視界がぼやけた。
(あたしは嬉しくて……ただ、嬉しくて……あの人が恋しくて)
どんな状況でそう言われたのか、それは判らない。
だが、感情だけが遠い記憶とシンクロして、今、彼が奏でているアヴェ・マリアの旋律が、まるで自分への告白のように思えて、胸がいっぱいになった。
涙で弥勒の姿が見えなくなるのは嫌だ。
珊瑚は必死に涙をこらえ、彼の姿を目に焼き付けるように見つめていた。
* * *
リサイタルが終わっても、余韻から醒めない珊瑚は、人がまばらになるまで座席に座り込んでいた。
気持ちを鎮め、まず、化粧室で赤くなった眼を冷やし、ほんのりと施しているメイクを直してから、彼女はホールのスタッフに控え室の場所を聞いて、その扉をノックした。
「どうぞ」
扉を開け、一歩、中に足を踏み入れた途端、部屋を埋めつくさんばかりに並べられた美しい花束や花かごが目に飛び込んできた。
とっさに珊瑚は小さな花束を後ろに隠す。
やはり、ワンピースよりも花束を優先すべきだったと後悔したが、もう遅かった。
「珊瑚」
壁際の化粧台の前に、一人、タキシード姿のまま座っていた弥勒は、やや緊張した面持ちで立ち上がった。
「あまり遅いので、振られてしまったのかと思いました」
「そんな……」
弥勒の手許には、両手で抱えきれないほどの豪華なカサブランカの花束が置かれている。
引け目を感じ、珊瑚は彼から眼を逸らした。
だが、弥勒は、ひときわ清楚で可憐な装いの彼女を愛おしげにじっと見つめている。
「今日はいつもと雰囲気が違いますね。一段と綺麗ですよ、珊瑚」
装いを褒められ、ときめきを覚えたが、弥勒に贈るための薔薇を出すに出せなくなってしまった。
「リサイタル、大成功だったね。おめでとう」
ぎこちない珊瑚に、そばへ来るようにと弥勒は身振りで促した。
「ありがとうございます。最後のアヴェ・マリアを、おまえに捧げます」
「えっ?」
豪華なカサブランカの花束から、一輪だけ抜き取って、弥勒はそれを恭しく珊瑚に差し出した。
白い百合は聖母マリアの花だ。
「……アヴェ・マリアだから?」
「いいえ。これはおまえの花ですから」
わけが解らず、珊瑚は無言で弥勒を見つめた。
「おまえの好きな花でしょう? おしべは抜いてありますから、持っても大丈夫ですよ」
「……どうして、知ってるの? あたしが白い百合を好きだってこと」
「前世の記憶、ですかな」
悪戯っぽい口調で、彼は冗談のつもりで言ったようだったが、珊瑚はそれが真実であることを直感で理解した。
弥勒は珊瑚の手からビーズのバッグを取り、代わりに白い百合の花を持たせた。
「受け取ってください。このカサブランカの花束は、私がおまえのために用意したものですから」
「え、じゃあ、アンコールのときの……」
「ええ。あれも、マドンナ・リリーというより、珊瑚に捧げるという印です。ですから、おまえが後ろに隠したものを、私は受け取る資格があると思いますよ」
にわかに珊瑚は慌てたが、もうどうしようもなかった。
恥ずかしそうな娘から、黄色い薔薇の愛らしい花束を受け取り、弥勒はそれを見てくすりと笑った。
「ごめん。弥勒さまの花束より、大きさ、かなり負けてるけど」
「いや、おまえらしいなと思って」
「なんで?」
「知らないんですか? 黄色い薔薇の花言葉は“ジェラシー”でしょう?」
弥勒は面白そうにくすくす笑う。一瞬、唖然となった珊瑚は、頬を真っ赤に染め上げた。
「あ、あたしが嫉妬深いって言いたいわけ──?」
「実際、やきもち妬きじゃないですか。私と係わる女性をいちいち気にして、妬いてたくせに」
「そ、それは……」
「解っていますよ。薔薇園での約束……ですよね」
弥勒は薔薇の香りを嗅ぐように、花束を顔に近づけ、ふと、思い出したように珊瑚に言った。
「実は、うちのテラスのパーゴラにもモッコウバラを這わせようかと思っているんですが。……珊瑚。よければ、一緒に植えて、一緒にモッコウバラが育つのを見守ってくれませんか?」
慎重に彼女を見つめ、真摯な瞳でゆっくりと言葉を紡いだのだが、
「いいよ」
あっさりと承諾した珊瑚に、弥勒は拍子抜けしたような、複雑な表情を浮かべた。
「田舎のあたしの家でも、母がいろんな花を咲かせているから、そういうの手伝うの好きだよ」
「……」
小さくため息を洩らし、不機嫌そうに、弥勒は受け取った黄色い薔薇を化粧台の上のカサブランカの隣に置いた。
「前から気になっていたんですが、珊瑚はもしかして、色恋に疎いですか?」
「なっ、何でさ!」
「そうでなければ、私を焦らして楽しんでるんですか? 初心な娘だと思っていたが、ここまで来て、まだ私の気持ちに気づいていないわけではないでしょう」
弥勒は大袈裟に嘆く。
何度、想いをほのめかしても、まるで気づかないふうにかわされてしまう。部屋に入れても安全な男だと思われている。思い切って抱きしめれば、抱きしめたことより電話の相手のほうを気にされる。
どうして気づかないのだろうと。
珊瑚は、自分の気持ちや既視感ばかりに気を取られ、弥勒の気持ちにまで心が行き届かなかったことを申し訳なく思った。
「でも、いくら鈍くても、これの意味は解りますね?」
弥勒は、カサブランカの花束の陰から指輪のケースを取り出して、珊瑚に渡した。
蓋をあけると、ダイヤモンドがきらめき、可憐なデザインの指輪が収まっているのを見て、珊瑚は息を呑む。
蓋の裏には“レーヴ・エ・クール”の文字とワイン樽のロゴがある。ジュエリーブランドのロゴに酒樽は一見奇妙だが、これは酒の神・バッコスとアメシストの神話に由来している。
「結婚してくれませんか、珊瑚」
「あ……あの……」
確かに聞こえたその言葉が信じられなくて、珊瑚は躊躇い、視線を彷徨わせた。
「つき合う前にプロポーズでは、珊瑚が戸惑うのも無理はありません。もちろん、結婚はおまえが大学を卒業するまで待ちます。けれど、おまえは私にとって特別で、これは必然なんです」
弥勒は手近な椅子を引き寄せて、珊瑚を座らせ、互いの膝が触れ合うような距離で、自身も彼女の前に座った。
「これから話すのは私の気持ちです。聞くだけ聞いておいてください」
白い百合を握りしめる珊瑚は、鼓動を抑え、緊張したようにうつむいている。
その手首にある桃色のブレスレットを見つめ、弥勒はゆっくりと言葉を選ぶようにして語り出した。
「私は“珊瑚”に恋をしていた。たぶん、生まれる前から」
「……」
「だから、それ以外の恋愛は長続きしませんでした。過去につき合ったどの娘も、別れるときに言うんです。誰か他に想う人がいるんでしょうと」
あまりに皆が同じことを言うので、弥勒は試しに、それはどんな娘だろうと考えてみた。
髪は黒くて長いだろう。
少し目尻の上がった意志の強い瞳をしている。
仕事をするときは、長い髪をポニーテールにして、動きやすい細身のユニフォームを着る。色は黒がいい。
もしかしたら、猫を連れているのではないだろうか。
「『白い猫』で初めて珊瑚に逢ったとき、誰かに似ていると思いました。それは誰でもなく、私の心に住む女性だった」
「じゃあ……弥勒さまは、最初からあたしのこと……」
「夢想した娘が実在して、驚きました。あとであの店の名前が“猫”だったと知り、それも驚きました」
くすりと弥勒は笑う。
もう一度逢いたくて、名刺を渡した。
連絡がないので、差し入れを口実に逢いに行った。
自分に繋ぎとめるために、部屋を探しているという話にも飛びついた。
「好きな娘でなければ、わざわざ自分の住まいを譲ったりしませんよ」
熱を込めた瞳で見つめられ、珊瑚はどぎまぎと眼を伏せた。
「おまえを抱きしめたとき、はっきりと解ったんです。私が求めていたのは珊瑚のブレスレットではなく、おまえだと。私の理想に珊瑚が当てはまるのではない、珊瑚自身の面影を、私はずっと追い続けていたんです」
弥勒の手が珊瑚の片方の手を握った。
「何故なのかは解らない。だが──もし、出逢う前に恋に落ちていたのだと考えたら、全ての辻褄が合う」
珊瑚の鼓動が大きく跳ねた。
不意に胸を突かれ、眼の奥が熱くなった。
彼女自身、同じことを考えていたのではなかったか。
「珊瑚が愛しい。ずっと、私のそばにいてほしい。おまえに何かあったときは私が守りたい。いつでもそばにいて、支え合いたい」
握った手を引いて、弥勒はその手にそっと口づけた。
「返事を。ウィなら、眼を閉じてください」
「……」
弥勒にいざなわれ、珊瑚は百合を置いて椅子から立ち上がった。
だが、潤んだ瞳を大きく見開いて、彼女は向かい合って立つ彼をじっと見つめたままだ。
「考える時間が必要ですか? ……まさか、ノンではありませんよね?」
「ウィ」
即座に低い声で、珊瑚は答えた。
「弥勒さまが好き。ずっとそばにいたい。……でも、眼を閉じたら、弥勒さまの顔が見えなくなるから」
ほっとしたように、弥勒は微笑を洩らした。
「ありがとう。……では、眼は開けたままでもいいですよ」
弥勒の手が珊瑚の顎を捉え、軽く持ち上げる。
彼の顔が近づいてくるのを見て、珊瑚ははっとして瞼を閉じた。
唇が触れる。
初めてなのに、懐かしくて、やさしい、甘い口づけを交わした。
愛しい娘を抱きしめた弥勒が、彼女の耳にささやいた。
「おまえは白、私はタキシード。指輪も花束もある。おまえに白いボンネを買って、このまま、教会へ行くこともできますよ」
愛しい人の腕の中で、白い花のように、珊瑚ははにかみながら彼を見上げた。
「あの、それじゃ……今後は浮気しないよね?」
「え゛?」
少し身体を離し、弥勒は固まる。
「珊瑚と出逢ってから、いつ、私が浮気しました?」
「だって……」
「確かに、女をとっかえひっかえしているとよく言われますが、それはおまえがもっと早くに私の前に現れなかったからで」
「女をとっかえひっかえ……?」
つい、余計なことまで口走ってしまった。
唖然とする珊瑚を見て、弥勒は誤魔化すように彼女を抱きしめ、甘い声でささやいた。
「どうでもいい昔の話です」
「どうでもよくはない」
「というか、珊瑚の鈍さのほうがどうかと思います。むしろ、遠回しな言い方ではなく、私の子を産んでほしいとか、端的に言えばよかったんですか」
「!」
刹那、大きく眼を見張った珊瑚を見て、弥勒も同時にはっとする。
「……最初から、そう言えばよかったんだな」
薬指に指輪をはめてもらい、幸せを実感する珊瑚は、ふと彼の右手を取って、中世の騎士のように、その手の甲に口づけようとした。
が、気まぐれに彼の手をひっくり返し、掌の真ん中に唇を落とす。
ずっと、この人に恋してた。
硝子の迷路を抜けたら、そこに、あなたがいた。
≪ prev Fin.
2013.9.11.
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。