硝子の迷路
第四章 珊瑚のお守り
甘い眩暈に襲われ、いつまでもこうしていたいと、弥勒の腕の中で、珊瑚は身を固くしていた。
ずいぶん長い時間のように感じたけれど、実際はほんの短い時間だった。
「……珊瑚」
彼女を抱きしめたまま、かすれた声で弥勒がささやく。
「やはり、おまえだ」
抱きしめる力が強くなった。
彼が何を言おうとしているのか、珊瑚はよく解らなかったけれど、頬の熱さと緊張が、ますます鼓動を高めていった。
「珊瑚、私は……」
不意に、張りつめた空気の中、電話の着信音が鳴り響いた。
弥勒ははっとして、立ち上がることを躊躇っているふうだったが、
「すまない」
と珊瑚の耳にささやくと、艶やかな彼女の髪をひと撫でして、椅子から立ち上がった。
珊瑚は弥勒に背を向け、懸命に落ち着こうと胸元を押さえた。
散乱する楽譜の中からスマートフォンを取り出した弥勒が、「はい」と応じる声が聞こえる。
会話の断片が聞くともなしに耳に入った。
「……解ってますよ、明日ですね。ええ、ちゃんと覚えています。夕食は私が奢りますから」
珊瑚はそっと振り向いた。
親しげに話す彼の後ろ姿に、鋭い痛みがちくりと胸を刺す。
すぐに通話を終え、スマートフォンを置いた彼が振り返った。
「すみません、珊瑚。仕事の電話でした」
「……嘘」
「え?」
「女でしょ? 彼女いないなんて、嘘だったんだ」
不機嫌な彼女を見て、弥勒はやや慌てたようになだめにかかる。
「今のは確かに女性ですが、本当に仕事の話です。今度のリサイタルで私の伴奏をしてくれるピアニストですよ。それより、珊瑚──」
「やっぱり……!」
珊瑚に近づこうとした弥勒は、その語調の荒さに嫌な予感を覚え、伸ばしかけた手をとめた。
「何がやっぱりなんです?」
「弥勒さま、美人ピアニストと噂になってるよね。やっぱり、その人が彼女なんだ」
「もしかして、それもネットからの情報ですか?」
機嫌を取りなすように、弥勒はピアノの椅子に座る珊瑚の背後に立ち、彼女の両肩に手を置いた。珊瑚はびくりとして身を硬くしたが、彼に触れられるのは嫌ではない。
「弥勒さまのファンクラブのメンバーだって、少しずつだけど、確実に増えてる。女の子選び放題じゃないか。実は相当遊んでるでしょ」
「……おまえ、意外と細かくチェックしているんですな」
はあ、と弥勒は大きくため息をつく。
「そんなことより、さっきのこと、怒ってないんですか?」
彼が身をかがめたのか、声が耳元に近くなり、珊瑚は動揺して視線を彷徨わせた。
「怒ってなんか……」
嬉しかった、と、ひとこと言えば、少しは自分の気持ちが伝わるのだろう。
でも、恥ずかしさが先に立って、うまく言葉にできなかった。
「……怒っていないなら、よかった」
短い沈黙のあと、弥勒の声が吐息のようにこぼれ落ちた。
「もう、こんな時間だな。遅くなりましたが、ランチにしましょう」
庭に面した石造りのテラスには、アンティークのゲートレッグテーブルが出され、すでに珊瑚のためのランチの席が設けてあった。
広い庭はあまり手入れがされていない様子で、テラスの上の白いパーゴラを這う蔓は枯れていたが、不思議と居心地がよく、どこか懐かしい印象すらあった。
田舎育ちの珊瑚には、緑を眺めながらの食事の席はこの上ない特等席だ。
二人は一緒にキッチンに立ち、弥勒はクロックムッシュを、珊瑚はクロックモワルーを作った。それぞれが作ったものを半分ずつ食べることにする。
珊瑚が持ってきた洋梨のタルトも切って、カフェクレームと一緒にテラスのテーブルへ運んだ。
「簡単なものですみません」
テーブルに皿を並べ、ベントウッドチェアに向かい合って座ったとき、弥勒が言った。
「最近は忙しくて外食ばかりで、食料の買い出しにもろくに行けなくて」
「ううん。クロックムッシュ、大好きだから」
熱々のそれらは、食欲をそそるチーズの香りが漂い、お世辞抜きで美味しかった。
機嫌の直った彼女に、弥勒はほっとしたように微笑した。
「珊瑚。誤解のないよう言っておきますが、美人ピアニストは音大の同級生です。仕事仲間ですので、珊瑚のアクセサリーの件で気まずく別れたくはありません。ですから、恋人としてつき合うことはありませんよ」
「気まずくならなければ、つき合いたいの?」
弥勒はクロックモワルーを切り分け、フォークに刺した。
「つき合ってみないかと、向こうから言われたことはあります。でも、断りました」
「『白い猫』でも、女の人と一緒だったよね。弥勒さまの周りって、女の人ばかりだ」
「同性の友人だっていますよ。『白い猫』で一緒だった女性はコンサートホールのスタッフです。どうせ仕事するなら、若くて綺麗な女性と一緒のほうが楽しいじゃないですか」
「……」
悪びれない弥勒の言葉に納得がいかず、珊瑚は乱暴にクロックムッシュにナイフを入れ、フォークを突き刺す。
カフェクレームのカップに口をつけた弥勒が、そんな彼女を見てにっこりと微笑んだ。
「どちらにしても、二人とも彼女ではありませんから、安心してください」
「あ、安心って……あたしは別に」
心のうちを見透かされたようで、頬を染め、うつむき加減に、珊瑚はクロックムッシュを口に入れた。
女の子たちに囲まれて、本人はそれほど派手ではないのに、存在が際立つ。
カジュアルなのにとても整った印象──そんな人を、珊瑚はずっと前から知っていると思った。
ランチのあとは問われるままに、珊瑚は自分の家族のことや大学のこと、最近読んだ本のことなどを話し、サロン・ド・テで教えられた淹れ方で、彼のために紅茶を淹れたりした。
瞬く間に時間は過ぎ、彼女が帰る時刻になると、弥勒は珊瑚をバス停まで送っていった。
「また、来てくれますか?」
バスの到着までまだ少し時間があることを確認し、さりげなく弥勒は問うた。
「また来ても……いいの?」
珊瑚は小さな声でおずおずと言いかけたが、突然、はっとした。
「もしかして、ファンの女の子は誰でも呼んでる?」
「……そこまで節操なしじゃありませんよ」
弥勒は吐息を洩らし、肩を落とす。
「街の反対側を流れる川が、夕陽を映すと川面が琥珀色になるんです。エリダノスという名はそこからついたのですが、そのうち、珊瑚にも見せたい」
ふと興味を引かれたように、珊瑚は周囲の街並みを見廻した。まだ、落日には早い。
「遠い? 見てみたい。帰る時間を遅らせて、今から見に行けないかな」
「その時刻には、バスがなくなりますから」
弥勒は少し困ったように彼女を見つめ、悪戯っぽく言った。
「部屋はありますが、うちに泊まるのは嫌でしょう? 男一人の家を訪れるだけでも、かなりの勇気が要ったでしょうし」
弥勒に逢いたい一心で、何も考えずに来てしまった珊瑚は、今さらながら頬を赤らめた。
「リサイタルが終われば、少し時間ができます。そうしたら、車を買いますから、私が珊瑚の送り迎えをしてあげますよ」
「え……」
彼はジャケットのポケットから封筒を取り出した。
「珊瑚。これ、受け取ってもらえますか?」
封筒を受け取り、中身を確認した珊瑚は、大きく眼を見張って、彼を見た。
「これ、リサイタルのチケット? あたし、あちこち探したけど、どこも完売だったのに」
「これは私が最初から押さえていたものです。二階席の正面ですが、来てくれますか?」
美しい珊瑚の顔が驚きに彩られ、花が咲いたように綻んだ。嬉しさのあまり、昂揚感を隠しきれない様子だ。
「もちろん行くよ。嬉しい、ありがとう」
「それから、お願いがあるんです」
弥勒が一旦言葉を切ると、背の高い街路樹の間を風が渡り、清かな音を立てて枝葉が揺れた。
いつになく、緊張したような面持ちの彼を見て、彼女も表情を改める。
「これを……持っていてくれますか」
差し出されたのは、CDのジャケットに写っていた、あの珊瑚のブレスレットだった。
彼の家にいくつかあったブレスレットの中でも、丸い珊瑚珠を連ねたそれは、遠い記憶の何かに似ていた。
「でも、大切なものなんだろう? 誰にもあげないって」
「おまえなら似合います。珊瑚に贈りたい。……もし、嫌でなければ」
弥勒は彼女が答える前に、彼女の手を取って、ほっそりとした手首にブレスレットをはめた。
「お守りに」
その言葉が記憶の中のイメージとぴたりと重なり、珊瑚ははっとした。
「いや、どちらかというと、私のお守りだな。珊瑚がこれをつけていてくれたら、リサイタルが成功するような気がするんです」
向こうの角をバスが曲がってくるのが見えた。
もう話している時間はない。
(あたしが“珊瑚”だから? それとも……)
二人が立つバス停にバスが停まり、乗り込む珊瑚を弥勒の声が追う。
「リサイタルが終わったら、控え室まで来てください。おまえに話したいことがあります」
「……」
「また、そのときに」
胸が高鳴る。
何かが大きく変わる予感がする。
最後列の席に座った珊瑚は、バス停にたたずむ弥勒の姿が見えなくなるまで、ずっと後ろを向いて、窓から彼を見つめていた。
* * *
一瞬で彼に目を奪われた。
サロン・ド・テで、薔薇園で、石造りのテラスで、穏やかな微笑を浮かべていた端整な顔立ちの青年。
女の影は気になるけれど、彼のそばは最高に居心地がいい。
琥珀の川のようなチェロの音色。
硝子の器には“珊瑚”を集めていた。
硝子の中に閉じ込められているのは、きっと、生まれる前の過去の記憶。
彼の成功を願って、そして、今度こそ彼への想いを伝える勇気が欲しくて、珊瑚はもらったブレスレットをお守りとして、ずっと大事に身につけていた。
当日、珊瑚は早めにアパルトマンを出た。
リサイタルは、八区にあるサル・セット・ビジューというコンサートホールで行われる。
そこは彼がよく仲間たちと演奏したという六角星広場に面していて、珊瑚のアパルトマンからも歩いて行ける。百年以上前に建てられた伝統ある中ホールであった。
珊瑚は、まず花屋を探し、薔薇を専門に扱う店を見つけて、そこに入った。
あの薔薇園の黄色いモッコウバラを一緒に見たいという願いを込めて、色とりどりの薔薇の中から、黄色い薔薇を選び、花束を作ってもらう。
本当はもっと大きな花束にしたかったが、バイト代が足りず、小さな花束になってしまった。
バイト代が足りないのは、この日のために服を買ったせいだ。
花屋を出ると、目の前には威風堂々とした六角星広場の大きな噴水が見え、その向こうにサル・セット・ビジューの重々しい四角い建物が見えた。
まっすぐにそこを目指して、珊瑚は歩き出す。
彼に相応しい女性になりたくて、少し背伸びをして買った白いワンピースは、腰での切り替えがないタイプのプリンセスライン。そのデザインは、珊瑚の可憐さを品よく際立たせた。
左手首には彼からもらった珊瑚のブレスレット。
小さなビーズのバッグは、以前、蚤の市で見つけた掘り出し物のアンティークだ。
そして、黄色い薔薇。
凛然とした美しい娘が歩いていく姿に、道行く人が振り返る。
サル・セット・ビジューに近づくにつれて、そこに向かう人の波が少しずつ増えていった。
今日は彼の特別な日だ。
コンサートホールへ向かう人々の流れに加わり、緊張の中で、小さく息を整えて、珊瑚は重厚な建物の中に入っていった。
2013.9.1.