真闇の糸 −前編−
弥勒と珊瑚が夫婦になって、はや、八年が経つ。
二人は妖怪退治を主な生業とし、弥勒は法師としての仕事もこなし、子供たちとともに平和に暮らしていた。
最初に生まれた双子・弥弥と珠珠は数え年で今年八歳、長男の翡翠は六歳になる。
その下には弟と妹が一人ずつ生まれていた。
次男の昴は数えで三歳。翡翠は珊瑚の面影を濃く受け継いでいるが、この子はどちらかというと、やわらかな面差しが弥勒に似ていた。
末妹の寧寧はまだ生まれて一年にも満たない。
両親の愛情に包まれ、周囲の人々に可愛がられ、子供たちはみな、健康にすくすく育っている。
若々しさはそのままに、落ち着いた風格を漂わせる法師と、五人の母とは思えないほど美しい妻の仲はいつも睦まじい。
親しい者たちが法師をからかい、
「子供はまだ増えるのですか?」
などと問うと、冗談なのか本気なのか、
「もちろんです」
と、彼は笑顔で答えるので、何人増えてもいいように、五人の子らはみんなまとめて「法師さまのところの子供たち」と呼ばれていた。
子供たちは自然と妖怪退治に興味を持つようになった。
弥弥と珠珠と翡翠は、少しずつ、両親から妖怪退治の手ほどきを受けるようになり、七つになった折り、弥弥と珠珠は危険のない場合に限り、たまさか弥勒の仕事に同行することを許された。
翡翠は七つになるのは来年なので、それまで、妖怪退治の現場におもむくことは許されていない。
子供たちは剣術を母に習い、父からは体術や学問を教わった。
妖怪についての知識も、少しずつ、両親から教えられている。
その日、弥弥と珠珠は、叔父の琥珀に作ってもらった飛来骨を模した木製の小型ブーメランを投げて、どちらが長く飛ばせるか、また、どちらが正確に的に当てることができるかを競っていた。
そこへ、赤子を抱いた母の珊瑚がやってきた。五人の母となっても、娘時代と変わらずに、凛としてたおやかな印象の佳人である。
赤子の寧寧はかなり機嫌が悪く、むずかっている。
「弥弥、珠珠。治平さんとこの妖怪駆除、おまえたちに頼んでもいいかな」
「妖怪? 妖怪退治するの?」
「珠珠たち二人で?」
肩までの髪を揺らせ、振り向いた二人が瞳を輝かせたので、珊瑚は慌てて否定した。
「あ、ううん。準備だけお願いできる? 父上がまだ帰らないんだけど、治平さんには今日中にと頼まれてるんだ」
床下に妙な気配を感じるが、覗き込んでも何もいない。一度、弥勒に見てほしいとのことで、今日、法師が帰宅したら未の刻に件の家の床下を調べることになっている。
だが、もう未の刻を過ぎ、珊瑚は時間が気になる様子だった。
自分で見れば早いのだが、赤子から目を離すわけにはいかない。
「やったことあるから何が必要か判るよね。小妖怪を縁の下からいぶり出すための道具と薬草をそろえるの。できる?」
「もちろん! 煙を焚くのもできるよ」
「この前、父上が退治した妖怪も、二人でいぶり出したんだもん」
「そうだったね。じゃあ、お願い。ついでに、父上が帰るまで、治平さんの家の床下を見張っててくれる?」
「解った!」
二人は声をそろえて元気よく言った。
ブーメランを片付けて、弥弥と珠珠は妖怪退治の準備に取り掛かった。
すると、姉たちの様子に気づいた翡翠が興味津々のていで近寄ってきた。弟の昴の相手をしていたのだが、昴が眠ってしまったので、退屈を持て余していたのだ。
「何してるの?」
双子は黙々と薬草棚から必要なものを取り出し、火打石などとともに包んでいる。
「ねえ、姉上」
「妖怪退治に行くんだよ」
「翡翠はまだ六つだから、来ちゃ駄目」
「ずるい」
翡翠は口を尖らせた。
いつも姉たちは二人で翡翠を子供扱いするが、彼ももう六歳。弟も妹もできて、一人前の“兄上”のつもりなのに。
「無理だよ。父上が一緒じゃないと」
「無理じゃない。姉上たちはいつも父上がどうやるか見てるもん」
「絶対無理」
「小さいのをいぶり出すだけだよ。弥弥と珠珠でできるよ」
双子と翡翠は互いに譲らず、翡翠は姉たちが本当に二人で妖怪退治ができるのかを見届けに、現場となる治平の家までついてきた。
法師を待っていた家の主の治平は、“法師さまのところの子供たち”が三人だけでやってきたことに驚いた。
「弥弥ちゃん、珠珠ちゃん。父上は、法師さまは一緒じゃないのかね?」
「大丈夫です。父上はあとから来るの」
「弥弥と珠珠で準備します。前にもしたことあるから平気だよ」
二人は手際よく──とはいえない手つきで、庭先で準備を始めた。
治平と彼の女房がはらはらと見守る。翡翠だけは、姉たちの動作を興味深そうに眺めていた。
「よしできた。あとはこれに火をつけるだけ」
土台となる専用の筒に幾種類かの干した薬草を順番通りに詰めて、弥弥が満足そうに吐息をついた。
「燃やしちゃ駄目だよ。いぶすんだよ」
「解ってるよ」
「ちょっ! ちょっと、弥弥ちゃん、珠珠ちゃん」
「なあに? おじさん」
「やはり、法師さまを待とう。おじさんとこは明日になっても構わないから」
弥弥と珠珠は顔を見合わせた。
「でも、今日中に退治してって母上が」
「母上が聞き違えたんだろう。さ、道具はこのまま預かるからおまえたちは……」
弥弥と珠珠は再び顔を見合わせて、にっこりと治平のほうを見た。
「大丈夫。父上が来なくても、やり方知ってるから」
「せっかく用意できたんだから、このまま最後までやれるよ」
愛くるしい笑顔に誰が逆らえるだろうか。うっかり断ろうものなら、こちらが悪者になってしまう。
「……火事にならんだろうなあ」
不安そうに治平が女房にささやいた。
苦労して火をつけた双子は四苦八苦して煙を起こした。
火はこの家のかまどから借りれば楽なのだが、そうしなかったのは、自分たちで全過程をやってみたかったからだ。
治平の女房は家事をしに家の中に入ってしまい、火事にさえならなければ構わないと、依頼人の治平も、もう子供たちの好きにさせてのんびり傍観していた。
そろそろ未の中刻になろうか。
「ねえ、姉上」
扇子を取り出し、物々しく防毒面を装着して煙を煽ぎ始めた二人を見て、翡翠は手近にいた弥弥の袖を引っ張り、姉たちの気を引こうとした。
「煽ぐのなら、おれもできるよ」
二人の姉がすでに防毒面を作ってもらっていることも、正直、翡翠には面白くない。
木刀で剣の稽古も毎日しているのに、七つになっていないというだけで、一人前に扱ってもらえないのだ。
風が吹き抜け、煙をかぶった珠珠が視界を確保するために大きく頭を振った。
「珠珠。向こう側から縁の下を覗いてみて? こっちから煙を送ってるんだから、妖怪はあっちに逃げるはずだよ」
「解った。弥弥、煽ぐの一人で大丈夫?」
「大丈夫。あっ、翡翠はここにいて」
「おれも行く」
何か新しい展開があるかもしれないと、翡翠は珠珠について家屋の向こう側に廻った。
夕餉の支度をする珊瑚は、帰りの遅い弥勒と、双子の弥弥と珠珠のことが気になって落ち着かず、ずっとそわそわしていた。
姿が見えない翡翠も姉たちについて行ったのだろう。
先に夕餉の支度を終わらせて、治平の家へ様子を見に行こうと思っていたら、玄関から錫杖の音とともに、法師の声が帰宅を告げた。
「ただいま帰りました」
すぐに弥勒は台所までやってきた。
祝言をあげた頃の涼やかで端整な印象そのままに、彼はご機嫌で、珊瑚に負ぶわれたまま眠っている末娘の顔を覗き込む。
「ただいま、珊瑚。寧寧は……眠っているな。いい子だ。昴は?」
「居間でお昼寝中」
弥勒は妻の唇に軽く唇を合わせた。
「おかえりなさい、弥勒さま。もしかして、呑んでる?」
「いやあ、一杯だけと勧められて、断れなくて。でも、すぐ引き上げましたよ? うちには可愛い子供たちと愛しいおまえが待っているんですから」
珊瑚は呆れたように夫を見上げ、彼の頬に手を伸ばした。
その仕草に、甘い期待を抱いた彼が身をかがめて妻に顔を寄せると、彼女は彼の耳に唇を寄せ、ささやいた。
「治平さんとこの約束、忘れてるでしょ」
「……」
「弥弥と珠珠が先に行っちゃったよ?」
「しまった……!」
外へ出て太陽の位置を確認すると、少なくとも未の刻を半刻は過ぎている。
弥勒は慌てて自宅を飛び出し、治平の家へと足早に向かった。
* * *
弥弥が煙を送っている場所の向かい側へ廻った珠珠と翡翠は、床下から立ち昇る煙に眼を細めて、縁の下を覗き込んだ。
「……」
「何もいないね」
「うん」
妖怪はおろか、生き物の気配すらない。
小さな虫くらいはいるだろうが、駆除しなければならないのは、そんなものではないはずだ。
珠珠は髪をひとつに結わえ、床下の向こうの弥弥に叫んだ。
「ちょっと煙送るのやめてみてー? 珠珠が床の下に入ってみる」
「解ったー!」
弥弥の声が返ってきた。
髪をまとめてたすき掛けをした珠珠は、腰に差していた小柄を誇らしげに翡翠に見せた。
「妖怪はこれで一突きだよ。姉上が様子を見てくるから、翡翠はここにいて」
小柄は守り刀として弥弥と珠珠にそれぞれ与えられたものだ。翡翠の分もちゃんと用意されており、彼には七つになる次の正月に与えられることになっている。
「おれも行く」
「翡翠は刀、持ってないでしょ?」
「弥弥の姉上のを借りてくる」
弥弥のところまで駆けてきた翡翠は、彼女から小柄と防毒面を受け取って、珠珠のもとまで走って戻った。
……のどかなものだ。
何かいると思ったのは気のせいで、妖怪など初めからいなかったのかもしれない。
もう大丈夫だと法師の家に知らせに行こうか、と、治平がそんなふうに考えていると、向こうから錫杖を鳴らして法師が駆けてきた。
「も、申しわけありません!」
彼は大きく息をついて、開口一番、謝罪した。
「出先で思ったより時間を取られてしまいまして。すぐに床下を調べますから」
「ああ、ご足労かけます、法師さま。今、珠珠ちゃんと翡翠ちゃんが見てくれているところだよ」
「えっ?」
微笑ましげに、治平はそこにいる弥弥を見遣った。
「この通り、煙でいぶしても何もいる様子がなくてね。こりゃ、わしの思い違いだったかな」
「弥弥」
「はい、父上」
珊瑚によく似た口調と眼差しで、弥弥は父を見上げる。
「どれくらいいぶした? どの薬草を使ったんだ?」
弥弥は数種類の薬草の名と、どのように煙を起こしたかをてきぱきと答えた。
双子のやり方はたどたどしくはあったが、選んだ薬草も手順も間違ってはいない。
「床下に煙は行き渡ったと思うよ、父上。それでも気配がないから、珠珠が入ってみるって」
「翡翠も一緒か?」
弥弥はうなずく。
「弥弥の防毒面と刀を貸してあげた。御守りだから」
「……守り刀は万能ではありませんよ」
弥勒は困ったように苦笑し、愛しげに弥弥の頭を撫でた。
そして、彼は地面に這って、真っ暗な床下を覗いてみた。
まだ煙が残っているせいで見通しが悪い。大人の男、それも長身の弥勒が縁の下へ入るのはかなりきつそうだ。
「弥弥、煙を消していいですよ。それから、扇子を貸して。煙のせいで何も見えん」
彼は床下の煙を蹴散らせるように風を送り、子供たちの名を呼んだ。
「珠珠! 翡翠! もういいから出てきなさい! あとは父上に任せて」
だが、そのとき悲鳴が聞こえた。
「きゃああーっ」
珠珠の声だ。
「珠珠! 珠珠、どうした!」
弥勒は顔色を変え、素早く身を起こして、今いる位置の反対側へと急いだ。
2012.8.21.