真闇の糸 −後編−

 その少し前。
 翡翠が防毒面と小柄を弥弥から借りてくると、珠珠は弟にしっかりと防毒面を付けてやり、二人して縁の下にもぐりこんだ。
 小柄は、腰の後ろに差している。
「翡翠、姉上から離れちゃ駄目だよ」
 いつも父に言われていることを言ってみる。
「解った、姉上」
 煙をかき分けて、四つん這いでのろのろと進んでみるも、やはり、何かいる気配はない。
「もう逃げちゃったんじゃないの?」
「かもね」
 それならそれで、何か確証を得なければ仕事を終えたことにはならない。
 珠珠は目を凝らして、薄暗い床の下を見廻した。
「あ、あれ、何かな。翡翠、見える?」
「真っ黒だね」
 二人は“それ”に近づいた。
 床板の裏に、闇で塗りつぶしたような黒い染みのようなものがある。
 それは、直径が十寸ほどの、円に近い形をしていた。
「何だろう?」
 二人が黒い染みの真下まで移動したとき、外から弥勒の声が聞こえた。
「珠珠! 翡翠! もういいから出てきなさい! あとは父上に任せて」
「父上だ」
 珠珠は声のしたほうを振り返った。
「一旦外へ出よう、翡翠。この黒い物のこと、父上に話さなきゃ」
 そのとき、翡翠はそれに触れようとしていた。と、次の瞬間、降るように現れた闇色の細い糸の束が、翡翠の身体を包み込んだ。
 まるで、闇に呑まれたように見えた。
「きゃああーっ」
 あっという間もない。
 翡翠の姿は消えていた。
「珠珠! 珠珠、どうした!」
 父の声に我に返り、珠珠は落ちている小柄に目をやった。翡翠が落としたらしい。それには、闇の色をした糸が一本、絡みついている。
 珠珠は小柄を掴み、父のもとへと急いだ。
「父上!」
 床下から外へ出た珠珠は、そこにいた弥勒に物も言わずに抱きついた。
「珠珠……!」
「珠珠ちゃん!」
 弥弥や家の主・治平も心配げに彼女を見ている。
「珠珠、無事か。翡翠はどうした?」
「翡翠……翡翠が消えた」
 怯えたような表情で、それでも珠珠は気丈に答えた。
「目の前にいたのに、よく見えなかった。翡翠は、真っ暗な闇に呑み込まれたように見えた。でも、何が起こったのか、珠珠……」
 じっと話を聞いていた弥弥が、弟の安否を確かめるために床下へもぐろうとしたが、そんな弥弥を弥勒が制した。
「待ちなさい、弥弥。これは妖がいるということですよ。むやみに飛び込むものではない」
「でも、翡翠が」
「まず、何が起こったのか整理しよう」
 弥勒はその場に膝をつき、珠珠の高さに視線を合わせた。
「珠珠。翡翠が消えたとき、何か気がついたことはあるか?」
「床板の裏に、黒い、染みのようなものを見つけたの」
「染み? ……黒い?」
 珠珠はうなずいた。
「そのとき、父上の声が聞こえて、このことを父上に知らせようと思ったんだけど、いきなり黒い糸が降ってきて、翡翠を攫っていった」
「それだけか?」
「御守り刀にその糸が……」
 珠珠は父に小柄を差し出したが、それには糸などついていなかった。
「あれ……確かに絡んでたのに。真っ黒い糸が」
「おそらく、床下から外へ出て、陽光にさらされたために消滅したのでしょう」
 弥勒は立ち上がった。
「治平どの、床下に巣食っている妖怪の正体が解りました。これから退治いたします」
「えっ、あ、あの……」
「大丈夫、お任せください。弥弥、珠珠、おまえたちにも働いてもらおう」
「うん!」
 弟を巻き込んだ責任を感じていた双子は、自分たちにもできることがあると知り、少し安堵したようにうなずいた。
「まず、珠珠。気持ちが落ち着いたら、もう一度床下に入り、黒い染みのある場所を探してくれ。小柄で退治できる相手だ。いつも剣の稽古をしている通りにやればいい」
「はい、父上」
「そして、弥弥。母上にあるものを借りてきてほしい。妖怪は太陽の光に弱い。何が必要か解るか?」
「……」
「解らなければ、母上に“真闇の糸”と伝えなさい。母上にはすぐ解るはずだ」
「妖怪は、太陽の光に弱い……」
 口の中で反芻し、弥弥ははっと顔をあげた。
「解った、父上! すぐに母上から借りてくる」
 駆けていく弥弥の後ろ姿を見送り、弥勒は治平のほうへ向き直った。
「妖は闇蜘蛛と呼ばれる蜘蛛の妖怪です」
「蜘蛛?」
「はい」
 父の言葉を珠珠もじっと聞いている。
「生態は普通の蜘蛛と変わりません。ただ、闇に棲み、太陽の光を苦手とします。ですから、洞穴や鬱蒼とした森陰など、光のささない場所に漆黒の巣を作るのです」
「でも、普通の蜘蛛と同じなら、煙でいぶせば何らかの反応があるはずじゃ……」
「闇蜘蛛は糸の代わりに“真闇”と呼ばれる糸状の闇を作り、それで自らの巣となる平面の闇を作り出します。真闇は外気を通しません。巣の中にいる限り、闇蜘蛛には煙は全く効果がないのです」
 弥勒は床下へ気遣わしげな視線を向けた。
「闇蜘蛛も小さなものなら害はない。しかし、何十年も生きて巨大化したものは、今回のように人間を捕らえてしまうことがあるんです」
「翡翠ちゃんは大丈夫だろうか」
「珠珠、翡翠は防毒面を付けているのだろう?」
「うん。しっかり付けたから、外れていないと思う」
「真闇を吸い込まなければ、少しの時間なら大丈夫だ。弥弥が戻ってきたら、すぐに翡翠を助けよう」
 程なくして、弥弥と一緒に珊瑚も駆けつけてきた。
「珊瑚──!」
 妻の姿に弥勒は眼を見張る。
「おまえまで来ては駄目でしょう! 昴と寧寧はどうするんです」
 珊瑚は寧寧を負ぶったままで、昴の手を弥弥が引いている。
「だって、翡翠が真闇に捕らわれたって……家のことは大丈夫だよ。早めに夕餉の支度は終えたし、昴はちょうど昼寝から起きたところだし」
「ああ、もう」
 弥勒は、片手で顔を覆ってため息をついた。
「母上」
 珠珠が珊瑚のもとへ駆け寄った。
「翡翠が……ごめんなさい。珠珠が一緒にいたのに」
「大丈夫だよ、珠珠。闇蜘蛛は闇の中でしか生きられない弱い妖怪だ。太陽の光を当てると衰弱する。弥弥、あれを」
 母の呼びかけに、弥弥は懐から手鏡を取り出した。
「父上、これを母上から借りた」
「よし、正解だ」
 弥勒は双子に指示を与えた。
「母上が言ったように、闇蜘蛛は太陽の光に弱い。弥弥が鏡で床下を照らし、闇蜘蛛が姿を現したところを珠珠がしとめなさい。できるか?」
「はい!」
 二人はすぐさま、翡翠を救うために行動に移った。
 双子を見守る弥勒は昴を抱き上げ、不安そうな珊瑚は夫に寄り添った。
 この妖怪ならば、子供たちだけで退治できる。そう判断したから二人に任せた。
 破魔札を使えば即座にかたが付くのだが、弥弥と珠珠と翡翠、三人の初めての妖怪退治を最後までやりとげさせてやりたい。
「私たちの子が、初めて退治する妖怪が蜘蛛とはな」
 弥勒は妻にささやいた。
「これも巡り合わせだろうか」
「そうだね……でも、きっと大丈夫」
 防毒面をつけ、小柄を握った珠珠が縁の下にもぐり、目標の黒い染み、闇蜘蛛の巣を見つけた。
「弥弥、いいよー」
 その声を合図に、弥弥は外界の太陽の光を鏡に集め、細心の注意を払って床下へ送る。
 床下に光が走り、小さな変化でも見逃すまいと、小柄を構えた珠珠は目を凝らした。
 陽光の位置を定めることは難しく、送られる光は不安定に揺れていたが、ふと思いつき、珠珠は弥弥が送る光を刃で受け、反射させた。
 ほんの数瞬だったが、撥ねた光が闇蜘蛛の巣を照らし、平面の闇がうねり始めた。
「弥弥、もういい! 動き出した」
 大きく膨れ上がった闇は、やがて、人の子の形となって落ちてきた。
「翡翠!」
 翡翠は無数の闇色の糸に搦め捕られている。
 それでも冷静になれと自分に言い聞かせ、珠珠はさらに巣の様子を見守った。
 未だ闇は蠢いている。
 と、闇の中から、子供の頭ほどもある大きな漆黒の蜘蛛が、もがきながら這い出てきた。
 不気味に思わないはずはない。だが、狙いを定め、珠珠は蜘蛛妖怪に小柄を振るった。
 闇色の胴体を一突きにし、その躯を陽の下へと引きずり出す。珠珠と入れ違いに弥弥が床下へもぐり、気を失っている翡翠の身体を外へと引っ張り出した。
「珠珠!」
 闇蜘蛛は太陽の光を浴びた途端、しぼむように消滅した。翡翠を絡めている糸も、また然り。
 珊瑚が翡翠の防毒面を外し、小さな身体を軽く揺さぶった。
「翡翠。翡翠、解る? 母上だよ」
「……は、はうえ?」
 そろそろと眼を開けた翡翠は、珊瑚の顔を瞳に映し、がばっと母にしがみついた。
「もう大丈夫。父上も母上も姉上も、みんな、いるから」
「妖怪は?」
「姉上たちがやっつけてくれたよ」
「そう……」
 翡翠はがっかりしたように肩を落とした。
「御守り刀を落としちゃったんだ。それがあれば、真っ黒な奴に捕まったとき、一人でやっつけられたのに」
 珊瑚は大きくまばたきをして、呆れたように弥勒と目を合わせた。
 捕らわれた本人は全く怖がっておらず、一人で妖怪を退治する気だったらしい。
「弥弥も珠珠も翡翠も、よくやったな」
 弥勒は、子供たちの頭を一人ずつ撫でてねぎらった。
「治平どの。どうも、お騒がせいたしまして」
「いや、翡翠ちゃんが無事でよかった」
「本当に、子供たちがご迷惑をおかけしました。お詫びにお代を……」
「おお、そんな、却って悪いですな」
 今回は無料なのかと喜びかけたところ、
「実費だけいただくことにします。約束の八掛けくらいでいかがでしょう」
「……はあ」
「子供たちが惜しげもなく使ってしまった薬草類が高価なものばかりで」
 この法師、腕は確かだが、依頼料もとんでもなく高いとの評判だ。
 さすがに同じ村の住人相手にあこぎな商売をすることはなかったが、もらうものはしっかりもらった。
「巣の主がいなくなれば、闇蜘蛛の巣は自然に消滅します」
「あ、はい。ありがとうございました」
 治平は礼を述べ、用意していた礼物を取りに家へ入った。
 口八丁のこの法師には敵わない。
 法師の一家は、野菜の束を受け取って、意気揚々と帰途についた。

* * *

 帰宅後、すぐに湯を沸かし、埃まみれになった弥弥と珠珠と翡翠の髪と身体を洗った。
 そのあと、家族みんなで夕餉を囲み、今日の冒険を振り返る。
 弥勒は酒の盃を片手に、珊瑚は後ろを向いて寧寧に乳をやりながら、微笑ましげに、双子と翡翠が話す妖怪退治の一部始終に耳を傾けていた。
 小さな昴も熱心に聞き入っている。
 弥弥に珠珠、それに翡翠も含め、みな剣の筋もよく、将来が楽しみだった。
 食事を終え、後片付けを手伝い、快い疲れに欠伸を洩らし、子供たちは寝床に入った。
 並んだ夜具に子供たちを寝かせ、一人一人に衾をかけ直してやり、珊瑚は小さな頭を撫でていく。
 最後に寧寧が眠っていることを確かめて、彼女は弥勒と居間に戻った。
「もうすぐ、飛来骨を弥弥と珠珠に継がせる日が来るんだろうね」
 静かになった囲炉裏のそばで、夫に酌をし、しみじみと珊瑚は言った。
「少し寂しい気もする。あたしが男だったら、一生、飛来骨とともに退治屋の仕事を続けていただろうし」
「私と夫婦になれなくてもいいんですか?」
「それは嫌だ」
 弥勒は盃の酒をくいと干し、酒器を下へ置くと、妻の肩を抱き寄せた。
「寧寧で最後にしましょうか? それなら、あの子が五歳くらいになる頃には、おまえも退治屋として復帰することができるだろう」
 抱き寄せた妻の頬に口づけ、その唇を白い喉元まで滑らせて言う弥勒の仕草に、珊瑚はくすぐったそうに苦笑した。
「弥勒さま、言ってることとやってることがばらばら」
 彼女は弥勒の首に両腕を廻し、愛しい人に抱きついた。
「でも、誤解しないでね。子育ては好き。子供たちといるのは楽しいし、あの子たちを育てるのは、あたしの喜び」
 弥勒はふっと微笑んで、華奢な珊瑚の身体を抱きすくめた。
「珊瑚、愛している」
「……あたしも」
 抱き合う二人は、息をひそめるようにして唇を重ねた。
 家族が増えて。子供たちが成長して。
 それでも変わらない、愛しい存在に癒される。
「ねえ、弥勒さま」
「何です?」
「今夜、あたしと……」
 遠慮がちに、ちらとこちらを窺う珊瑚の甘い眼差しに、いやが上にも期待が高まる。
「もちろん。おまえが望むなら、私はいつでも」
「ありがとう」
 珊瑚は嬉しそうに微笑んだ。
「一人じゃちょっと大変だなって。手伝ってもらえると助かる」
「……」
 弥勒の返事がひと呼吸遅れた。
「何の話です?」
「子供たちの繕い物。今日みたいなあんな調子だから、着物をいくら繕っても追いつかなくて。うちは旦那様が縫い物も得意で助かる」
 はあぁ……と弥勒は小さくため息を洩らし、苦笑した。
「いいですよ。我が奥方の仰せのままに」
 けれど、珊瑚が針箱と子供たちの衣を取りに立とうとすると、意趣返しとばかりにもう一度、弥勒は妻を抱き寄せ、唇を奪った。
 珊瑚はされるままになっている。
 子供たちが妖怪退治屋としての第一歩を踏み出したその日、弥勒と珊瑚に会話は尽きず、夜は長いようで短かった。

≪ 前編 〔了〕

2012.8.22.

ななこるかさんから、「普段書かれているものよりもう少し子どもたちが大きくなったもの」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。