空が茜色に染まっていく。
陽が沈み、太陽に守られた世界が、刻一刻と闇に支配される世界へと移行する。
魔の潜む世界が、人の世界に混沌と交わるその時刻、誰そ、と問うた相手は魔物かもしれない。
その日、見た夕焼けは、血の色に見えた。
逢魔が時
賑やかな町であった。
仕事から帰る人々が、せわしげに帰路を急いでいる。
その町の外れを流れる川の河原に、珊瑚は独り、座り込み、じっと落日を見ていた。
落日は鮮やかで、美しくて、今日という日の終わりを告げているのかと思うと、儚かった。
その儚い色が黄昏に侵食され始めても、珊瑚は動かない。
「珊瑚ちゃん」
後方から名を呼ばれ、珊瑚は少し顔を上げかけたが、何も言わずにまたうつむいた。
河原に降りてきたかごめは、珊瑚の隣に腰を下ろす。
「……かごめちゃん、法師さまと交替したの?」
「うん。暗くなってきたし、そろそろ夕食だから、珊瑚ちゃんを迎えに来たの。迎えが弥勒さまじゃなくて、ごめんね」
「そういう意味じゃないよ」
悪戯っぽいかごめの言葉を受けて、ばつが悪そうに、珊瑚は長い睫毛を伏せた。
法師とは喧嘩中である。
何でもないように振る舞っているつもりだが、かごめには、法師と何かあるとすぐに見抜かれてしまう。
たいていは彼と他の娘にまつわる出来事が原因であり、今回もやはりそうであった。
「かごめちゃん、あの……」
「安心して。弥勒さまは真面目に仕事してるから。今は七宝ちゃんに見張ってもらってる」
「そう……」
犬夜叉たちの一行は、この町のある家の妖怪退治を頼まれて、その依頼主の屋敷に滞在していた。
屋敷の一人息子が妖怪に取り憑かれ、生死の境を彷徨っている。
怨霊の類ではないが、憑依型の妖怪だ。
一人息子は数え年五歳の子供だった。
子息は意識がないまま、うなされていたが、かごめがそばにいるだけで楽になるらしく、かごめの霊力と弥勒の法力で子供と妖怪を切り離し、犬夜叉がとどめを刺すという段取りをつけた。
だが、対象者が幼く、長く臥せっているために体力がない。
力任せに妖怪を引きずり出すのは危険だと弥勒は判断した。
時間はかかるが、衰弱している子供が生命を落とすことがないよう、根気よく、かごめと弥勒は交替でその子の枕元につくことにした。
加減をしながら霊的な力を加え、それに負けた妖怪のほうから、子息の身体から抜け出てくるのを待とうというのだ。
犬夜叉は常に隣の部屋に控え、珊瑚と七宝は諸々の雑用に回った。
そんな中、珊瑚が気にしているのは、その一人息子専属の小間使いの存在だった。
器量がよく、おとなしやかで、年は珊瑚と同じくらい。
法師が気に入りそうな娘だと、珊瑚は始めから気が気でなかった。
娘のほうも、おとなしいとはいえ、色恋に関しては珊瑚ほど奥手ではないようで、弥勒に対し、ときおり艶めいた視線を投げかけてくる。
屋敷の子息に付き添うかごめと弥勒の世話をするのも彼女の仕事だが、それも、かごめよりも弥勒のほうに、仕事の比重がかたよっているように珊瑚には見えた。
飲み物を差し入れたり、汗を拭いてあげたり、甲斐甲斐しく世話を焼く姿は、子息の小間使いではなく、法師の小間使いのようだ。
弥勒とゆっくり言葉を交わすこともできない珊瑚の苛々は募る。
法師の身の回りのことも自分がすると申し出てみたのだが、
「焼きもちはみっともないですよ」
と、冗談のように軽くあしらわれた。
「かごめさまの身の回りのこともあの娘がしているのに、私だけ断るのは、屋敷側のご厚意に背きます。それに、珊瑚の仕事は、珊瑚にしかこなせないのですから」
そう言って、弥勒は彼女を見つめ、やさしく微笑んだ。
「ねえ、珊瑚ちゃん。最近の弥勒さま、ちょっと珊瑚ちゃんに甘え過ぎじゃない?」
かごめの声で、珊瑚ははっと我に返った。
辺りはもう薄暗い。
「わざと珊瑚ちゃんに焼きもち妬かせて、喜んでるのよ。ちょっとひどいわよね」
「でも……あたしにはどうにもできないし」
「妬くばかりじゃなくて、向こうにも妬かせなきゃ」
思いもしなかった言葉に、珊瑚は驚きの表情を浮かべて、かごめを見た。
「だって、不公平じゃない? いつも弥勒さまばかりが好き勝手して。油断してると、珊瑚ちゃんが離れていっちゃうかもしれないって、弥勒さまにも危機感持たせなきゃ」
「でも、どうやって?」
薄闇の中、二人の少女は顔を寄せ合う。
怖いくらい真剣に、かごめはぴしっと人差し指を立てた。
「浮気するのよ」
「……」
「って、冗談よ。でも、傾向と対策としては、その線がいいと思うわ。今、珊瑚ちゃんの心配の原因はあのお手伝いさんでしょ? 同じように、弥勒さまにも心配の種を作ってやればいいのよ」
「浮気っぽいこと、すればいいの……?」
「そこまでしなくても、他に気になる人ができたとか、さらっと言ってみるとかね。もっと簡単には、町でカッコいい人を見かけちゃったとか、弥勒さまの前で、それっぽく他の男の人を褒めるのよ。絶対に反応があると思うわよ」
珊瑚はうつむき、考える表情をする。
「あまり思いつめないで。あたしは珊瑚ちゃんの味方よ」
かごめは珊瑚を励ましに来たのだろう。
明るく言って、立ち上がり、短いスカートについた土埃を払った。
珊瑚もほんの少し、気が軽くなり、ようやく笑顔を見せて、立ち上がった。
屋敷に着いて、そのまま夕餉が用意された部屋へ向かったかごめと別れ、珊瑚は夕餉の前に法師の顔を見ようと、屋敷の子息の部屋へと向かった。
その足が、廊下を曲がったところで不意に止まった。
子息の部屋の前で、抱き合う法師と小間使いの姿がある。
すぐに珊瑚の気配に気づいた弥勒が、振り向いて、苦笑を浮かべた。
「お帰りなさい、珊瑚」
はっとした小間使いが法師から離れ、「失礼いたします」と蚊の鳴くような声でつぶやいて、下を向いたまま、そそくさとその場を去った。
ここで夕餉をとる弥勒のための膳を運んできたらしかった。
細く開いている襖の向こうに微かな燈台の灯が揺れている。
その灯火でかろうじて見える険しい珊瑚の視線を受け、さすがに弥勒も気まずそうだ。
「あの娘の肩に、蜘蛛がついていたんです」
と、珊瑚が何も言わないうちに、弥勒は微苦笑を交えながら言った。
「取ってあげたら、何故かああいうことに」
「ふーん……」
珊瑚は胡乱な瞳で答える。
「信じていませんな。つまり、肩に蜘蛛が、と指摘したら、きゃあ、取ってください、と抱きつかれたわけです」
「抱きつかれただけには見えなかった。どう見ても抱き合ってた。法師さま、拒んでいるふうじゃなかった」
困ったように吐息を洩らし、弥勒は珊瑚に近づいた。
「確かに向こうからしがみついてきたんですよ。そこは取り違えないでください」
「じゃあ、法師さまがあの人を引き離せばいいじゃないか」
「か弱きおなご相手にそのような乱暴な振る舞いはできません」
ふざけているのか、本気なのか、法師は珊瑚の心を乱すようなことばかり言う。
珊瑚は眼を伏せ、昏い瞳で廊下の隅の闇を見つめた。
「……どうして、平気なの?」
「え?」
「たとえ、成り行きだとしても、別の女の人と抱き合っているところをあたしに見られて、どうして、そんなに平然としていられるの?」
珊瑚の考える恋仲の男女とは、そんなことを平気で行うものではなかった。
自分たちは、将来を約束した許婚同然の仲ではなかったのか。
「珊瑚」
弥勒は娘の両肩におもむろに手をのせた。
「それは私にとって、他のおなごに触れるのと、おまえを抱くのとでは、まるで違う行為だからですよ」
「同じだろ?」
「違います」
法師は断言した。
彼は珊瑚の肩にのせた手を彼女の背中に廻し、その華奢な身体をふんわり抱きしめる。
「ほら。ね?」
「どう違うの?」
「おまえが愛しいという私の心が伝わりませんか」
「……」
見た目は同じだ。
言葉で誤魔化しているだけじゃないかと珊瑚は哀しくなった。
「そんなの、解らない」
「私が信じられないんですか?」
「法師さまこそ、あたしの気持ちなんて、全然解ってないくせに」
本当に大事に思ってくれているなら、他の女には軽々しく触れないでほしいだけなのに。
「珊瑚」
「……もう、いいよ」
今にも涙がこぼれそうになり、珊瑚は弥勒の腕の中から身を引き、踵を返した。
弥勒は朝までこの部屋で子息に付き添う。
夕餉の前に、弥勒の顔を見て安心したかったのだが、余計に沈んでしまった重苦しさを抱え、重い足取りで、珊瑚は皆の待つ夕餉の席へ向かった。
* * *
翌日、珊瑚は子息の主治医の使いで、同じ町の主治医の自宅へ、薬草を受け取りに行くよう頼まれた。
主に珊瑚が入り用な品々の受け渡しなどを務めている。
衰弱している子息のため、屋敷の主人夫婦に泣きつかれた主治医は、幼い患者の体調が急変した場合に備え、犬夜叉たちが妖怪退治を終えるまで、屋敷に寝泊まりすることを承諾した。
通常の仕事を行う以外、その医者は常時屋敷にいる。
珊瑚は、もう何度か来ている医者の家を訪れた。
必要な数種の薬草の名を書いた紙片を片手に持ち、開け放たれた玄関から中を覗き込む。
「こんにちは、お医者様の使いです。誰かいませんか」
初老の医者に家族はなかったが、家には薬師と、最近雇われたばかりの下男がいる。
程なく奥から出てきた若者は下男のほうだ。
名を辰巳という。
「あ、珊瑚か。先生の使い?」
「こんにちは。これだけ薬草がほしいんだ」
辰巳は手渡された紙をちらと見て、すぐ、珊瑚に返した。
「自分で選んでよ。おれは字が読めねえし、若先生は留守だから」
いつもは若先生と呼ばれる薬師が薬草を選んで渡してくれるが、この日のように仕事で不在の場合もある。そのときは珊瑚が自分で薬草を選ぶ。
屋敷の使用人ではなく、彼女が使いに出されるのは、字が読めて、薬草の知識もあるからだ。
辰巳は珊瑚を奥の薬草棚のところまで案内した。
実直そうな彼は珊瑚と同じくらいの年齢である。
覚え書きと照らし合わせて薬草を選ぶ娘の姿を、横でじっと見つめていた辰巳が、ふと言った。
「……珊瑚、なんか眼が赤くねえ?」
途端にびくりとした珊瑚の手から、一掴みの薬草が落ちた。
2013.12.2.