「ご、ごめん」
 取り落とした薬草を、珊瑚は慌てて拾った。
 昨日、物陰に隠れて少しだけ泣いたことも、ほとんど眠れなかったことも、誰にも触れられたくない事柄だった。
「珊瑚、疲れてんじゃねえの?」
「そんなことはないよ。どうして?」
 辰巳は薬草を包むための紙を取り出して、珊瑚に手渡す。
「あんたは仲間とあの屋敷の坊ちゃんに取り憑いた妖を退治するために雇われてるんだろ? 毎日、昼も夜も働きっぱなしじゃねえか」
「あたしは比較的楽な役回りだから」
 そうつぶやき、珊瑚は気を引き締めた。
 ──法師さまやかごめちゃんは、もっと疲れているはずだ。
「ありがとう、辰巳。若先生が帰られたら、よろしく言っておいて」
「ああ」
 薬草の包みを抱え、辰巳に見送られて、珊瑚は医者宅を出た。
「珊瑚。また、来るよな」
 ふと、辰巳が珊瑚に声をかけた。
「たぶん。なかなかしぶとい妖怪みたいだから」
「また、あんたが来るの、待ってるよ」
「……」
 照れ臭そうな辰巳の言葉を受け、軽く眼を見張った珊瑚は、はにかんだような顔をしたが、すぐに表情を和らげた。
「うん、また来る」
 軽く会釈をして歩き出す娘の足取りは、昨日より少し軽くなっていた。

 屋敷に戻った珊瑚は、受け取ってきた薬草を医者に渡し、次の指示を仰いだ。
 仕分けと調合を頼まれ、すぐに取りかかろうと、彼女は自分たちにあてがわれた部屋へと戻った。
 そこには、徹夜明けの弥勒がいた。
「珊瑚」
 襖を開けて部屋へ入ってきた娘を見て、弥勒は立ち上がる。
「ちょっとこちらへ」
「なに」
 室内には七宝と雲母もいる。
 彼女の手を掴んで部屋を出た弥勒は、納戸部屋のような狭い部屋に彼女を連れて入り、光を入れるための細い隙間を残して、戸を閉めた。
 そして、至近距離で彼女の顔を見つめる。
「よかった。少し顔色がよくなっているな。眠っていないんでしょう? 今朝、見かけたときは眼が赤かった。……私のせいだな」
 切なげな低い口調に、不意に頬に熱を感じて、珊瑚は狼狽えた。
「法師さまは関係ない。たまたま、眠れなかっただけ」
 眼を伏せて、わざと強がってみせる。
「あんなこと、よくあることだし、別に気にしてなんかないよ」
「昨日のことは本当に誤解です。私は、おまえだけを……」
 弥勒は強引に珊瑚を抱き寄せ、自分の腕の中に閉じ込めようとした。けれど、彼女はその腕を振りほどこうと身をよじった。
「だから、誰にでもこういうことするのが嫌なの!」
「愛しく思うのは珊瑚だけだと言っているでしょう」
「でも、同じこと、他の娘にも平気でしてたじゃないか」
「珊瑚──
 切なげな彼の視線を拒み、唇を引き結んで、珊瑚は顔を斜めにうつむかせた。
 いつものように、ここですぐ許してしまうのは癪だった。
「あたしだって、その……町で、素敵な人を見かけて……」
「ほう?」
 弥勒の口調があまりにも静かなので、珊瑚は反発を覚える。
 意地になって言葉を続けた。
「素敵な人。男の人だよ。真面目でやさしくて、いい人なんだから」
「言葉を交わしたんですか?」
「そうだよ。あたしのこと、気遣ってくれて」
 弥勒はうつむく珊瑚の顎に手をかけ、上を向かせた。
「そうですか。だが、どんなにいい男でも、おまえが他の男に惹かれるはずがない。この唇に賭けてもいい」
 動揺する娘の黒珠の瞳を見つめ、ふっと笑みを浮かべた彼は、親指で彼女の唇をなぞった。
「いいですか?」
「駄目」
 唇を求める彼に、あくまでも頑なに珊瑚は拒んだ。
 かごめの助言の通りにしたのに、法師は何を言っても取り合ってくれない。こちらからも妬かせようとしていることを見透かされているようで、悔しかった。
 唇を噛み、珊瑚はぽつりとつぶやいた。
「……辰巳は、本当にやさしいんだ」
 未練そうに彼女の頬に触れていた弥勒の動きがふと止まる。
「誰?」
 法師が反応を示したことに、初めて手応えのようなものを感じ、珊瑚はちらと上目遣いに彼を見上げた。
「おまえに、本当にそんな男がいるんですか?」
「いるよ。お医者様のところで働いている人」
「若先生と呼ばれている方ですか? 妻帯者だとうかがっていますが」
 具体的な名が出たことで、ようやく、弥勒は危機感を覚えたようだ。
 珊瑚は法師が自分に関心を持ったことを、単純に嬉しく感じた。
「下働きをしている人だよ。この屋敷に老先生がかかりきりになるから、若先生だけじゃ手が足りなくて、つい最近、雇われたって」
「で、珊瑚はその男と親しいのか?」
 弥勒がさらに彼女を問いつめようとしたそのとき、戸の向こうで例の小間使いが法師を呼ぶ声が聞こえた。
「法師さま? そこにおいでですか?」
 戸に隙間が開けられていることに気づいたのだろう。
 何気なく納戸部屋の戸を開けて中を覗いた小間使いは、そこに法師と珊瑚が二人きりで顔を寄せ合っている姿を見て、気まずそうな顔をした。
「も、申し訳ありません。あの、お休みになっているはずが、お部屋にいらっしゃらなかったので……」
 法師が口を開く前に、珊瑚は彼の腕をすり抜けて廊下へ出た。
「珊……」
「あたしは薬草の仕分けをしなければならないから。先に部屋へ戻ってる」
 全身で彼を拒絶する娘の後ろ姿を見送り、法師はため息をつく。
「申し訳ありません。わたしのせいですね」
「いえ、これは私と珊瑚の問題です。おまえは関係ありません」
「昨日のこと、わたしが珊瑚さまにお話ししましょうか」
 小間使いが法師に淡い想いを抱いていたのは事実だ。
 そして、そんな小間使いの様子にやきもきしている珊瑚のことも法師は承知していた。
 ありていに言えば、珊瑚の可憐な嫉妬を楽しんでいたのだが、思っている以上に珊瑚が気に病んでいることを知り、昨日、彼は自分には世話をしてくれる娘がいると、小間使いにさりげなく告げた。
 小間使いは弥勒の言わんとしていることを察し、いきなり抱きついてきたのだ。
「今だけ」
 と彼女は言った。
「これで、法師さまをお慕いするのは最後にします。ですから、少しの間だけ、こうしていてください」
 弥勒は逆らわなかった。
 そこを、折悪しく珊瑚に目撃されてしまったのだ。
 彼女に嫌な思いをさせないために、適当な話を作ったが、どちらにせよ、法師の抱擁は珊瑚には重大な意味を持っていた。
「……どうも、私は悪い癖が抜けなくていかん」
 小間使いが気遣わしげに法師の顔を見上げた。
「心変わりなどするはずないのに、すぐ、珊瑚と出逢う前の癖が出る」
 自嘲気味につぶやく彼は、娘の去ったほうを淋しげに見ていた。

 弥勒が部屋へ戻ると、珊瑚は黙々と作業をしていた。それが終わると、彼女は彼の視線を避けて立ち上がろうとした。
 七宝と雲母は庭で遊んでいるのか、室内にはいない。
「どこへ行くんです?」
「散歩。気分転換に」
「では、私も行きましょう」
「法師さまは仮眠をとらなければならないだろう。あたしに構わず、ちゃんと休んで」
「おまえも寝ていないんでしょう? おまえの分も夜具を延べますから、少し眠りなさい。なんでしたら、一緒に寝てもいいですよ?」
 やさしくされ、ほだされそうになる。
 だが、珊瑚は立ち上がり、襖のほうを向いた。
「あ、あたしは約束があるんだ。そう、辰巳と会うの」
 弥勒は眉をひそめる。
「行くなと言ったら?」
「法師さまは他の女と平気で二人きりになるのに、あたしは別の男と会ってはいけないの?」
「珊瑚」
 たしなめるような声音に、珊瑚はびくりと身を強張らせた。
 まともに法師の顔を見ることができない。
 後ろめたい思いを誤魔化すために、さらに言葉で気持ちを覆い隠す。
「今は自由な時間なんだから、自分がしたいことをする。法師さまだって、そうすればいいじゃないか」
 娘の強情な態度に、弥勒の表情がわずかに険しくなった。
「……そうですか。では、そうさせていただきます」
 弥勒はすっと娘から離れ、衝立の向こうに延べられた夜具のほうへ行ってしまった。
 これでは売り言葉に買い言葉だ。
 引っ込みがつかなくなってしまった珊瑚は、仕方なく部屋を出て、屋敷を出た。行く当てもないので、辰巳のいる医者の家へと向かう。
 消沈している珊瑚は気づかなかったが、屋敷を出る彼女を、そっと弥勒が尾行していた。


「珊瑚」
 医者宅の裏口を覗き込む娘の姿を見つけた辰巳が、驚いた様子で彼女に駆け寄った。
「どうしたんだよ、珊瑚。来るのを待ってるって言ったけど、こんなに早く来るなんてさ」
「……ごめん。仕事があるよね」
「構わねえよ。抜けられる」
 辰巳は沈んだ様子の珊瑚を見て、彼女を川岸へと連れ出した。
 昨日、珊瑚が夕陽を見ていた河原を見下ろす辺りだ。
「おれに話でもあるのか? 何でも聞くよ」
「うん……」
 珊瑚は辰巳と連れ立って、川沿いの道を少し散歩した。
 並んで歩く自分たちの姿は道行く人たちにはどう見えるだろう。
 弥勒への罪悪感がどうしても消えない。
「やっぱり、少し疲れているみたいだ。ちょっと、気分転換したかっただけ」
「そうか。でも、おれに会いに来てくれたんだろ? 何て言うか……嬉しいよ」
「……」
 あやふやに立ち止まった珊瑚の肩を、不意に辰巳の手が抱き寄せた。
「やめて」
 反射的に珊瑚は彼の手を払いのけたが、彼は不思議そうに珊瑚の腕を掴んで言った。
「何でだよ。おれ、珊瑚のこと、初めて見たときから気になってたんだ。あんたのほうから誘ってくれたってことは、あんたも満更じゃねえんだろう?」
「それは……」
 ふと、横へ流れた珊瑚の視界に、前方の大きな橋が映った。
 その橋の上から背の高い法衣姿の青年がこちらを見つめていることに気づき、珊瑚ははっとした。
──法師さま)
「嫌なのか? おれ、珊瑚のことが好きなんだよ」
 珊瑚は驚いて辰巳を見遣る。
「え……でも、あたしは」
 辰巳の言葉に答えながら、珊瑚はそっと法師へと視線を戻した。
「また会いたい。明日だったら、ゆっくり時間が取れるんだ。森に薬草摘みにでも行かねえか。薬草のこととか、珊瑚に教わりてえし」
「……」
 橋の上の弥勒は、珊瑚が彼に気づいていると知っているはずなのに、止めに来る気配もない。ただ黙って静観しているのみだ。
 苦しくなって、珊瑚は挑むように辰巳を振り返った。
「いいよ。明日、一緒に薬草摘みに行こう」
「本当か?」
 辰巳の手が再び珊瑚の肩を抱く。
 こちらを見ている弥勒を意識し、珊瑚は、今度は辰巳の手を拒否しなかった。

 屋敷に戻ると、玄関先に、独り弥勒がたたずんでいた。
 帰ってきた珊瑚を見て、険しい調子で彼は問う。
「あれが辰巳という男か?」
 珊瑚は黙ってうなずいた。
「おまえが入れ込むような男には見えん」
「そりゃ、外見は法師さまのほうが勝るかもしれないけど、辰巳は、法師さまよりずっと……」
 射るような弥勒の眼差しに耐えきれず、思わず珊瑚は視線を逸らした。
「ずっと、なんです?」
「……真面目だし、誠実だし、やさしいし」
 弥勒は重いため息をついた。
「ああいう男は珊瑚には似合いません。私が言うのもなんですが、定まった職に就かず、悪い遊びを好む無頼に見えます。ああいう種類の男は、私のほうがよく知っている」
「辰巳のこと、何も知らないくせに。あたしがお医者様の家へ行くと、いつも真面目に働いている」
「出会って間もないおなごの肩を馴れ馴れしく抱くような男ですよ。あれは遊び慣れている」
 弥勒の声は静かだったが、まるで自分が責められているように感じ、珊瑚は向きになって言い返した。
「法師さまがいつもしていることじゃないか。辰巳はあたしを好きだと言ってくれたし、あたしだって、辰巳のこと──
 不意に言葉が途切れた。
 じっとこちらを見つめる弥勒の視線のせいで、胸が苦しい。
「浮気じゃ……ないよ。法師さまとの約束だって、解消してもいい」
「本気で言っているのか?」
 弥勒は愕然と珊瑚の肩を掴む。
 視線を落としたまま、彼女は続けた。
「そうしたら、法師さまだって、好きなときに女を口説けるだろ?」
「私の眼を見て言いなさい。おまえは心変わりなどしない。そろそろ、許してくれてもいいでしょう」
 一瞬、躊躇いはしたが、珊瑚は、頑なな激しい瞳で、今にも泣き出しそうに法師を睨んだ。
「辰巳のことが好きになった。心変わりしたの。だから、法師さまとはもう──
 それだけを言うと、彼女は彼を振り切るように、屋敷の中へ駆け込んだ。
 残された弥勒は呆然となる。
 珊瑚のことは誰よりも理解しているつもりだが、こんなふうにはっきり言葉で拒絶されるのは、心の奥底に深く棘が刺さったように、どうにもできない苦痛を感じた。

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2013.12.14.