太陽が傾き、刻一刻と仄暗さが増していく。
 森を行く珊瑚は、ふと、意識が遠くなるような眩暈を覚え、足をとめて連れの男を見た。
「辰巳、そろそろ帰ろう。あたしは黙って出てきたから、あまり遅くまではいられない」
「何言ってんだよ。まだいいじゃねえか。疲れたんなら、どこかで休もうぜ」
 色濃い影を落とし始めた森の中に、二人きりで足をとめるのはよくないだろう。
「あたしは帰る。薬草も摘んだし、今日はもういいだろう?」
「じゃあ、こっちだ」
 再び眩暈に襲われ、珊瑚は額を押さえながら、辰巳の指す方向へ歩き出そうとした。が、出し抜けに足をとめた。
「方向が違う。これじゃ、森の奥へ向かうことになる」
「いいんだよ、これで」
 辰巳は、道の端に一定の間隔で置かれた小さな積み石を見て、密かに口角を上げた。
 この先の小屋に仲間たちが到着しているという、それは目印だった。

 法師を乗せた雲母が森の入り口になめらかに降り立つ。
 猫又の背から降りた弥勒は、錫杖を手に、ふと、西の空を見上げた。
 夕焼けの茜色が血の色に見える。
 嫌な胸騒ぎがした。


 ふらつく頭を抱え、立ち止まってしまった珊瑚を、辰巳が抱きかかえるようにして支えた。
「大丈夫、一人で歩けるから」
「大丈夫じゃねえだろ? 介抱してやるから。ほら、こっちだよ」
「待って。ふらふらするんだ。あたしは一人で平気だから、辰巳は先に帰って、あたしの仲間に猫又をここへ寄こしてほしいと伝えてくれない?」
「寝てりゃあ治るよ。こっちだ、来い」
 薬草を摘んだ籠などの荷をその場に放り出し、辰巳は珊瑚の手首を掴んで、彼女の身体を引き寄せた。
「嫌だって!」
 頭がぼんやりする分、得体の知れない恐怖を覚え、珊瑚は抗う。
 辰巳は鋭く口笛を吹いた。
 それが合図だったらしい。しんとした薄闇の奥から、自分たち以外の人の気配が草を踏んで近づいてくることに、珊瑚ははっとなった。
「辰巳、どういうこと……?」
「解らねえのか? あんたをおれのものにするんだよ」
「え?」
 混乱の中、一服盛られたのだと気づいたが、その現実が、珊瑚にはにわかには信じられなかった。
 力の入らない身体を辰巳の肩に担がれそうになって、珊瑚は必死に抵抗した。
「嫌、触るな! 法師さま……法師さま!」
 半ば泣き声で叫ぶが、朦朧と薄れていく意識の中では、叫んでも暴れても大した効果はない。彼女一人の力ではどうすることもできなかった。
 弥勒の忠告を聞いていればと悔やんだが、新たに現れた二人の男に、珊瑚はあっという間に手足を押さえられてしまった。
「畜生っ……放せ!」
「しっかり抱えろ。暴れるぞ」
「おい、おまえは足のほうを持て」
 次第に意識が遠のいていく。
 そのまま意識を失ってしまった珊瑚は、三人の男たちによって、森の奥にある古びた小屋へと運び込まれた。


 埃っぽい小屋の床の上に、珊瑚は乱暴に投げ出された。
「う……」
 身体を打ったが、小さく呻くだけで、目を覚ますことはない。
 彼女を見下ろす男が問うた。
「何で気ぃ失ってんだ? おれは意識のある女を犯るほうが好きなんだがな」
「ちょっと眠り薬をな。水に混ぜて飲ませた。言ったろ? こいつは妖怪退治屋だって。隠し武器を持ってやがる。味見しようとしたら、危なく生命を落としかけたぜ」
「何だよ、おっかねえな」
「ま、意識のない女を好きにするのも、乙なもんさ」
 男たちの酷薄な視線が、舌舐めずりをするように眠る珊瑚の肢体をなぞる。
「順番どうする?」
「一番手はおれだ。おれが目を付けた女だからな」
 三人の足許で珊瑚が苦しげに身じろぎをした。
「ほう……し、さ……」
「おい、何か言ってるぞ。眠り薬が効いてねえんじゃねえか?」
 辰巳は舌打ちをした。
「眼を覚まされちゃ困るな。おまえ、足を押さえてろ。おまえは腕だ」
 仲間たちに珊瑚の腕と足を押さえさせ、辰巳は横たわる珊瑚の褶を外し、小袖の帯を外した。そして、その帯で、頭上に上げさせた珊瑚の両の手首を固く縛った。
「このまま犯れよ、辰巳。おれらが女を押さえていてやるからよ」
「いや、外を見張ってくれ。女は黙って出てきたと言っていたが、仲間が捜しに来るかもしれねえ。誰か来たら、追い払え」
「しょうがねえな。早くしろよ」
 不服そうな二人を小屋の外へ追い出すと、扉を閉め、辰巳は空虚な瞳で珊瑚を見下ろした。
 小屋の中は薄暗かったが、壁板の隙間から洩れ入る薄明かりが、珊瑚の姿を朧げに浮かびあがらせていた。
(夕──
 両の手首を縛られ、無防備に横たわる珊瑚の傍らに膝をつき、帯が解かれた小袖の衿に、辰巳は手をかけた。
 合わせが広げられ、その下の肌小袖が露になり、辰巳の手がさらに肌小袖の衿を押し開く。
 薄闇に浮かびあがる白い肌は仄蒼く神秘的で、かつて愛した女の切ないほどの肌の白さを思い出させた。
「夕。今度こそ、おれのものになれ」
 押し広げた衿元から覗く珊瑚の白い首筋に顔を埋め、辰巳は手探りで彼女の肌小袖の帯を解いた。
 娘が小さく呻く。
 突如、小屋の扉に何か重いものがぶつかる音がした。
「……!」
 続いて扉が蹴破られる。
 驚いた辰巳が振り返ると、そこには黒い人影が──錫杖を持った法師がいた。
「珊瑚!」
 弥勒の瞳に、両手を縛られ、帯を解かれ、意識なく横たわる珊瑚の姿と、乱れた肌小袖に手をかけている男の姿が映る。
「てめえ……!」
 愕然とした法師が顔色を変えて辰巳の胸倉を掴んだ。
 そのまま、怒りに任せて相手に一撃を喰らわせると、倒れる男には目もくれず、彼は珊瑚のそばへと膝をつく。
「珊瑚、大丈夫か!」
「う……」
 依然、珊瑚に意識が戻る気配はなく、弥勒は錫杖を置き、大きくはだけられた彼女の衣の合わせを整え、手首を縛った帯を解いた。白い手首には縛られた痕が痛々しく残っている。
 立ち上がった法師が辰巳を鋭く見据えた。
「ま、まだ何もしてねえよ」
「問答無用……!」
 弥勒は辰巳に掴みかかると、容赦なく殴りつけ、狭い小屋の壁に叩きつけた。
 見張りの二人はすでに倒され、気絶している。小屋の扉にぶつかったのは殴り飛ばされたそのうちの一人だ。
 弥勒の後ろから入ってきた雲母が、珊瑚を守るように、彼女のそばへ寄り添った。
「意識のない女を縛り、辱めるなど……! 大切な女をこんなふうにされて、黙っちゃいねえぞ!」
 なおも弥勒は激情のままに辰巳を殴り続ける。派手な音を立て、粗末な小屋の壁に打ちつけられた辰巳の身体が、どさりと音を立てて床に崩れた。
 反撃する隙もなく殴られて、口の中に血の味が広がる。切った唇から流れる血を辰巳は手の甲で拭った。
 怒りに震える弥勒の左手が、無意識に右手の数珠を握りしめた。
「……殺すのか?」
 ぽつりと、辰巳が言った。
「殺せばいい。その右手の風穴で」
「なに?」
「殺せ。夕を殺したように」
「ゆう……?」
 弥勒は訝しげに辰巳を見た。
「おまえは覚えてねえだろうがな。一年以上前になるが、妖怪に追われていたおまえを助けた娘だ」
 弥勒ははっとした。
「おまえ、夕と同じ村の者か? では、おまえはおれを知っていたのか?」
「女の名前は覚えてるのか。さすが、色男は違うぜ」
 辰巳は嘲るように吐き捨てた。
「おまえを逃がしたあと、夕は死んだよ。妖怪に襲われてな。あいつとは幼馴染みだが、妖怪の毒が回り、最後はおれのことも解らなかった」
 弥勒は絶句する。
 まだ犬夜叉たちと出会う前、一人で旅をしていた頃、妖怪に襲われ、重傷を負ったところを夕という娘に助けられたことがある。
 だが、結果的にそれが夕の村に妖怪の群れを呼び込むことになったのだ。
「恋仲だったのか?」
「片想いだよ。夕は死ぬまでおまえのことを案じていた」
 村人たちに迷惑がかからないよう、法師は怪我の完治を待たずに村を去ったが、入れ違いで、仲間を法師に殺された妖怪たちが村を襲った。夕の親をはじめ、何人もの村人が犠牲となった。
 怪我を負い、妖怪の毒がもとで床に臥した夕を、辰巳はでき得る限り看病したが、やがて彼女も儚くなった。
 彼女が息を引き取る前の晩、辰巳は夕と契りを結んだ。
 しかし、最後にようやく気持ちが通じたと思ったのは辰巳だけで、彼を受け入れたように見えた夕は、「法師さま」と辰巳に呼びかけ、微笑んだのだ。
 毒に侵された彼女は、目の前にいる相手が誰なのかすら、理解していなかった。
「おまえさえ来なければ、村が襲われることはなかった。夕だって、死なずにすんだんだ」
 微かに蒼ざめ、弥勒はじっと辰巳を見つめた。
「ならば、おれへの復讐が目的か? では、何故、珊瑚をこのような目に遭わせた。珊瑚は関係ないだろう!」
「真正面から立ち向かえる相手だとは思ってねえよ。それに、珊瑚を凌辱するほうが、おまえは何倍も苦しむはずだ」
 最後に夕を抱いたことをひどく悔やんだ。
 わずか数日で夕の心を奪った男への、これは復讐だ。
 風穴を持つ法師の噂を頼りにあちこちを旅し、ようやく追いつき、法師に恋仲の娘がいると知って、夕を奪われた代わりに法師の女を奪おうと決意した。
 愛する者を奪われた気持ちを味わわせてやりたいと、その一念で、珊瑚に近づいたのだ。
「……行け」
 右手を下ろし、弥勒はつぶやいた。
「おれの気が変わらぬうちに、どこへなりと去れ」
「仏の慈悲ってやつかい?」
 嘲るように辰巳が言った。
「今のおれは法師ではない。ただの男だ。おまえに与える慈悲などない。おまえを見逃すのは、夕への弔いだ」
 弥勒は屹と辰巳を見据える。
「ただし、二度と珊瑚の前に現れるな。そのときは、生命の保証はないと思え」
 弥勒の眼光にすくみ、威圧されたように、辰巳はふらふらと立ち上がった。
 警戒しながら小屋の外へ出る辰巳の姿を見送ってから、弥勒は珊瑚のそばへ膝をついた。
「珊瑚、すまない……おれのせいで」
 小声でささやき、意識のない娘を抱き起こし、法師はそっと、彼女の身体を抱きしめた。

* * *

 弥勒は、仲間たちの待つ屋敷へは戻らず、町の宿屋に部屋を取った。
 屋敷ではなく別の場所へ珊瑚を連れてきたのは、静かなところで、まず心を落ち着かせてやりたいとの弥勒の配慮だった。
 珊瑚はまだ眠っている。
 辺りはすでに夜の帳に包まれていた。
 珊瑚がひどく疲労しているからと、法師はそれだけを文にしたため、雲母に持たせた。
 小さく点された燈台の灯が朧に部屋を照らす中、夜具に横たわる珊瑚が小さく身じろぎをする。
「う……ん」
 そばに座っていた弥勒は、すぐに珊瑚のほうへと身を乗り出した。
 睫毛を震わせ、薄く眼を開け、不安げにまばたきをする珊瑚は、ここがどこかも解らない様子だったが、伸し掛かるような人影に気づくと、はっと眼を見張り、悲鳴を上げた。
「や……いやああ!」
 気丈な娘がここまで恐怖する様に法師の胸は痛む。
 震える彼女の耳元に、彼は低くささやいた。
「珊瑚、私です。解りますか」
「ほう、し、さま……?」
「もう大丈夫ですよ。ここは町の宿屋です」
「……」
 珊瑚は横たわったまま、恐る恐る顔を上げ、法師を確認した。
「法師さま……」
「私がそばにいますから、安心して眠りなさい」
 けれど、彼女は彼の視線を拒絶するように背を向けて、夜具の中で身を縮めた。
「……見ないで」
 たちまち声に、涙がまじる。
「あたしを見ないで。一人にして。法師さまはみんなのところに戻って」
「珊瑚。おまえは混乱している。話をするのは明日にしましょう」
「あたしは法師さまを裏切ったんだ……!」
 衾を握り、押し殺した声ですすり泣く珊瑚の髪を、弥勒の手がそっと撫でた。
「眠り薬を飲まされただけです。心配しなくていい。身を穢されてはいません」
「でも! 結果的に法師さまを裏切ることになったのは変わらない。あたしが軽はずみな行動を取らなければ、こんなことには……」
「珊瑚」
 弥勒はしばらく迷っていたが、ごく自然に、娘が横たわる夜具の中へと身を滑らせた。
 背を向けた珊瑚を後ろから抱きしめると、彼女はびくりと身体を強張らせたが、息をひそめてじっとしている。
「妖怪に襲われたのだと思いなさい。人ではない。あれは魔です」
「……」
「人の心に巣食った魔がおまえを襲った。だが、私は間に合った。眠らされたが、おまえは無事だ」
 身を固くしていると、少し身を起こした法師の吐息が、珊瑚の耳朶に妖しくかかった。
「奴の目的は私だった。珊瑚は巻き込まれただけで、何も悪くない。明日、全て話します。ですから、夫婦になる約束を解消するなど、そんな悲しいことは言わないでください」
 弥勒は涙に濡れた珊瑚の頬へ顔を近づけ、唇の端にそっと口づけた。
「おまえはこれ以上傷つく必要はない。私に、おまえを守らせてくれ」
 密やかな声音が真摯に響き、珊瑚の眼から新たな涙がこぼれ落ちた。
 声を殺して泣く珊瑚を、弥勒は自分のほうへと向き直らせた。
 そして、彼女を固く抱きしめる。
「ごめんなさい……法師さま」
 やさしく髪を撫で、涙をぬぐってやると、弥勒は彼女を仰向けに倒し、口づけで答えに代えた。
 何も言わず、何度も何度も唇を合わせる。
 数日分のわだかまりが氷解していくのが解った。
 珊瑚にとって、弥勒の抱擁は何よりの癒しだ。
 ここ何日かはまともに眠っていない。互いのぬくもりに安堵すると、愛しさに身を委ね、唇を重ね、二人は抱き合いながら深い眠りに落ちていった。
 いつしか、灯明皿の灯芯が燃え尽きた。
 闇に抱かれ、二人は眠る。
 目覚めたとき、朝の光で最初に目にするのは、愛しい人の顔だろう。

≪ 第三話 〔了〕

2014.1.16.

匿名さんから、「弥勒になんらかの恨みをもつ男が、復讐のために婚約者の珊瑚を奪おうとする。ちょいダークオリキャラが登場」
JUNさんから、「弥勒の浮気に怒ったかごめの入れ知恵で、珊瑚がわざと「ほかに好きな人ができた」と婚約破棄宣言して冷たくあしらい激しく弥勒を落ち込ませ、目の前で適当な男(軟派してきた)と仲良く(手をつないだり、肩を抱かれたり)して見せつけ、図に乗った軟派男に薬で眠らせられ、数人で手込めにされそうな非常に際どい所を、嫉妬と恨みで燃える弥勒に助けられる。最後は激甘甘で」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。