大きな町には娼家がある。
 黄昏に紛れ、一軒の娼家の裏庭にやってきた人影を見て、そこにたむろしていた二人の若者が顔を上げた。
 見たところ、二人とも少年というほど幼くはないが、弥勒よりも年上ではないだろう。
「おう、辰巳」
 そのとき、裏庭に面する建物の戸板が開けられ、中から一人の女が顔を出した。
 派手な化粧を施し、粋に髪を結いあげた若い女は、この娼家の女郎の一人だ。
「ちょいと、あんたら」
 そこに居座り、安酒を舐める無頼の輩に、女は呆れたように眉をひそめた。
「ちゃんと中で遊んでってくれるんだろうね。裏で酒呑んでるだけじゃあ、あたしら、商売にならないよ。いい加減、場所代を取るよ」
 不機嫌さを隠さない女郎に、辰巳がそっと銅銭を渡した。
「あとで上がらせてもらうからよ」
 女郎は渡された銅銭に満足したらしく、「待ってるよ」と婀娜っぽく辰巳にささやき、戸を閉めて、中へ戻っていった。
「おめえ、よそ者のくせに羽振りがいいよなあ」
 羨ましそうに若者の一人が言うと、辰巳はちょっと肩をすくめ、唇の端をゆがめた。
「こんなものは要領さ。うちの先生方は人がよくて、雇い人を疑うことを知らねえから、薬草棚からちょっと薬草を失敬して売り払っても、気づかれることはねえ」
「いつかはバレるさ」
「その頃にはおれはこの町にはいねえよ。数日中に別の土地へ行こうと思っている」
「薬草をくすねた以外にも、まずいことをやらかしたのか?」
 仲間たちは嗤った。
 辰巳もつき合いで笑ってみせる。
 二人が回し飲みをしていた大きな徳利を渡されて、それに口をつけ、思い出したように辰巳は言った。
「それより、おまえら。女郎より、ずっといい女を抱きたくねえか?」
 興味を引かれた二人の無頼は身を乗り出した。
「もしかして、辰巳の働き先によく来る女か? 確かに上玉だよな」
「あれは堅気の娘だろう? おめえの想い人じゃねえのか?」
 辰巳は鼻で笑った。
「惚れちゃいねえよ。あの女、思いの外、お堅くてよ。この町を出ていく前に犯ろうと思ってるんだが、おまえらもどうだ? 一緒にやらねえか?」
 二人は顔を見合わせた。
「そりゃあ、あれほどの美人を抱ければいうことはねえが、辰巳、金持ってるんだろう? 女郎じゃ不足なのか?」
「あの女じゃなければ、意味がねえんだよ」
 吐き捨てるように言った辰巳の言葉に、やっぱり惚れてんじゃねえかと仲間たちは囃し立てたが、当人は静かに酒を含むだけだ。
 真冬の湖面のような、ひやりと冷たい彼の態度に、仲間たちは漠然と違和感のようなものを覚えた。
「惚れた女をまわしていいのか?」
「妖怪退治屋だと聞いてる。かなり腕が立つらしい。おれ一人より、三人がかりのほうが確実に犯れるからな。勝気だが、あの美貌でかなり初心な女だぞ。ああいうのは女郎にはいねえ。どうだ?」
「たまらねえな」
 仲間たちはごくりと唾を呑む。
「……本当に珊瑚は、あの野郎には勿体ねえくらいだ」
「何か言ったか?」
「いや。こっちの話だ」
 酒を喉に流し込んで唇を拭い、辰巳は徳利を仲間へ返した。
「いつ犯る?」
「明日。女と二人で森に行く約束をした。おまえら、暇だろ? 森の中で待ち伏せてろよ」
 何の感情も感じさせず、にやりと笑う様は、医者の家での実直そうな彼とはまるで別人だった。

* * *

 障子越しの朝日に頭痛を覚える。
 とても眠れそうになかった弥勒は、夜間、二日続けて、妖怪に憑かれている屋敷の一人息子の枕元に付き添った。
 依然、一人息子の意識は戻らないままだったが、その様子が昨日とは微かに異なっていることに気づき、弥勒は横たわる幼子の額に手を乗せた。
「犬夜叉」
 低い声で呼ぶと、すぐに隣室との境の襖が開かれ、控えていた半妖の少年が姿を見せた。
「どうした、弥勒」
「憑依している妖怪の様子が変わりました。今日、ご子息の身体から妖怪を引き離し、滅しましょう」
「おう、いつでもいいぜ。やっと、おれの出番だな」
「かごめさまが同席しているほうが、ご子息の苦痛が和らぐでしょう。老先生にもお伝えして、朝餉をすませたあと、すぐに退治に取りかかりましょう」
 犬夜叉はうなずいたが、ふと、眉をひそめた。
「それはそうと、おまえ、珊瑚とどうなってるんだ? 珊瑚はずっとぴりぴりしてるし、なんか怖えんだが」
「……」
 刹那、珊瑚以上に剣呑な表情で、ちらと弥勒が犬夜叉を睨んだので、思わず犬夜叉は口をつぐんだ。
「おはよう」
 廊下側の襖が開き、かごめが顔を出した。
 夕べ、彼女は珊瑚や七宝と一緒に休んだのだが、やはり、こちらが気になって、早めに起きてきたようだ。
 法師が状況を説明すると、少女はうなずいた。
「解った。老先生にはあたしから伝えるわ。それより、弥勒さま」
 かごめはそっと弥勒に近寄り、声をひそめた。
「珊瑚ちゃんとの喧嘩、こじれてるんでしょう? ごめんなさい。あたし、珊瑚ちゃんを励ますつもりで、余計なこと言っちゃったかも」
 弥勒は軽くため息をついた。
「そんなことだろうと思っていました。珊瑚にはない発想ですからな。珊瑚はこういう駆け引きに器用ではありません。引き時が解らなくなってしまったんですよ」
「妖怪退治はあたしと犬夜叉でやるから、弥勒さまは珊瑚ちゃんと仲直りをして」
 ある意味、二人の喧嘩が長引く切っ掛けを作ってしまったことを、かごめは気にしているようだ。
「そうもいきません。ご子息は衰弱が激しいですし、引き受けた仕事を放り出すことはできません。これを終えてから、珊瑚と話します」
「でも、珊瑚ちゃん、今日、町の男の人と森へ行くって」
「えっ……? 本当ですか?」
 慌てたように訊き返す弥勒を見て、またしても犬夜叉が不用意に言葉を挟んだ。
「おい、珊瑚が浮気してんのか?」
 ぴくりと反応した法師の険悪すぎる目付きに、思わず犬夜叉も怯む。
「珊瑚は、私以外の男に惚れたりしません」
 弥勒は低い声で言葉を続けた。
「ましてや、それが本気だったり、私からそいつに心変わりするなど、そんなことが断じてあるわけがありません」
 冷静を装ってはいるが、どう見ても自分に言い聞かせているような口振りに、犬夜叉とかごめは困ったように顔を見合わせた。

 その朝、にわかに屋敷は慌ただしくなった。
 この慌ただしさに紛れて、珊瑚が姿を消しはしないかと弥勒はそわそわしていたが、彼女は黙々と自分に与えられた役目をこなしている。
 弥勒の視線を避けてはいたが、仕事に対する責任感は強いので、万が一、妖怪が犬夜叉の鉄砕牙を逃れた場合に備えて、彼女は部屋の外で待機していた。
 遅くに授かった一粒種の生命を案じ、蒼白な顔で報告を待つ屋敷の主人夫婦のそばには、七宝と雲母が付き添っていた。
 妖力の強い妖怪だったが、退治そのものは単純な作業である。
 かごめの霊力で幼子の状態を安定させ、弥勒が破魔札を使って子供の身体から妖怪を引き離し、犬夜叉が斬る。衰弱している幼子も何とか持ち堪えることができた。
 あとは主治医に任せればよい。
 診察した主治医によれば、安静にしていれば、徐々に健康も体力も取り戻すだろうとのことだった。
「ありがとうございます」
 無事、妖怪退治を終え、主人夫婦はひれ伏すように一同に礼を述べた。
「皆様、お疲れでしょう。朝餉は粥を少し召し上がられただけですし、すぐに食事を用意させます。それまで、どうぞごゆるりとおくつろぎください」
 感謝の意を表すため、屋敷側は心尽くしの料理の準備に取り掛かった。
 弥勒は一刻も早く珊瑚をつかまえ、彼女と二人きりになりたかったのだが、断り切れずに食事の席に臨むこととなる。
 だが、気づけば、珊瑚の姿が見えなくなっていた。
 弥勒は法師として、一行の年長者として、今回の仕事の采配をふるっていただけに、屋敷の主人の相手を務めねばならない。珊瑚のようにさっさと座を外すわけにはいかなかった。
 珊瑚は男と出かけるつもりだとかごめが言っていたことを思い出し、叢雲のような不安が押し寄せたが、適当なところで己も座を抜け出し、珊瑚を追えばいいと、無理やり自分を納得させた。


 謝りたいのに素直になれない珊瑚は、弥勒を意識するあまり、労いの膳が整うのを待たず、彼から逃げるように辰巳のもとを訪れていた。
 妖怪退治のために、森へ行く約束の時間よりだいぶ遅れてしまったが、屋敷の使用人に辰巳への言付けを頼んでいたので、彼は医者の家で彼女を待っていた。
「ごめん。遅くなってしまった」
「平気だよ。そもそも、それが珊瑚の仕事だし、うちの先生の仕事でもあるし」
 珊瑚は辰巳と薬草を摘むための籠を持ち、町を出て森へ向かった。
 町からそう遠くはないが、大きな森だ。
 薬草を探して二人で森の中を歩き、珊瑚は彼に、その見分け方やそれぞれが持つ効き目などを説明した。
 ひとしきり薬草を摘んだあと、せせらぎを見つけ、その畔でひと休みしようと二人は並んで草の上に腰を下ろした。
 珊瑚は辰巳に彼のことをいろいろ尋ねた。
 この若者が、法師が言っていたような人間ではないという確証がほしかったのである。
「おれの生まれはこの町じゃねえよ。医者の先生に雇ってもらったのも、ついこの間だし」
「その前はどこにいたの?」
「あちこち、旅してた」
「旅?」
「しなければならないことがあってさ。人を……捜してた」
 流れ者というわけだ。
 だが、目的があって旅をしていたのなら、自分たちと同じだ。
 彼が無頼だという証拠にはならないと珊瑚は思った。
「珊瑚」
 せせらぎを見つめていた辰巳が、不意に思いつめたような声を出した。
「おれ、あんたのこと……解るだろ? もう、我慢できねえんだよ」
「ちょっ……嫌! 辰巳!」
 突然、抱きしめられそうになって、珊瑚はひどく狼狽した。抵抗して身を引いたが、肩を掴まれ、否応なくその場に押し倒される。
「やめて!」
 彼は息を荒げ、彼女の衿元を押し広げようとしたが、眦をきつくして彼を見遣る珊瑚は、彼の手にぴたりと己の右腕を当てた。
「あたしは仕事柄、隠し武器を身に付けている。腕に仕込んでいるものが解るか? 力では男に敵わなくても、これでも妖怪を相手にしているんだ」
 彼女が本気であることを悟り、たじたじとなった辰巳はおとなしく珊瑚の上から身を起こした。
「わ、解ったよ」
 だが、このまま引き下がる気はない。
 あらかじめ決めておいた仲間からの合図があり次第、珊瑚を森の奥の小屋へと連れ込むつもりだ。
「本当に悪かった。気分を直してくれ」
 うなだれる辰巳はひどく落ち込んでいるふうに見えた。
 気まずい場を取り繕うように彼が差し出した竹筒を、珊瑚は受け取り、それに口をつけて竹筒の水を飲んだ。
 町の井戸で汲んだ水だが、何か妙な味がした。

 弥勒は、ふと、食事の席を立ち、屋敷の濡れ縁に出て空を見上げた。
 胸騒ぎがする。
 もう限界だった。
「雲母」
 呼ばれた猫又が法師の肩に軽やかに乗った。
「そろそろ抜け出します。珊瑚を追ってくれますね」
 みゃう、と雲母は愛らしく応える。
 犬夜叉とかごめには離れた場所から目配せをしただけだが、二人とも了解したようだ。
 いつの間にか、時刻は夕刻に差しかかろうとしていた。

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2013.12.23.