浮き島奇譚 −第六話−
鬼たちの集落から山へと続く一本道を、緊張の中、弥勒と珊瑚は足早に進む。
途中、記憶通りの場所に落ちていた錫杖を見つけ、この道で間違いなかったことに珊瑚はほっとした。
拾い上げた錫杖を、珊瑚は弥勒に手渡した。
「ありがとう」
受け取る弥勒もさすがに疲労の色が濃い。
「追ってはこないようだな」
「うん」
「実は、ひとつ気がかりがあったんです」
「気がかり?」
弥勒は小さくうなずいた。
「ここへ連れてこられた人間の娘たちが、里のどの辺りにいるのか見当もつかなかった」
娘たちが巻き添えを食うようなことになれば、法師は否応なく風穴を封じられていただろう。
「それに気づきながら、あいつが敢えて珊瑚を諦めたのなら、娘たちはこの里で平凡な幸せを掴めるかもしれませんな」
「……」
では、タケルはやはり、自分と交わした言葉を意識していたのかもしれないと珊瑚は思った。
弥勒は空を見上げ、月の位置で、脱出までに残された時間を確認した。
月明かりは幻想的に淡い色彩を伴い、たたずむ二人へ降り注ぐ。
二人はその光に仄白く照らし出された道を、ひたすら前へと進むのだった。
枝折りを目印に木立の中を歩き続けていた弥勒と珊瑚は、しめ縄の掛かった洞穴を見つけた。
「ここです、珊瑚。この洞穴の向こうが、もといた村の裏の山に繋がっています」
「しめ縄? この洞穴は神聖な場所ってこと?」
「これは道切りではないでしょうか。外界から邪悪なものが入ってこないよう、里と外を仕切るためのしるしです」
「鬼が、邪悪なものを恐れるの?」
弥勒は少し考えるふうに、真っ暗な口を開けている洞穴へ目を向けた。
「鬼を童子と呼ぶとき、それは神性を表す言葉として使われる場合がある。大多数の鬼は邪念のみで存在しているが、あの童子たちには人間と同じような秩序や正義があるようです。しめ縄を張ることも、守るべき古いしきたりを守っているのでしょう。……おや?」
法師はわずかに眉をひそめた。
「どうしたの?」
「気のせいかもしれんが、洞穴の入り口が、来たときよりもだいぶ小さくなっているような」
「え?」
洞穴は、小柄な人間が一人通るのがやっとの大きさだ。
長身の弥勒は身を屈めねばならない。
「向こうからはもっと細い岩の裂け目に見えましたが、こちら側では普通に立って通れるほどの大きさだった。でも、今は」
「洞穴自体が縮んでるんだ。だとしたら、出口はもっと小さくなっているかもしれない」
夜明けまでには、跡形もなく消滅してしまうだろう。
「急ぎましょう、珊瑚」
励ますように目と目を見交わし、二人は月光の届かない洞穴の内部へと足を踏み入れた。
錫杖で前方を探りながら進む弥勒のあとに、珊瑚が続く。
中は真っ暗だ。
「珊瑚、足許に気をつけて」
「うん」
法師の気配だけを頼りに、珊瑚は注意深く歩を進めた。
圧迫感で息が苦しい。どんどん洞穴の幅が狭くなる。
「法師さま」
思わず声が出た。
「この洞穴、今も少しずつ狭くなってない?」
「おまえもそう思うか」
このまま外へ出られなくなったら──そんな考えがよぎり、ぞっとした。
手探りで彼に触れようと手を伸ばすと、不意に立ち止まった弥勒の背中に珊瑚の手がぶつかった。
「法師さま?」
「珊瑚、見えるか? 前方が微かに明るい。月明かりだから陽の光ほど明るくはないが、あれが出口だ。先に行け」
「法師さまは?」
「もう少し空間を安定させねばなるまい。童子たちが法力を恐れるなら、法力で少しは道が閉じる速度を遅らせることができるかもしれん」
「だって、法力は……」
「大丈夫、全て喰われてしまったわけではない。それに、捕らわれている間に少しは回復した」
その場に錫杖を突き立て、持てる力を全て集め、弥勒は空間に念を送った。
息苦しい圧迫感がわずかに和らいだ気がした。
「珊瑚、早く」
低い声に促され、念を集中させる法師の横をすり抜けて、闇の中、珊瑚は月明かりを目指してまっすぐ進んだ。
突然、辺りが仄白く染まった。
細い岩壁の亀裂から外へ出た珊瑚は、目の前の景色に息を呑む。
蒼白い月に照らされ、かずら橋が渡されたそこは、遥か下に激しい渓流が流れる絶壁だ。
そして、ただひとつの道である細長いかずら橋は、かずらのあちこちが金色の真砂と化し、きらきらと瓦解を始めていた。
朧な月光に溶けていくようだ。
「夜明けが近いようだな」
岩の裂け目から出てきた弥勒が、珊瑚の背後で重い吐息とともに言った。
「法師さま、橋が……」
「里に続く道が閉じたあと、童子たちの里がこの奥にあったという痕跡を残さないためだろう」
かずら橋が消滅すると、今、二人がいる場所は完全な断崖絶壁となる。
「これを渡ってしまわないことには動きが取れません。走り抜けますよ、珊瑚」
「う、うん」
橋の長さは優に三十間はある。
いくら月が明るいといっても、夜間の見通しは悪く、少しずつ瓦解していく橋は危険極まりない。薄闇に浮かび上がるその様は、かずらのあちこちが、火の粉を噴いているようにも、月光に侵食されているようにも見えた。
覚悟を決め、弥勒に続いて、珊瑚は今にも崩れ落ちそうな危うい橋を渡り始めた。
少しずつ、少しずつ、じわじわと脆く剥がれ落ちていくかずらの橋の上を、弥勒と珊瑚は、常人には不可能な身のこなしで、一定の速度で進んでいく。
走ることはできないが、これならば渡り切れるかもしれない。
しかし、橋の中ほどまで来たとき、珊瑚の足が止まってしまった。
「珊瑚?」
すぐに弥勒が気づいて振り向く。
「どうした?」
「あ、足が動かない……身体が、どこかへ引き寄せられる」
「え?」
珊瑚を攫ったタケルという童子は、浮き島のものを口にした人間の身体は浮き島に馴染み、自然に里へと引き寄せられると言っていた。
洞穴や橋が消滅するように、珊瑚の身体もこの世界から消え、童子たちの属する世界へ行ってしまうのだろうか。
「珊瑚、とにかく歩くんです。この橋さえ渡り切ればいいんですから」
「駄目、本当に動けない……」
切羽詰まった珊瑚の表情に言い知れない不安を覚え、弥勒は彼女を抱きかかえて橋を渡ろうとしたが、それには錫杖が邪魔だ。
迷っている時間はない。
弥勒は行けるところまで前へ進み、向こう岸に、まず錫杖だけを投げて渡した。
揺れる橋を引き返すと、彼は立ちすくむ珊瑚に手を伸ばす。
「珊瑚、ゆっくりこちらへ来るつもりで手を伸ばして。私がおまえを運びます。私を信じてください」
「法師さま……」
恐怖と混乱に強張った表情で、珊瑚は法師を見つめた。
そろそろと手を伸ばし、だが、そのとき、弥勒は抱きかかえようとした珊瑚の輪郭がぶれていることに気がついた。
注意しなければ判らないほどのわずかなものだが、浮き島に引き寄せられる彼女の身体は、確実に属する世界をこちらからあちらへと移そうとしている。
「行くな、珊瑚──!」
はっとした弥勒は、足場の悪さも忘れて、珊瑚の身体を抱きしめていた。
橋桁の一部が崩れた。
抱きしめた彼女の身体が藁で作った人形くらいの手応えしかないことに愕然とする。
彼女もまた、かずら橋と同じようにきらきらと月光に溶けていきそうで、それを阻止するために、崩れる橋の中央で、弥勒は力の限り珊瑚を抱きしめ、夢中で唇を重ね合わせた。
珊瑚は弥勒にすがりつき、それだけがよすがのように、彼の激しい口づけと抱擁に必死に応えた。
天上が、夜の色から明けの色へ、白く淡く徐々に光を帯びていく。
橋桁が崩壊の一途をたどる。
交わす口づけに気が遠くなる。
ゆっくりと、かずら橋が朽ち、全てのかずらが金の砂塵となって崩れ落ちたとき、二人は空中に投げ出された。
* * *
激しい水音とともに、水飛沫が二人の身体を呑み込んだ。
抱き合ったまま、真っ逆さまに落ちた渓流はかなりの深さがある。
水底に叩きつけられなかったのは幸運だ。
とにかく抱いている珊瑚の身体を放さないよう、それだけを意識し、弥勒は流されるままに急流に身を委ねた。
気のせいか、橋の上で抱きしめたときより、腕の中にいる珊瑚の手応えがはっきりしている。
いくらか流れが緩やかになったところで、珊瑚の身体をしっかりと抱え、弥勒は岸へと泳ぎついた。
水から上がった二人は、あちこちに擦り傷を負い、びしょ濡れではあったが、意識ははっきりしていた。その場に崩れるように座り込み、肩で息をし、やがて、互いに互いの様子を窺う。
距離を詰め、珊瑚の両頬を両手で包み込んだ弥勒は、彼女の顔をじっと見つめた。
恐怖から解放された安堵からか、弥勒を見つめる珊瑚の瞳は涙をこらえ、潤んでいた。
無言で見つめ合ううち、込み上げてくるものがあって、両手で包んだ珊瑚の顔を引き寄せるように、弥勒は愛しい娘の唇を奪った。
「法師さま……あたし、身体が引きずられるような感覚が消えた。川を渡ったから、もう大丈夫なの?」
「川──そうか」
弥勒は娘の濡れた額髪を払い、彼女を見た。
「川は“境界”、流れは“祓え”を意味する。珊瑚の呪縛が解けたのは、流れに落ちたせいかもしれません」
「そんなことで、呪縛が祓えるの?」
「普通は無理でしょう。流れで祓うのはいにしえからの儀式だが、実戦向きではない。だが、それで呪縛が解けたのだとしたら、彼らはかなり古い術を用いていたのだと思われます」
珊瑚はふと眼を伏せた。
「うん……きっと、何百年も続く、あの里だけのやり方があるんだ」
異界との最後のつながりを断ち、川を越え、今、二人はやっとこちらの世界へ戻ってこれたのだ。
法師と娘は見つめ合い、もう一度、固く抱きしめ合った。
白々とした夜明けの中を、錫杖を取りに、二人はかずら橋が掛けられていたあの場所へ戻った。
無事に錫杖を見つけ、珊瑚は名主の娘からの文を確かめる。
水に落ちたため、ほとんど解読不能だったが、いくつかの文字はかろうじて読むことができた。
本人が書いたものであることは認めてもらえそうだ。
「名主様へは何と説明しよう」
弥勒に問われ、珊瑚は少し考える。
祝言から逃げるため、浮き島という閉じられた里の鬼に嫁ぐことを決めたなど、そんな話は信じてもらえないだろう。
「名主様の娘は、密かに相思相愛の相手がいたことにする。だから祝言が嫌で、遠くへ駆け落ちしたって。滲んではいるけど、この文の筆跡を見せれば、ある程度は納得してもらえると思う」
弥勒はうなずいた。
「ああ、そうだな」
「……法師さま」
彼女の瞳が求めるものを察し、弥勒は珊瑚と唇を合わせた。
何度唇を重ねても、足りない気がする。
「ありがとう、法師さま。あたしを助けに来てくれて」
もう駄目かもしれないと思っても、弥勒があの里まで来てくれたことで、どんなに心強かったかしれない。
「礼など言わなくていい。珊瑚をどうしても助けたかったのは、私の事情でもありますから」
「法師さまの事情?」
「珊瑚を他の男に渡したくない、ただそれだけですよ」
さりげなく彼女を見遣った弥勒の視線の意味を思い、急に恥ずかしくなって、珊瑚は頬を染めてうつむいた。
二人は視線を朝日を浴びる渓谷の向こう側へと向けた。
渓谷の向こうはただの岩壁。
山の中の、豊かな緑に囲まれた、切り立った崖だ。
かずら橋も異界への入り口の裂け目もなく、全ての出来事が幻であったかのようにすら感じられる。
鬼たちの里も朝を迎えただろうか。
彼らはあの岩壁の向こうに本当に存在したのだろうか。
どちらからともなく指先を絡めた弥勒と珊瑚は、寄り添い、黎明の光が満ちる空を見上げた。
浮き島は、今、どこを漂っているのだろうか。
≪ 第五話 〔了〕
2013.6.8.
匿名さんから、「妖怪に惚れられた珊瑚ちゃんが攫われ、珊瑚ちゃんを必死に助けようとする法師さま」
というリクエストをいただきました。ありがとうございました。