浮き島奇譚 −第五話−

 天上には大きな満月がぽっかりと浮かび、静まり返った里を仄白く照らしている。
 夜の大気は、まるで月華で織られた紗に包まれているようだった。
 珊瑚は、昼間歩いた里の様子を思い出しながら、法師が捕らわれているという納屋を探した。
 気配を消し、里の者に気取られぬよう注意しながら、それらしき建物をいくつか見当をつけて調べると、果たして、里の一番外れの納屋に彼はいた。
 見張りの童子はいないようだ。
 そっと扉を開けて中へ入ろうとした珊瑚は、納屋の梁にあの朱い鳥が二羽いるのを見てぎょっとした。だが、襲ってはこないようだ。
 彼女は音もなく中へ滑り込み、弥勒の傍らに膝をついた。
「法師さま」
 弥勒は後ろ手に縛られた手首の縄を納屋の柱にくくりつけられ、ぐったりと眼を閉じていた。
 まだ、意識がはっきりしないのだろうか。
「法師さま、しっかりして」
 珊瑚は彼の肩に触れ、小さな声でささやきかけた。
 弥勒の眼が少しずつ開かれる。
「……珊、瑚……」
 彼女の顔を瞳に映した法師は、かすれた声で、けだるそうに微笑した。
「情けないな。おまえを助けに来たはずが、この様だ。私の処分に来る里人の隙を突こうと思っていたが、おまえに先を越されたな。珊瑚は無事か? 怪我などないか?」
 珊瑚はうなずき、乾いた血がこびりついた彼の唇を指先でそっと撫でた。
「血が……法師さま、傷だらけ」
「指ではなく、唇で触れてくれたら、すぐに元気が出ると思うのですが」
 珊瑚を元気づけるため、弥勒は冗談めかして軽く言ったが、珊瑚はたちまち表情を曇らせた。
「どうかしましたか?」
「あたし──あたし、法師さまを裏切ってしまった……」
「珊瑚?」
 今にも泣き出しそうな顔になった彼女の様子に、弥勒は不吉なものを感じ、表情を強張らせた。
「あいつに、何かされたのか……?」
「あたし……タケルと、祝言の盃を交わした」
 弥勒は思わず眼を見張る。
 心臓が凍りつくような混乱を覚えたが、弥勒は必死に言葉を繋いだ。
「理由があるのでしょう? おまえが私を裏切るはずがない。私を殺すと脅されたのか?」
 珊瑚は力なく首を横に振る。
「法師さまをもとの村に帰すという条件で、盃を受けた。でも、それを呑んだあと、それが固めの盃だと知らされて」
「そんな話があるか!」
 腹立たしげに法師は吐き捨てた。
「珊瑚が認識していなかったのなら、祝言は成立しない。言いがかりも甚だしい。そんなものは無効だ!」
「でも、あたしが了承しなければ、法師さまは……」
 弥勒はふと怒りを隠して、惑乱する珊瑚の瞳を見つめた。
「攫われた娘たちを連れて、一緒にこの里を離れよう。少々時間がかかっても、必ず……」
「法師さま、時間はないんだ。それを知らせに来たの。この里は浮き島といって、閉じられた空間に在る。あたしたちがもといた場所につながる道は、夜明けまでに閉じるから、それまでに外へ出ないと、二人ともこの里に閉じ込められる」
「なんだって?」
 珊瑚は、タケルから聞いたこの浮き島の形態を法師に告げた。
「では、娘たちを助ける時間は……」
「縄を解くね。法師さま、動ける?」
 きつく縛られた弥勒の手首を縄を解こうと、珊瑚は弥勒の斜め後ろに廻った。
「娘たちとは、少しだけ言葉を交わした。みんな、この里へ嫁ぐ意思が固まっている様子で、説得しても、たぶんこの里に残ることを選ぶと思う。名主様の娘からは家族に宛てた文も預かった」
「そう……か」
 弥勒は考え込むように顔を少しうつむかせ、視線を斜め下へ向けた。
「では、私たちは夜明けまでにこの里を出なければならんな。道は私が覚えている。──錫杖がここにないが」
「錫杖は法師さまが殴られたあの場所に打ち捨てられたままだと思う。里の童子は法力で縛されることを恐れているから、迂闊に触ろうとする者もいないだろう」
 縄の結び目の固さに珊瑚は顔をしかめた。
「珊瑚、慌てなくていい」
「うん。切ったほうが早いね」
 右腕に仕込んだ刀を使おうとしたとき、
 トッ──
 と、珊瑚の膝の傍らに、背後から飛来した短刀が突き立った。
「!」
 振り向くと、納屋の入り口に、青みを帯びた髪を月光に照らされて、タケルが立っていた。
「それを使え」
 警戒の色を濃くする二人に、タケルは静かな口調で淡々と言った。
「法師は見逃そう。だが、珊瑚との祝言は成った。珊瑚はここに残れ」
「あたしは法師さまと行く。おまえの盃を受けてしまったことを、法師さまが許してくれるなら、あたしが法師さまから離れなければならない理由はない」
 珊瑚は手早く短刀を使い、法師を拘束している縄を切っていった。
 弥勒は射るようにタケルを見据え、少しふらつきながらも、まだ完全に回復したわけではない身体を珊瑚に支えられ、立ち上がった。
「タケルといったな。人間の娘たちを、双方の同意のもとに嫁として一族に迎え入れるつもりなら、それ相応の待遇を望む。だが、珊瑚だけは渡すわけにはいかん」
 珊瑚はちらと事態を静観している二羽の鳥を見上げた。
 真朱色の躯とススキの穂のような長い尾羽は、夜目にも目立つ。
「法師さま、あの鳥はあたしが引き受ける。あたしには喰われる法力も霊力もないから」
「油断するな、珊瑚。わずかだが精気も一緒に吸い取られる。ある程度標的に近づかなければならんようだが、抜け落ちた羽にまで妖力が宿るような鳥だ。思うように動けなくなるぞ」
「羽?」
 タケルがわずかに眼を見開いた。
「なるほど、羽か。こいつらは帰巣本能が強いからな」
 くっと笑い、タケルは珊瑚をまっすぐ見つめた。
「珊瑚、おまえもだ。浮き島のものを口にした以上、里の外へ出たとしても、身体が自然にここへ引き寄せられる」
「浮き島のもの……?」
 一瞬の間を置いて、珊瑚ははっとする。
──酒!」
「珊瑚、はったりだ!」
 震えを帯びる珊瑚の身体を、弥勒が両手でしっかりと支えた。
「鬼は人間より長寿で強靭だ。浮き島に嫁いできた女たちは、この里に暮らし、この里のものを食べるうち、身体が里に馴染み、童子に合わせて老いる速度が緩やかになる。自分が人間であることは忘れないが、嫁ぐ前の記憶はやがて曖昧になる」
「あたしもそうなるっていうの……?」
 一歩後退さろうとした珊瑚の両肩を、弥勒は励ますように強く掴んだ。
 精神的に追いつめられやすい珊瑚を支えるため、自分は冷静で居続けなければならないと弥勒は思った。
「あ、あたしは、法師さまや琥珀やみんなを忘れない!」
「惑わされるな、珊瑚。たかが盃の酒を呑んだだけだ。何があっても、私は珊瑚を離さないし、私の珊瑚への想いは変わらない」
 娘ははっと我に返り、すがるような眼で法師の顔を見た。
 弥勒はやさしくうなずく。
 梁に羽を休めるすんなりとした朱い鳥たちが、突然、耳障りな声で啼き交わした。
 ふと、タケルが視線を横へ向けた。
「おれがいないことに里の者たちが気づいたようだ。法師。珊瑚をここへ残せば、見逃してやるぞ」
「見くびるな!」
 タケルから視線を離さず、弥勒は叫んだ。
 そして、小声で珊瑚に大丈夫かと尋ねると、娘は気丈にうなずいた。
「里の中の地形は解るか?」
「うん。昼間、里を巡ったから、だいたいは頭に入っている」
「では、錫杖を落とした場所まで導いてくれ。そこから先は私が覚えている。もとの村へ続く洞穴までは枝折りを辿って行けばいい」
「解った」
 言うと同時に、珊瑚はタケル目掛けて鋭く短刀を投げつけた。
 当然、かわされたが、彼が身を引くと同時に、その扉から弥勒と珊瑚が外へと飛び出す。
「法師さま、こっちだ」
 鳥が羽ばたき、一羽が伸ばされたタケルの腕に、一羽が納屋の屋根にとまった。
 妖鳥は夜の暗闇でも物が見えるようだ。
 タケルと鳥たち、弥勒と珊瑚は、互いの動きに神経を尖らせ、牽制しあっている。
「珊瑚。鳥たちはこちらの間合いに入らせなければ、離れた位置から“気”を喰うことはできん」
「うん」
 向こうから、深草を先頭に、武器を手にした男たちが数名、駆けつけてきた。
「タケル、すまん。おれが気を抜いたばかりに……」
 タケルが来るまで珊瑚を見張っていた男が蒼白になって詫びると、タケルはちらりとそちらを見たが、すぐに視線を法師と珊瑚に戻した。
「見張りはいいと言ったのはおれだ。二人を逃がしたのは、おれの落ち度だ」
 弥勒の法力は完全ではない。
 破魔札はあるが、それを使おうにも法力を喰う鳥がいる。攻撃は無に帰すだろう。
「……珊瑚、最後の手段だ。おまえは絶対に私の前へ出ないように」
 その言葉で、珊瑚は全てを了解した。
「この後ろの道をまっすぐだよ。錫杖はあたしが拾っていく」
 小さくうなずき、弥勒は右手の数珠に手をかけた。
 法師の動きを警戒したタケルが、腕にとまらせていた真朱を放つ。
 納屋の屋根にいたもう一羽の鳥・東雲も、優雅に羽ばたき、法師を狙って降下してきた。
「風穴っ──!」
 その瞬間を狙って、弥勒が右手の風穴を開く。
 突如、凄まじい風音に呑まれ、鳥たちと納屋の一部が、あっという間に弥勒の右手に吸い込まれた。
 タケルをはじめ、浮き島の童子たちは、得体の知れない力を目の当たりにして愕然となる。
「何だ、あの力は──! 法力ではない……?」
 弥勒が数珠で風穴を封じると、タケルは片手を水平に上げて、色めき立つ仲間たちを制した。
「この手の風穴は全てを吸い込む。里の家々も、おまえたちも。吸われたくなかったらそれ以上前へ進むな」
 法師は右手を構えたまま、鋭く童子たちを見据えて言った。彼の背後で、珊瑚も彼らの出方を見ていた。

「タケル……!」
 男たちは判断を仰ぐためにタケルを見た。
 タケルは無表情で立ちつくしているが、青い瞳は悔しげに伏せられていた。
「おまえたち。今いる場所から動くな」
「タケル!」
 驚いた深草が仲間の間を抜けてタケルに駆け寄った。
「いいのか? あの法師を逃がしても」
「あいつがこの里へ辿り着いた方法は解った。ただの偶然だ。真朱が羽を残してしまったらしい」
「あの娘、珊瑚はどうする。惚れているんだろう? おまえなら一瞬で法師の間合いに踏み込める。おれが援護するから、法師さえ消せば」
「それでも、ここにいる者を含め、里の全てを守れる保証はない。真朱と東雲には可哀想なことをした。だが、これ以上、徒に犠牲を出すことはできない。それに、法師は帰すと約束を」
「約束?」
 はっとしたタケルは深草を見遣り、何でもない、とつぶやいた。
「おれは浮き島の長だ。おれ一人の都合で里を丸ごと潰すわけにはいかない。もとはと言えば、おれが珊瑚に執着したせいなんだ。珊瑚を無理やり連れてこなければ、法師も真朱の羽を手に入れることはなく、里を危険にさらすこともなかったはずだ」
 タケルの視線の先にいる、凛然とした可憐な娘を見遣り、深草はさらに声を低くした。
「大丈夫、連れてきた人間の娘たちがいる。あの娘たちがいれば、法師は右手をこちらへ向けることができないだろう」
 タケルは愕然と眼を見張った。
「次代の童子を産む大切な女たちだぞ。祝言こそまだだが、娘たちはもう、おれたちの一族に加わったんだ。盾になどできるはずないだろう」
「実際に盾に取らずとも、娘たちの存在を仄めかすだけで、法師を牽制できる。まさか娘たちを犠牲にはすまい」
 深草は、タケルには兄弟同様の幼馴染みだ。タケルが里の長となった今も、よく補佐してくれる。友として兄として、タケルは深草を尊敬していた。
 だが、冷徹ともいえる深草の提案を、タケルは拒否した。
「浮き島の長としての命令だ! 誰一人として、これ以上前へ進むことは許さん!」
 声高くタケルは命じた。
 己が我を通すことで得られるのは珊瑚の身体のみ。
 仲間たち、嫁入ることを承諾してくれた娘たち、全ての里人の信頼を失い、そして、珊瑚の心も永遠に失う。
 浮き島は崩壊するだろう。
「珊瑚、行きましょう」
「うん」
 数珠を腕に巻き付け、場の様子を見ながらじりじりと後退さる弥勒に従い、珊瑚も身を翻そうとした。そのとき、珊瑚とタケルの目が合った。
 刹那、ふっと表情を緩めたタケルの眼があまりにやさしくて、珊瑚の足がすくむ。

 ──どうしたら、おれがおまえに惚れていると信じてくれる?──
 ──あたしを法師さまと一緒にもとの村へ帰してくれたら──

 あの言葉を、タケルは守ろうとしているのだろうか。
「珊瑚、急いでください!」
 はっとして我に返った珊瑚は、山へ続く道を行こうとしている弥勒のあとを慌てて追った。
(これは賭けだ)
 心の中で、タケルはつぶやく。
(たったひと口の酒にどれほどの効果があるのか判らない。だが、それは、珊瑚がここへ戻ってくる可能性が、わずかだが残されているということだ)
 珊瑚の身がこの里へ引き戻されればタケルの勝ち。何事もなく地上へ戻ることが叶えば、法師の勝ちだ。

 長の命に従い、この夜、童子たちが法師と珊瑚を追うことはなかった。

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2013.5.27.